2014年03月22日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その6
次はプロダクトデザイン専攻コースの作品から。
じつは、プロダクトデザインはじぶんがとても楽しみにしている分野である。
いつも時間が足りなくなっていい加減な見方しかできないのが残念だが、印象にのこった作品を紹介しておきたい。

梅村卓実「木製振子時計」
「gismo」と名づけられた木製の大きな振子時計。内部の歯車などの機構も木製で、その複雑な工作に目を見張らされる。
完成品の横に内部機構の仕組みを見せる部分的な作品が展示され、作者が実演しながら解説していた。たとえば、時報は金属の球がその時刻の数だけ鐘に当たって鳴らすのだが、その数と間合いを計るための仕分けの仕組み、そして一度落ちた球を再度上に上げる仕組みなどに興味を引かれた。
この機構が作者自身の発想から生み出され、この作品が作者自身の手でデザインされ組み立てられたとすれば、この作者は学生にしてすでに大変なエンジニアであり、優秀なクラフトマンでもあるだろう。

木屋彰「AirRing」
一言で言うと、丸いワッカ型のスピーカーである。
ちょうどダイソン社のエアマルチプライアー(縦長のワッカ型で羽根のない扇風機)を想像し、そのワッカが円形になっているような物体を思い浮かべて欲しい。このスピーカーは東北パイオニア社からすでに製品化されているとのこと。展示会場で実際に音も聴くことができたが、まさに何もないように思われる空間から音が生まれて、それが周囲に広がっていく感覚が新鮮だった。(ただし、音質と音量が十分なものかどうかは会場では判別できなかった。)

鈴木天明「Feel Motion OLED」
パネル状のLED照明器具が3個ずつ1組で3組、壁に設置されている。手元のダイヤル型のチャンネルを回したり押したりすると、その操作に反応してLED照明の形態や色が変化する。つまりロボットの手(または植物の花弁)が開くような感じで開いたり、照度や色彩が穏やかに変化したりする。変化する照明機器と変化させるダイヤル型の操作端末の双方が、品格を持ったデザイン作品として成立している。

遠藤和輝「Luce(ルーチェ)」
これもLEDの照明器具。数センチ四方のブロック型の照明が、枝分かれしたポールに磁石で張り付いている。各ブロックは付け外しが自由自在にできるので、ポールのどこに何個付けるか自由にアレンジできる。小電力で発光するLEDの長所を、スタイリッシュなデザインに活かしている。卓上の洒落たインテリアという感じである。

後藤彩「スロウリー」
プラスチックか塩ビか、そんな素材で作られた球が、卓上型のスロープの上を転がっていく。
しかし、その転がり方がじつにゆっくりで、40~50センチくらいの長さの坂を1~5分かけて行くのである。要するに砂時計の「球転がし版」といったところである。球の中には粘度の高い液体と丸い錘が入っているという。
機能としては何か作業をする際に利用するタイマーであるのに、インテリアとしてじっと見つめていてしまいそうな感じがする。そう、これは、じっと見つめることで自分の中の時間の流れを可視化する装置なのだ。・・・そう思うと、なんだか見つめているのが恐くなる。

高野拓美「STEUP」
バッテリーをカセット化した電動バイクのデザイン。たとえば、走行距離が少ないバイクの初心者はカセット型のバッテリーを1個搭載した形で、中級者はバッテリーを2個、上級者は3個搭載した形になるというもの。使用の仕方の変化に応じてバッテリーが増減し、バッテリーの増減に応じてバイクのデザインが変化する。そこがこの作品のミソである。

宍戸貴紀「経験する音」
四角い枠に張られた布を押すと、圧迫を受けた部分がほのかに光り、その押し方に応じて音が変化する。押す強さで音の大きさが変化し、押す場所で音色が変化する。
音楽やダンスのライブ・パフォーマンスなどで使うと、面白い効果を生み出しそうである。
プロダクトデザイン専攻コースの作品は総じてうまく纏められており、どの作者も真面目にデザインに取り組んでいるという印象を受けた。
次回(最終回)は、企画構想コースの作品について触れる。
じつは、プロダクトデザインはじぶんがとても楽しみにしている分野である。
いつも時間が足りなくなっていい加減な見方しかできないのが残念だが、印象にのこった作品を紹介しておきたい。

梅村卓実「木製振子時計」
「gismo」と名づけられた木製の大きな振子時計。内部の歯車などの機構も木製で、その複雑な工作に目を見張らされる。
完成品の横に内部機構の仕組みを見せる部分的な作品が展示され、作者が実演しながら解説していた。たとえば、時報は金属の球がその時刻の数だけ鐘に当たって鳴らすのだが、その数と間合いを計るための仕分けの仕組み、そして一度落ちた球を再度上に上げる仕組みなどに興味を引かれた。
この機構が作者自身の発想から生み出され、この作品が作者自身の手でデザインされ組み立てられたとすれば、この作者は学生にしてすでに大変なエンジニアであり、優秀なクラフトマンでもあるだろう。

木屋彰「AirRing」
一言で言うと、丸いワッカ型のスピーカーである。
ちょうどダイソン社のエアマルチプライアー(縦長のワッカ型で羽根のない扇風機)を想像し、そのワッカが円形になっているような物体を思い浮かべて欲しい。このスピーカーは東北パイオニア社からすでに製品化されているとのこと。展示会場で実際に音も聴くことができたが、まさに何もないように思われる空間から音が生まれて、それが周囲に広がっていく感覚が新鮮だった。(ただし、音質と音量が十分なものかどうかは会場では判別できなかった。)

鈴木天明「Feel Motion OLED」
パネル状のLED照明器具が3個ずつ1組で3組、壁に設置されている。手元のダイヤル型のチャンネルを回したり押したりすると、その操作に反応してLED照明の形態や色が変化する。つまりロボットの手(または植物の花弁)が開くような感じで開いたり、照度や色彩が穏やかに変化したりする。変化する照明機器と変化させるダイヤル型の操作端末の双方が、品格を持ったデザイン作品として成立している。

遠藤和輝「Luce(ルーチェ)」
これもLEDの照明器具。数センチ四方のブロック型の照明が、枝分かれしたポールに磁石で張り付いている。各ブロックは付け外しが自由自在にできるので、ポールのどこに何個付けるか自由にアレンジできる。小電力で発光するLEDの長所を、スタイリッシュなデザインに活かしている。卓上の洒落たインテリアという感じである。

後藤彩「スロウリー」
プラスチックか塩ビか、そんな素材で作られた球が、卓上型のスロープの上を転がっていく。
しかし、その転がり方がじつにゆっくりで、40~50センチくらいの長さの坂を1~5分かけて行くのである。要するに砂時計の「球転がし版」といったところである。球の中には粘度の高い液体と丸い錘が入っているという。
機能としては何か作業をする際に利用するタイマーであるのに、インテリアとしてじっと見つめていてしまいそうな感じがする。そう、これは、じっと見つめることで自分の中の時間の流れを可視化する装置なのだ。・・・そう思うと、なんだか見つめているのが恐くなる。

高野拓美「STEUP」
バッテリーをカセット化した電動バイクのデザイン。たとえば、走行距離が少ないバイクの初心者はカセット型のバッテリーを1個搭載した形で、中級者はバッテリーを2個、上級者は3個搭載した形になるというもの。使用の仕方の変化に応じてバッテリーが増減し、バッテリーの増減に応じてバイクのデザインが変化する。そこがこの作品のミソである。

宍戸貴紀「経験する音」
四角い枠に張られた布を押すと、圧迫を受けた部分がほのかに光り、その押し方に応じて音が変化する。押す強さで音の大きさが変化し、押す場所で音色が変化する。
音楽やダンスのライブ・パフォーマンスなどで使うと、面白い効果を生み出しそうである。
プロダクトデザイン専攻コースの作品は総じてうまく纏められており、どの作者も真面目にデザインに取り組んでいるという印象を受けた。
次回(最終回)は、企画構想コースの作品について触れる。
2014年03月14日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その5
次は映像を扱った作品及び映像専攻コースの作品から。



Salome MC「ビデオとサウンドによる3つの意識様式の実験探検」
作者Salome MCは実験芸術専攻の大学院生。この作品は、スイスの精神科医Ludwig Binswanger(1881~1966)が提起した三つの世界概念に対応して制作されている。
作者によれば、ビンスワンガーは、存在の意識に3つのレベルを想定。一つめは、自分と心理学的な世界(自分)との関係<Eigenwelt>、二つめは、人間と物理的世界(自然など)の関係<Umwelt>、三つめは、人間と実社会(他の人間)の関係<Mitwelt>、である。
一つめの「アイゲンヴェルト」の世界で作られた作品は「CONCEALMENT」(隠蔽)と題されている。画像で後ろに見える女(イスラム教徒の女性のような衣装を身に付けている)が伴奏的な旋律を歌い、その前に映る飾りをたくさん着けた女が主旋律のスキャットを歌うシーンが最後まで続く。
作者は、作品に添えられたコメントで「自分にしか明確でない、自作の言語を音楽として実験しました。映像の制作過程でも、一人で、自分のスタジオで制作しました。(中略)アーティストの中の世界をわからないと理解ははっきりできない作品になって、共感できる人は少ないです。」と述べている。
二つめは「ウムヴェルト」の作品で、「ETERNAL RETURN」(永遠のリターン)と題されている。
作者は、「人間と人間のコミュニケーションのための言語を使わず、自然の音と人間の声を組み合わせました。映像の制作過程では、山で撮影を通して、人間と自然の力を取り混ぜました。他の人との相互作用は不要でした。」と述べている。全体に出羽三山のイメージを取り入れ、羽黒山(?)の石段で舞う女のシルエットが現れたり消えたりするシーンをメインして、ここに掲載した画像のように五重塔と太鼓を用いた踊りがオーバーラップするシーンが挿入されている。
三つめは「ミットヴェルト」の作品で、「Price Of Freedom」(自由の代償)と題されている。
場末の町の片隅で、主に女性が、アラビア語でラップを歌う場面で構成されている。
作者は、「他のミュージックジャンルと比べたら、言語を一番利用している現代の『ヒップホップ』のジャンルを使いました。映像の制作過程では、一人ではなく、チームで活動して、色々な人の気持ちと才能を編み込むことで、作品を完成しました。視聴者には一番わかりやすい作品は、やっぱりこの作品なのかもしれません。ここから、ここにはアートか、エンターテイメントかと言う疑問も出て来ます。」と言っている。
じぶんの感想を言えば、作者が語っているのとは逆で、「CONCEALMENT」がこの先にいちばん期待を抱かせ、「ETERNAL RETURN」はちょっと平凡で(そもそも羽黒山の参道は「山」でも「自然」でもない)、「Price Of Freedom」は「チームで活動」して制作したラップのビデオということを除けば、どこがどのように<Mitwelt>を表現しているのか分からなかった。(つまり、単なる“野外演技とその撮影”というように見えてしまった。)
しかし、全体として映像の技術や音楽と美術の構成に優れており、作者の才能を感じさせるものに仕上がっている。
せっかくビンスワンガーを引用しているのだから、ぜひ映像と音楽で<現存在>を浮かび上がらせるような作品を制作してほしい。
次は映像専攻コースの作品を振り返ってみる


齋藤香「深呼吸のオノマトペ」(人形アニメーション)
社会に適合できず引き篭もる男。投げやりになり、心配する母親に冷たく当たってしまう。
ある日、彼に幻覚が現れる。改造人間ならぬ改造アライグマみたいなものがやってきて、彼の心の中の胎児を救う。すると男は元気を取り戻す・・・物語の展開は単純だが、(ただし心の中の胎児が具象的なものとして出てくるのでそこだけはギクリとする)、アニメ用の人形の造形がとても巧みで、カメラアングルや照明の当て方なども秀逸である。作者の拘りか、男の吐瀉物や流した涙がゾル状になって生き物のように動きまわるところが印象的。人形アニメの特長がうまく活かされている。


安達裕平「 Radio Calisthenics No.1 」「 The Unexpected form 」
前者は「3Dスキャンした部屋と人間のデータに3DCGソフト上で関節を設定し、別途キャプチャしたラジオ体操のモーションデータによって無理やり動かした」という映像。部屋の中の人間がラジオ体操する動きにつられて、部屋の壁が捻れたり伸びたりして変形する。
後者には、「物の形を構成する面を徐々に削減していく機能であるポリゴンリダクションを用い歩く男が単純な形状になっていく様を映像と3Dプリンタによって表現した」と解説が付してある。
3Dプリンタによる、謂わばコマ送りのように並んだ人形の展示と、「歩く男が次第に単純な形状になっていく」映像の上映が組み合わされている。
どちらも作品というより技術的なデモンストレーションという印象だが、身体感覚変容への願望を表現していると思えば作品なのだと合点がいく。
つまり、前者は、自分の身体が周りの事物に繋がれているかのような不分明な被拘束感のなかで、空間ごと無理やりにでも手足を自由に動かしたいという願望。後者は、歩いているうちにいつの間にか自分の具体性が削ぎ落とされていくような退行への願望(あるいは畏れ)・・・のようにみえる。
上記のほか、映像コースの作品で観ることができたのは、以下のとおり。ただし、ここにアップできる画像はない。映像作品に関しては、その内容に対する評価とはべつに、じぶんが観た作品すべてについて、メモと記憶を頼りにコメントする。
なお、卒業制作としての劇映画も何作品か上映されていたが、ここに取り上げた作品とは違う会場だったことと時間が足りなかったことで1本も見ることができなかった。
阿部和久「mother」「無人駅」
前者は、石造りの城郭をゆっくりと歩き出て、池に沈んで行く老いた狼を描いたCG作品。後者は、水面にそこだけぽっかりと顔を出している駅のホームに腰掛けているセーラー服の少女と、彼女を乗せにやってくる電車を描いたCG作品。動画は洗練されていないが、これという場面展開がないまま淡々と流れる映像で、登場人物(及び登場狼)の心情をうまく想像させる構成になっている。
近野菜々「good luck to you」
自走砲が森の中を進んでいくうちにエンコして、やがて風化し、草に覆われるまでを描くCG作品。
コメントにある「風化することは異物が自然の一部になること」「命のあるものもないものも自然が包容する」と言いたくなるココロは分かるが、実際問題としては、「異物」=人工物を自然の中に放置して自然環境にいいことはあまりない。「廃棄物処理法違反だよ!」と突っ込みも入れたいところである。

新田祥子「処女解体」
機械のハンドが、生きた(?)人間の体から内臓をひとつずつ取り出していく様を描いたCG作品。内臓が取り出されるたびに女のよがり声が流れる。また、よがり声にあわせて内臓がひくひく動く。
内臓や人体の画像がリアルでない分だけ(パロディ)作品として成り立つように思うが、それにしてもなぜ若い女性がこのような作品を作るのか、その動機をいろいろと想像してしまう。そういう想像をさせることを狙った作品だとすれば、この作品は成功していると言えるかもしれない。

齋藤威志「Memoroid」
少女風のロボット(?)の頭にUSBがひとつずつ差し込まれていくCG作品。USBのひとつひとつが特定の人間の記憶や思い出になっている。頭にUSBがたくさん差し込まれると、ちょうど見た目がツタンカーメンの棺に描かれているようなアタマになる。
固有の記憶をもたない存在の哀しみを描こうとしたのかもしれないが、このような存在ならむしろ大いにうらやましい。というのも、じぶんなどは毎日のように過去の記憶のフラッシュバックに苦しめられているからだ。記憶がUSBに記録されているものなら、そのUSBを外せば嫌な記憶とおさらばできる。こんな素晴らしいことはない。
山内大治「はりぼてCG」
多数の板状のポリゴン(CGで立体画像を構成する多角形)が、如何にもこれはCGですよ~とばかりに手前から遠方へ向かって流れていく。 すると最後の一瞬でそれらが組み合わされ、具体的な像(見慣れた建物の風景)が現れる。
CGならではの作品だが、上記の「最後の一瞬」が来るのか来ないのか、来るとすればそれはいつかという問題に直面させられる。遠近法の世界でポリゴンが向うに流れていくシーンが長く続くので、いつ終わるのかな・・・と、じっと待っているのが辛くなる。
井上弘大「changing」
人型ロボットが、粘土のようなものでいくつも少女の頭部を形作っていく様を描いたCG作品。
このロボットは理想の少女像を求める作者のようでもあるが、その理想像がメモリのなかにデータとしてあるとは限らないようでもある。
理想の少女像もしくは理想の女性の外見を頭の中に描けるというのは、若い男の特権かもしれない。
そういう理想像を描けない、あるいは描く必要のない男の方が多いのではないか。ちなみに、じぶんは描く必要のない男のひとりである。なぜなら、そこにいる具体的な女性に惚れれば、その女性が理想像(すくなくとも部分的には理想を叶えた存在)に思えてくるからである。
次回はプロダクトデザイン専攻コースの作品を取り上げる。



Salome MC「ビデオとサウンドによる3つの意識様式の実験探検」
作者Salome MCは実験芸術専攻の大学院生。この作品は、スイスの精神科医Ludwig Binswanger(1881~1966)が提起した三つの世界概念に対応して制作されている。
作者によれば、ビンスワンガーは、存在の意識に3つのレベルを想定。一つめは、自分と心理学的な世界(自分)との関係<Eigenwelt>、二つめは、人間と物理的世界(自然など)の関係<Umwelt>、三つめは、人間と実社会(他の人間)の関係<Mitwelt>、である。
一つめの「アイゲンヴェルト」の世界で作られた作品は「CONCEALMENT」(隠蔽)と題されている。画像で後ろに見える女(イスラム教徒の女性のような衣装を身に付けている)が伴奏的な旋律を歌い、その前に映る飾りをたくさん着けた女が主旋律のスキャットを歌うシーンが最後まで続く。
作者は、作品に添えられたコメントで「自分にしか明確でない、自作の言語を音楽として実験しました。映像の制作過程でも、一人で、自分のスタジオで制作しました。(中略)アーティストの中の世界をわからないと理解ははっきりできない作品になって、共感できる人は少ないです。」と述べている。
二つめは「ウムヴェルト」の作品で、「ETERNAL RETURN」(永遠のリターン)と題されている。
作者は、「人間と人間のコミュニケーションのための言語を使わず、自然の音と人間の声を組み合わせました。映像の制作過程では、山で撮影を通して、人間と自然の力を取り混ぜました。他の人との相互作用は不要でした。」と述べている。全体に出羽三山のイメージを取り入れ、羽黒山(?)の石段で舞う女のシルエットが現れたり消えたりするシーンをメインして、ここに掲載した画像のように五重塔と太鼓を用いた踊りがオーバーラップするシーンが挿入されている。
三つめは「ミットヴェルト」の作品で、「Price Of Freedom」(自由の代償)と題されている。
場末の町の片隅で、主に女性が、アラビア語でラップを歌う場面で構成されている。
作者は、「他のミュージックジャンルと比べたら、言語を一番利用している現代の『ヒップホップ』のジャンルを使いました。映像の制作過程では、一人ではなく、チームで活動して、色々な人の気持ちと才能を編み込むことで、作品を完成しました。視聴者には一番わかりやすい作品は、やっぱりこの作品なのかもしれません。ここから、ここにはアートか、エンターテイメントかと言う疑問も出て来ます。」と言っている。
じぶんの感想を言えば、作者が語っているのとは逆で、「CONCEALMENT」がこの先にいちばん期待を抱かせ、「ETERNAL RETURN」はちょっと平凡で(そもそも羽黒山の参道は「山」でも「自然」でもない)、「Price Of Freedom」は「チームで活動」して制作したラップのビデオということを除けば、どこがどのように<Mitwelt>を表現しているのか分からなかった。(つまり、単なる“野外演技とその撮影”というように見えてしまった。)
しかし、全体として映像の技術や音楽と美術の構成に優れており、作者の才能を感じさせるものに仕上がっている。
せっかくビンスワンガーを引用しているのだから、ぜひ映像と音楽で<現存在>を浮かび上がらせるような作品を制作してほしい。
次は映像専攻コースの作品を振り返ってみる


齋藤香「深呼吸のオノマトペ」(人形アニメーション)
社会に適合できず引き篭もる男。投げやりになり、心配する母親に冷たく当たってしまう。
ある日、彼に幻覚が現れる。改造人間ならぬ改造アライグマみたいなものがやってきて、彼の心の中の胎児を救う。すると男は元気を取り戻す・・・物語の展開は単純だが、(ただし心の中の胎児が具象的なものとして出てくるのでそこだけはギクリとする)、アニメ用の人形の造形がとても巧みで、カメラアングルや照明の当て方なども秀逸である。作者の拘りか、男の吐瀉物や流した涙がゾル状になって生き物のように動きまわるところが印象的。人形アニメの特長がうまく活かされている。


安達裕平「 Radio Calisthenics No.1 」「 The Unexpected form 」
前者は「3Dスキャンした部屋と人間のデータに3DCGソフト上で関節を設定し、別途キャプチャしたラジオ体操のモーションデータによって無理やり動かした」という映像。部屋の中の人間がラジオ体操する動きにつられて、部屋の壁が捻れたり伸びたりして変形する。
後者には、「物の形を構成する面を徐々に削減していく機能であるポリゴンリダクションを用い歩く男が単純な形状になっていく様を映像と3Dプリンタによって表現した」と解説が付してある。
3Dプリンタによる、謂わばコマ送りのように並んだ人形の展示と、「歩く男が次第に単純な形状になっていく」映像の上映が組み合わされている。
どちらも作品というより技術的なデモンストレーションという印象だが、身体感覚変容への願望を表現していると思えば作品なのだと合点がいく。
つまり、前者は、自分の身体が周りの事物に繋がれているかのような不分明な被拘束感のなかで、空間ごと無理やりにでも手足を自由に動かしたいという願望。後者は、歩いているうちにいつの間にか自分の具体性が削ぎ落とされていくような退行への願望(あるいは畏れ)・・・のようにみえる。
上記のほか、映像コースの作品で観ることができたのは、以下のとおり。ただし、ここにアップできる画像はない。映像作品に関しては、その内容に対する評価とはべつに、じぶんが観た作品すべてについて、メモと記憶を頼りにコメントする。
なお、卒業制作としての劇映画も何作品か上映されていたが、ここに取り上げた作品とは違う会場だったことと時間が足りなかったことで1本も見ることができなかった。
阿部和久「mother」「無人駅」
前者は、石造りの城郭をゆっくりと歩き出て、池に沈んで行く老いた狼を描いたCG作品。後者は、水面にそこだけぽっかりと顔を出している駅のホームに腰掛けているセーラー服の少女と、彼女を乗せにやってくる電車を描いたCG作品。動画は洗練されていないが、これという場面展開がないまま淡々と流れる映像で、登場人物(及び登場狼)の心情をうまく想像させる構成になっている。
近野菜々「good luck to you」
自走砲が森の中を進んでいくうちにエンコして、やがて風化し、草に覆われるまでを描くCG作品。
コメントにある「風化することは異物が自然の一部になること」「命のあるものもないものも自然が包容する」と言いたくなるココロは分かるが、実際問題としては、「異物」=人工物を自然の中に放置して自然環境にいいことはあまりない。「廃棄物処理法違反だよ!」と突っ込みも入れたいところである。

新田祥子「処女解体」
機械のハンドが、生きた(?)人間の体から内臓をひとつずつ取り出していく様を描いたCG作品。内臓が取り出されるたびに女のよがり声が流れる。また、よがり声にあわせて内臓がひくひく動く。
内臓や人体の画像がリアルでない分だけ(パロディ)作品として成り立つように思うが、それにしてもなぜ若い女性がこのような作品を作るのか、その動機をいろいろと想像してしまう。そういう想像をさせることを狙った作品だとすれば、この作品は成功していると言えるかもしれない。

齋藤威志「Memoroid」
少女風のロボット(?)の頭にUSBがひとつずつ差し込まれていくCG作品。USBのひとつひとつが特定の人間の記憶や思い出になっている。頭にUSBがたくさん差し込まれると、ちょうど見た目がツタンカーメンの棺に描かれているようなアタマになる。
固有の記憶をもたない存在の哀しみを描こうとしたのかもしれないが、このような存在ならむしろ大いにうらやましい。というのも、じぶんなどは毎日のように過去の記憶のフラッシュバックに苦しめられているからだ。記憶がUSBに記録されているものなら、そのUSBを外せば嫌な記憶とおさらばできる。こんな素晴らしいことはない。
山内大治「はりぼてCG」
多数の板状のポリゴン(CGで立体画像を構成する多角形)が、如何にもこれはCGですよ~とばかりに手前から遠方へ向かって流れていく。 すると最後の一瞬でそれらが組み合わされ、具体的な像(見慣れた建物の風景)が現れる。
CGならではの作品だが、上記の「最後の一瞬」が来るのか来ないのか、来るとすればそれはいつかという問題に直面させられる。遠近法の世界でポリゴンが向うに流れていくシーンが長く続くので、いつ終わるのかな・・・と、じっと待っているのが辛くなる。
井上弘大「changing」
人型ロボットが、粘土のようなものでいくつも少女の頭部を形作っていく様を描いたCG作品。
このロボットは理想の少女像を求める作者のようでもあるが、その理想像がメモリのなかにデータとしてあるとは限らないようでもある。
理想の少女像もしくは理想の女性の外見を頭の中に描けるというのは、若い男の特権かもしれない。
そういう理想像を描けない、あるいは描く必要のない男の方が多いのではないか。ちなみに、じぶんは描く必要のない男のひとりである。なぜなら、そこにいる具体的な女性に惚れれば、その女性が理想像(すくなくとも部分的には理想を叶えた存在)に思えてくるからである。
次回はプロダクトデザイン専攻コースの作品を取り上げる。
2014年03月11日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その4
次は総合芸術コースの作品から。

本川穂乃香「淘汰」
シャム双生児を連想させる、腰から下がひとつの二体(?)の女の子の人形。二体が結合して生成されたことで、どちらかが(たぶん銀髪の方が)淘汰されているということだろうか。
だが、見方を変えると、銀髪の人形の背中から、あのヘビ花火(蛇玉)のようにモリモリと金髪の人形がせり出してきたようにも見えるし、銀髪の人形が脱皮をして背中から金髪の人形が出てきたのだというようにも見える。照明の当て方がこの作品のミソになっている。




大場麻由「メグリズム」
コンパネのような版木を合わせて6面柱として建てている。一つの角から2面ずつ見えるので、2面で1シーン、全部で6シーンの絵画作品になっている。また、版木の穴から中を覗くと、内部は何か動物の巣のようになっている。
木版画に描かれているのはタイトルどおり生の輪廻(それも阿鼻叫喚の世界)の絵巻といったところだが、いくつもの物語が絡めて展開されている。首に鎖を掛けられた男。その鎖は結婚式で並んだカップルに繋がり、またそれは苦しむ裸の女の手首へ繋がれている。その女の腹の穴からは中の巣が覗けるが、巣の中は空である。その巣は猫の餌食になった鳩のものだったかもしれない。
女のヴァギナの口から、臍の緒を付けた嬰児が出ている。一方にはゴキブリやゲジゲジやクモに襲われて助けを求める子どもがおり、それを嘲って笑う口々が踊っている。鳩を咥えた巨大な猫の背景には死体の山があり、山の頂には光を放つ灯台のようなものがある。その頂を目指して山を登る人間がいる。
作風から、なんとなく「週刊少年サンデー」に連載されたジョージ秋山の「銭ゲバ」を連想してしまうが、それを差し引いても、なかなか野心的な作品として存在感を放っている。

藤本啓行「MY 2FACES(1(BONE)、2(FACE))」
自分の顔の向かい合ったシルエットを逆さにして「自分の顔をレビンの盃のように向かい合わせれば自己を見つめるイメージが表せる。それを反転させたものを対峙させれば2つの世界が表現できると思った。」というコメントが付されている。作者によれば、2つの世界とは陰(ネガ)と陽(ポジ)であり、この2つが世界をダイナミックに動かす。この2つの作品は、世界と自己をつなぐエナジーを描いているという。(ここに掲載した画像は一方の作品のみ)
この作者の問題意識は「オリジナリティがない」ということだったというが、このような世界についての幻想(あるいは信念)で作品を制作するとすれば、<自己>というものが自立する(つまり自己が疎外される)前に、すでに“世界と自己とをつなぐエナジー”に貫流されてしまっている、という事態にはまる。
作者は「レビンの盃」を描いているつもりでいるが、じつは“世界と自己とをつなぐエナジー”の存在を<無意識>に探し求めて、ロールシャッハ・テストを自作自演しているのかもしれない。
ここから工芸コースの作品。

五月女晴佳「そらまめ」(漆、麻布、洋金粉)
黒い漆の質感と少し錆びた金色のファスナーの取り合わせが絶妙である。空けられた口に活けられている苔や桃色の一輪花はどうも実物のようだ。この組合せのデザインには唸ってしまった。

五月女晴佳「錦鯉」(漆、麻布、プラチナ箔、黒見箔)
上記と同じ作者の作品。内側の朱色の漆の色と鯉の形態や質感の組合せが、こちらも絶妙。
いや、それ以前に、ここにある、欠損し、僅かに胴体の外形を残すばかりとなったものこそ、まさに錦鯉の存在感だという提示に、なぜかひどく同意してしまう。

門馬加奈「ネコハウス」
猫をテーマとした「シリーズ工芸」といった感じの作品が並んでいる。漆、麻布、岩絵具で多様な表現を追及している。じぶんは猫好きではないからこれらの作品の形態にあまり興味はないが、猫好きの人間にはこの「ネコハウス」に展示された作品たちは魅力的に映るだろう。その種の人間たちをターゲットにした作品づくり、つまり売れそうな作品を制作するということを意識しているのかもしれない。それはある意味で大事なことだ。
掲載した画像は「決意の背中 お菊さん」と題された猫のオブジェ。「お菊さん」が「決意」して、ひと肌脱いで、背中の菊の模様の彫り物を見せている・・・と、こんな感じだろうか。しかし、でっぷりした体型と無機的な顔つきがこの作品に陰影を与えている。どこかで猫好きにウケることを拒み、かろうじて<工芸>の矜持を保存しているような感じも受ける。
この回の最後に、テキスタイル専攻コースの作品をひとつだけ紹介する。

伊藤早樹子「ヒッキー山荘」(ミクストメディア)
「テキスタイル」専攻の枠を突破した大胆なオブジェである。
ポリエチレン製の樽には「熟成中」と記載があり、さらに「開封済」とか「開封不可」とか、黒のマジックインキでメモされている。なんだかちょっと饐えた味噌の臭いがしてきそうだ。
中央の高いところは、冬の雪山(あるいは氷山)が布団を纏っているような造形。その上に吊るされた赤ん坊をあやすピンクのガラガラが、なんとも旨くチープ感を演出している。外辺に置かれているのは、果物や菓子、ぼた餅、そして玩具など。まるで田舎の老婆が仏壇に上げた供物と、その家の孫が散らかした玩具だというような既視感を放ってくる。また、円盤の下から伸びたタコ足の先には、光る電球がある。このタコ足を持つことによって、記憶の現前がインベーダーの如く観る者を侵犯してくるようだ。
「いつか持っていた形成途上のあたまが、足りないモノを、さも足りているかのごとく建てたのだった。」とコメントが付されている。
次回は、映像関係の作品について取り上げる。
2014年03月08日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その3
次は洋画コースの大学院修了生の作品から。

畑友紀子「ワンダフルニッポン」(油彩、アキーラ)
アキーラという絵具のどぎつい発色が効果的に使われ、墓前の夫婦写真、「祝・出征」と幕を付けて走る汽車、ゼロ戦、人間魚雷などに混じって、初音ミクやガンダムも配置されている。

二枚目の画像は、「昭和の終わり」と題された作品。人物や事物の配置としては、こちらの方がいっとう成功している。あの<昭和>が、まさに空気の匂いや肌の感触として再帰してくる。

三枚目の画像については題名を失念したが、これも見事な構図。泥沼のタンク(の死者)と空飛ぶ日の丸三輪車(のお坊っちゃん)が、歴史と歴史修正主義者を象徴しているかのようにも見える。

四枚目は「依存母子」という題で、娘の背中のランドセルから母親が乗り出してくる辺りの構図はちょっと石田徹也を想起させるが、スクール水着と朝顔の鉢(夏休みの観察記録の宿題?)がじつにえぐい。
展示作品リストに記載された作家のコメントは次のように語る。
「私は幼少期からずっと社会に対して強い違和感があった。だからこそ周囲の社会に興味を持ち、『自分の目から見た社会』を描き出すことで自分と折り合いをつけようとした。しかし美しい風景を美しく描くように絶望や孤独を暗い色で描いた所で、それは人にとって直視したくない汚らわしいものがそこに佇むだけで、多くの人の心に響いたり、足を止めて貰うことなど出来なかった。だから私は姿に見合わない甘い蜜や擬態で獲物を引き付ける食虫植物のように、自分の現実から孤立した社会を不必要に明るい、まるで子供の頃に見た夢の様な突き抜けた色彩で描くことこそが相応しいのだと考えた。擬態した絵画は鑑賞者の目を介して拡散し、社会に寄生する。」
ここで面白いのは、作者が「自分が現実の社会から孤立している」のではなく「社会が自分の現実から孤立している」と述べていることである。このことばを受けて、「畑さん、ここは言い間違いですよね?」と突っ込もうとして、ふと立ち止まる。ここに「擬態」(つまり<過去>の批評的引用)として描かれた構図と図式は、むしろまさに今ここにある社会の写実画であり、孤立している(=異常である)のは作者の方ではなく、この社会の方ではないのか。・・・安部政権の現実を鑑みるとき、この世界描写が「予言だった」とならないことを祈念するばかりである。

高橋洸平「二人の作業員」
この作家は「境界線と人々」を研究テーマとしている。その作品は、円や直線が引かれた紙(地面)に人形を配してジオラマを作成し、それを絵に描くという手法で制作される。
「越境」と題された作品では、まっすぐに引かれた線を、それが恰も国境線であるかのように荷物を抱えた人々(人形)が跨ぎ越そうとする瞬間が描かれ(その帽子や衣服や荷物の形状に第二次大戦時のヨーロッパを想起させられる)、「二人の作業員」(上記画像)では、放射線防護服を着た作業員が円のなかで熊の縫いぐるみのようなものにガイガーカウンターをかざしている姿が定着されている。
ジオラマだけではジオラマに過ぎないが、それが絵画に変わると不思議にも映画的な(つまり時間的な)効果が現われる。それは三次元が二次元化されることによって、なのだろうか。

山口香織「Rosalia」
縦1m×横2m以上のパネルに、油彩で昆虫の姿がリアルに描かれている。作者は「日本美術解剖学会」会員だという。昆虫が持つ体の構造の微細な形状やその容姿に驚嘆しながら、それを大画面に絵画として再現する営為・・・。この種の絵画作品に打たれるのは、じぶんなどには到底ついていけないその情熱と根気に圧倒されるからなのだろうか。とすれば、これは写実的な絵画のようにみえながら、もっとも抽象的なそれなのかもしれない。
以下は学部卒業生の作品。

齋藤翔太「爆誕」
縦1.8m×横5.4mのパネルに、タイルエマルナ、水性塗料、水性スプレーで、誕生しつつある宇宙のようなモノクロの世界が描かれている。(「タイルエマルナ」はアクリル樹脂系複層塗材の商品名。)
「誕生しつつある宇宙」(?)のなかの星々(?)がもし真ん丸に描かれていたとしたら、「ニュートン」みたいな雑誌の挿絵に過ぎないものに見えてしまうが、この作品ではそれが卵型に造形されていることで自立した作品として迫ってくる。

稲葉萌南「苔の生すまで」
縦1.9m×横3.2mのキャンバスに描かれた“泳ぐ頭部たち”である。
表情、顔色、目線などからオカルト的な印象を受けるが、胴体から切り離された頭部たちが胴体にくっ付いていたころを思いながら恨めしく漂っているのか、それとももともとこのような存在として生を受けた連中がただ根性悪そうに泳いでいるのか、そのどちらとも思えるところが面白い。そして、髪の毛を藻のように描いているところが、この作品のミソだと思える。


條野千里「ある日の自室」「知人と過ごす時間」
美術史に疎いくせに知ったかぶりして言えば、“ここで作者がやろうとしていることは全部ピカソがやってしまったことだ”などと嘯くことになるが、しかし、よく観るとこの作品には容易でないところがある。
「知人と過ごす時間」は、たぶん知人と一緒にお茶かお酒を飲んでいるところ。「ある日の自室」は、まさに自室で寝っ転がっているところを描いたものだろう。知人と談笑しながらお茶する行為が、この作者には襲い来るキュービックな暴力性として感受される。そして、関係に疲れて自室で寛いでいると、そんな自分の身体は欠損を抱えた異形に映り、腹からはなにか訳のわからない塊が突起してくる。この作家にとっては、日常がこのように描かれなければならないものとしてやってくる。・・・そう思うと、ピカソのエピゴーネンだと看做されるリスクを取ってでもこの作風を選択しなければならなかった理由が、少し伝わってくる。
次回は、工芸、テキスタイル、総合芸術コースの作品について。
2014年03月07日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その2
今回は、版画コースの作品から。

臼井ゆりえ「めしどり」(えッチング、アクアチント)
異形の鳥を静物と組み合わせて、絶妙な違和感(存在感がそのまま違和感であるような)を創りだしている作画に興味を引かれた。
左下の作品(鳥が蒲鉾状のものに頭を突っ込んだような作品)が具象的であることによって、他の2枚の絵における「めしどり」の異形が際立つ。上の作品は「めしどり」がおでんの具として大根や竹輪と一緒に煮られているかのようでもあり、おでん汁の湯に浸かっているかのようでもある。

ささきえり「The Sun」(えッチング、アクアチント)
この作者の作品にはシンメトリーな世界への拘りが見て取れる。いや、世界はシンメトリーなものとして存在し、それゆえにおどろおどろしい根源性をもつものであるかのように感受されている。ここに掲載していない「Wheel of Fortune」及び「Death」は、まさにシンメトリーな構図を正面から世界そのもののように描いた作品だった。
ここに掲載した作品でだけ、シンメトリーな世界が幼な児を抱く者の仮面(=顔)となって部分化され、しかも斜めに描かれている。幼な児は聖職者に抱かれて洗礼を受け、シンメトリーな世界に取り込まれてその生存を保証されることになる・・・とでも言いたげであるが、鑑賞者は同時にその世界観が対象化(つまり部分化あるいは相対化)される現場に立ち会っているのでもある。

畑まどか「ジャミング」(スクリーンプリント)
筆で殴り書きした油彩のようなタッチに見えて、画像では見えにくいが背景の薄い灰色が布の質感をうまく引き出している。ジャミングという題名そのもののような乱れの構図が、シルクスクリーンの技法によってむしろ静ひつな世界を表現している。

平野有花「静厳」(木版画)
水性と油性の色材によって刷られた木版画であるが、これが木版画だとは、言われてみなければ判別できない。赤い点などは、作品に打ち込まれた金属性の鋲の頭のようにも見える。
抽象画としての構成は格別新鮮なものとはいえないだろうが、木版画であることによって油彩などによる同様の構成の絵画とはまったく異なる質感を受け取ることができる。
続いて、彫刻のコースから。

瀬戸志保「永遠にあなたの名を呼ぶ」(大理石、ガラス)
細かな砂利が敷かれている大地を歩きまわる不気味な生物のような大理石のオブジェ。布を被った動物のようでいて、「あなた」の喪失に堪えられずに具象的な身体を溶けさせてしまった人間の、変わり果てた姿のようにも見える。

田中智可子「金魚」(髪)
黒髪を編み込んで構成した金魚の胴体のきっちり感と、尾を構成する長髪の乱れ感が対照的。とくに尾の乱れた髪の感じがなんともいまわしい。そのいまわしさは、たとえば誤って飲み込んだ髪の毛が腔内に貼りついているような感じである。髪は人間の頭に着いているからこそ髪であり、美しく感じたり触れても許容できたりするものだが、このように作品の素材となった途端に“死んだ身体の一部”という感触をもたらし、け□れたものに思われてくる。死んだ人間の身体の一部で金魚という生き物を造形しようとする意図に思いを寄せると、これが単純な作品には留まらなくなる。
次回は洋画コースの作品について。

臼井ゆりえ「めしどり」(えッチング、アクアチント)
異形の鳥を静物と組み合わせて、絶妙な違和感(存在感がそのまま違和感であるような)を創りだしている作画に興味を引かれた。
左下の作品(鳥が蒲鉾状のものに頭を突っ込んだような作品)が具象的であることによって、他の2枚の絵における「めしどり」の異形が際立つ。上の作品は「めしどり」がおでんの具として大根や竹輪と一緒に煮られているかのようでもあり、おでん汁の湯に浸かっているかのようでもある。

ささきえり「The Sun」(えッチング、アクアチント)
この作者の作品にはシンメトリーな世界への拘りが見て取れる。いや、世界はシンメトリーなものとして存在し、それゆえにおどろおどろしい根源性をもつものであるかのように感受されている。ここに掲載していない「Wheel of Fortune」及び「Death」は、まさにシンメトリーな構図を正面から世界そのもののように描いた作品だった。
ここに掲載した作品でだけ、シンメトリーな世界が幼な児を抱く者の仮面(=顔)となって部分化され、しかも斜めに描かれている。幼な児は聖職者に抱かれて洗礼を受け、シンメトリーな世界に取り込まれてその生存を保証されることになる・・・とでも言いたげであるが、鑑賞者は同時にその世界観が対象化(つまり部分化あるいは相対化)される現場に立ち会っているのでもある。

畑まどか「ジャミング」(スクリーンプリント)
筆で殴り書きした油彩のようなタッチに見えて、画像では見えにくいが背景の薄い灰色が布の質感をうまく引き出している。ジャミングという題名そのもののような乱れの構図が、シルクスクリーンの技法によってむしろ静ひつな世界を表現している。

平野有花「静厳」(木版画)
水性と油性の色材によって刷られた木版画であるが、これが木版画だとは、言われてみなければ判別できない。赤い点などは、作品に打ち込まれた金属性の鋲の頭のようにも見える。
抽象画としての構成は格別新鮮なものとはいえないだろうが、木版画であることによって油彩などによる同様の構成の絵画とはまったく異なる質感を受け取ることができる。
続いて、彫刻のコースから。

瀬戸志保「永遠にあなたの名を呼ぶ」(大理石、ガラス)
細かな砂利が敷かれている大地を歩きまわる不気味な生物のような大理石のオブジェ。布を被った動物のようでいて、「あなた」の喪失に堪えられずに具象的な身体を溶けさせてしまった人間の、変わり果てた姿のようにも見える。

田中智可子「金魚」(髪)
黒髪を編み込んで構成した金魚の胴体のきっちり感と、尾を構成する長髪の乱れ感が対照的。とくに尾の乱れた髪の感じがなんともいまわしい。そのいまわしさは、たとえば誤って飲み込んだ髪の毛が腔内に貼りついているような感じである。髪は人間の頭に着いているからこそ髪であり、美しく感じたり触れても許容できたりするものだが、このように作品の素材となった途端に“死んだ身体の一部”という感触をもたらし、け□れたものに思われてくる。死んだ人間の身体の一部で金魚という生き物を造形しようとする意図に思いを寄せると、これが単純な作品には留まらなくなる。
次回は洋画コースの作品について。
2014年03月06日
東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その1

2014年2月、毎年愉しみにしている東北芸術工科大学卒業制作展(2月11日~16日)を観に出かけた。その感想を記す。
日本画コースの作品を皮切りに、洋画、版画、総合芸術(一部)を観たあと、企画構想学科の企画作品と同科のイベント「特恋ミルク8.2全国発売記念!スペシャルトークショー」を覗き、一日目はそこで終わり。訪問二日目で、彫刻、工芸、テキスタイル、総合芸術(残り)、映像(一部)、文芸学科(学科設置から3年でまだ卒業生が出ないので在校生の作品展示)を観た。訪問三日目は、コンテンツ・ビジネスプロデュース、プロダクトデザイン、そして日本画出品作品についての解説・トークのイベント(作者のコメントと美術評論家・世田谷美術館学芸員の小金沢智氏による作品評)を覗き、ビジュアルコミュニケーション(一部)を観て、最後に、どの学科のイベントか不詳だったがちょっとだけロックバンド(バンド名失念)のスタジオライブを聴いて帰ってきた。
見残したのは、映像の一部(映画部門)、ビジュアルコミュニケーションの一部、グラフィックデザインと建築・環境デザイン建築と美術史・文化財保存修復の全部。訪問二日目の滞在時間が短かったことと、三日目の日本画コースのトークイベントに時間をかけ過ぎたことで(大雪の影響で小金沢智氏の到着が大幅に遅れたのをこちらがじっと待ち続けてしまったこと及び同氏による作品へのコメントの内容が期待はずれだったことによる時間の浪費感で)、これまた例年通りなのだが、見逃した魚が大きかったという想いがする。
なお、全国的な大雪の影響で、じぶんが聴講したいと思っていた2月15日の建築・環境デザイン学科のゲストトーク「建築以下の思考」(建築家アサノコウタ氏)や16日の企画構想学科の「企画構想超会議~名酒『十四代』創業400年記念事業案~」などは中止されてしまった。
さて、先は長いが、早速日本画の作品から感想を述べていきたい。
まず、大学院の修了生の作品から。

貞安一樹「消えた世界征服」
“誓い合うことは互いの幸せでもって征服していくこと。そんな幻想は夢のように崩れゆく。”とキャプションが付いている。この作品の面白さは、抱き合おうとする男と女の顔(金属的な質感で、この部分が立体的に盛り上がっている)が、相互の引力で崩落していくという着想である。
たんに退廃して崩れていくのではなく、相互作用で融合=瓦解していくという感覚がリアルだ。

谷口なな江「帰れない日々<父と庭>」「変えれない日々<母と台所>」
展示スペース1室の3面の壁を用いて、「帰れない日々<父と庭>」と「変えれない日々<母と台所>」という二つのコンセプトの絵画及びその絵画を描くまでの写真の写し描き、デッサン、エスキスなどが貼り付けられている。写真は「帰れない日々<父と庭>」の方で、描かれているのは庭の草木に水をやろうとしてぼ~っと立っているランニングシャツ姿のメタボ親爺である。
作者は、人物を描きたいと思って身の回りを観察し、そこに父と母という対象を見つけて、それを絵にするまでの過程を構成展示したまでであると言う。たしかにそれだけであるようには見えるが、作者が意図したか否かに関わりなく、その過程の構成がなぜか対象の“喪失”を哀切に伝えてくる。たぶん、この過程の展示が、じつは作者の記憶を構成するという結果を生み出していて、いわば記憶の構成が“過去”の対象化であるために喪失感を演出してしまっているのだ。

渡辺綾「ワンダーランド」
画材としての布と、そこに描かれた山肌(もしくは山の女神?の被ったショール)の布の形象がシンクロしている。女神のような存在が森を抱擁している構図はこの作家の他の作品にも現れており、そこにこの作家の中心的なモチーフがあるように見える。
山は人格をもった神であるという観念とメルフェンチックなイメージには既視感を持ちつつも、この作者の願望が山のように大きく受容的なものに穏やかに抱擁されることなのだと考えると、さもありなんとぞ思われる。
この山についてのイメージは、下記の生井知見「畏怖」という作品と好対照を成していて興味深い。

武藤寿枝「人々の不文律」
学生たちがカフェのバーカウンターに並んで座っている平凡な構図だが、描かれた人々の皮膚は古新聞紙で構成されており、黒っぽい衣服の部分は山岳と雲海として描かれ、白い背景にはビルディングが林立する都市の風景が配置されている。一見平凡な光景のようでいて、独特な世界観を表現している。人物たちが作者の学生仲間のように描かれていて、このへんは“高校美術部”のへその緒を付けているという感じもするが、逆にそれが、つまり作者にとって身近な人間関係の風景から遠方の風景が透けて見えてしまうという(解離的な?)視点の自覚こそが、この作品のモチーフなのかもしれない。タイトルがその理解を助けてくれる。

財田翔悟「何も言わずに」
この作者は大きな綿布に若い女性を描き続けている。その女性は、いわゆる美人という顔立ちでもなければ、グラマラスな肢体をしているわけでもない。体系はいたって日本人的で、顔つきもそこいらへんにいる平凡な女性なのだが、その姿からはポップにアレンジされたエロチシズムを感じさせられる。
アニメの主人公に対してオタクが抱くようなロマンの感受を昇華して、それを日本画の技法を用いて凡庸な日本人女性の外見として描くことによって、ちょっとジワッとくる身近なエロスを定着している。作品が大判なのもいい効果を上げている。
以下は学部の日本画コース専攻生の作品。

斎藤詩歩美「交差する臨界」
電車か地下鉄の駅に繋がる地下通路の分岐を不気味な臨界としてとらえて、絶妙な色調で描いている。地下通路を臨界とみて、その先に異界が広がっているかもしれないという想いは、じぶんのそれにかなりちかしい。
もっとも、都会の下水にワニが生息していたという話を思い出して、幻想的というよりなんとなく現実的という感じも受けてしまう。東京では現実の方が異界的だといわれれば、たしかにそうだと思えてくる。

久松知子「日本の美術を埋葬する」
縦2×横4メートルほどの大作。ギュンター・クールベの「オルナンの埋葬」という作品の構図を借用している。「あの絵画が埋葬したものは、当時の既存の美術の制度や権威であり、リアリズムによる新しい歴史画の捏造だったと解釈できる」として、現在の日本の美術の制度や権威を埋葬しようとする野心的な作品である。
作者は「美術は(中略)権威や富がつくり上げる世界である事を、覗かせます。私のような小さな絵描きは、その権威のようなものに、漠然と憧れたり、勝手に嫌悪したりを繰り返します。美術が大好きだけれど、好きだからこそ嫌悪しているのかもしれません。」とコメントしているが、至極まっとうな反応だと思える。
美術史や美術批評に暗いじぶんには岡倉天心と浅田彰の顔くらいしか分からないが、描かれた人物たちの顔が絵の具のカスで汚されているのが印象的である。地面の穴のところには高井由一の「鮭」が転がっていたり、岡本太郎の「太陽の塔」が飽きられた玩具のように置かれたりしている。
ちなみに作者は左下にいる赤いジャージの女性で、会場にいた実物(作者本人)も同じ外見をしていた。この作家には「日本祭壇画 神の子羊」という屏風の作品(次の画像。写真はポートフォリオから)もあって、興味深い。その画風に既視感はあるが、自信をもって“墓堀人”をやってほしいものだと思う。


生井知見「畏怖」
茨城県出身の作者は、山形の冬山をみて山に対するイメージが変わったという。雪を被った樹木が怪物の口のように描かれている。いや、これは樹木の枝が口のように見えるところを描いたというのではなく、山そのものの正体が見えた!というところなのだ。作者にとっての冬山は、底知れぬ未知と凶暴さを湛えた存在なのである。

若松芽衣「進化の行方」
亀の背中が島を形成している。左側に一匹でいる亀の背に載っているのは摩天楼が林立する都市。
表層で急速に進化する文明を載せているのは、ゆっくりと歩む亀たちであるという世界観が面白い。
ただし、この世界には確かな根っこがない。いわば、根拠がない。亀は水のなかを泳ぎ、世界はその背にのって浮遊する存在に過ぎないという訳である。
照井譲「Object(Recipe #1、#2、#3)」。(画像なし)
細かな穴が規則的に開けられた白い四角形のカバーパネルが3つ並んで展示されている。カバーパネルの奥には蛍光色と黒の縞模様で規則的に構成されたテキスタイルの下地があり、その下地に上から照明が当てられている。このパネル面を動きながら見ると、モアレのように白いパネルの上に波形や縞模様が浮かび、それが動いて見える。
作者は、入学以来、色彩が人間に与える影響についてひたすら研究してきたという。卒業後は家業を手伝いながら制作活動を続けるとのことである。
日本画コースはここまで。(次回は洋画、版画など)