2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その2)

大急ぎ 知床行 (その2)

【 第2日(日) 】

 5:24着の「急行はまなす」から南千歳駅に降り立った旅客は、10人ほどだった。もちろんほとんどが石勝線への乗換え客である。
 南千歳駅はいかにも新興地の駅という造りで風情などないが、窓から見える周囲が閑散としていて、雨の朝の興ざめな雰囲気を助長している。
 次の乗車が7:33なので、待ち合わせの時間が2時間余りある。それまで朝飯をと辺りを探すが、この時間では当然売店は開いていない。駅前にコンビニがある様子もない。仕方なく改札を出てすぐ前の自動販売機からチョコの入ったパンと野菜ジュースの紙パックを買い求めて、それを朝飯にする。
 
 定刻に「特急スーパーあおぞら1号」釧路行きが入線してくる。一見かっこいい車両だが、近づいてみるとどこかしらチープな雰囲気がある。車両を軽量化しているためだろうか。
 海峡線と函館本線、それに室蘭本線と、熟睡できなかったツケが来て、なんと帯広あたりまでウトウトし通しだった。楽しみにしていた狩勝峠の風景も見損なった。ただ、意識朦朧としたなかで、ディーゼル・エンジンが一段と大きな音を上げるのを聴いていた。
 こうしてあっけなく北海道を横断し、定刻の10:51に少し遅れて列車は釧路駅に着いた。
 ここからがまた忙しい。10:56釧路発の「くしろ湿原ノロッコ2号」に乗車しなければならないのである。釧路で下車した旅客たちが先を競ってノロッコ号の乗り場に急ぐ。数日前に山形で指定券を購入したのだったが、そのとき、湿原側のシートの指定席はほとんどが埋まっている状態だった。実際にも車内は満席で、家族連れや高齢者の団体客でごった返していた。これは完全な観光列車の趣。バスガイドのように流暢な女声による車窓の解説が流れる。



大急ぎ 知床行 (その2)
 その案内で、キタキツネがいるというのでカメラを向けたのがこの写真。背後に写っている車の人間が餌付けをしているようだ。自己満足のための餌付けなどすべきではない。
 
 「ノロッコ号」とは上手い名をつけたものだと感心するが、その名に相応しいほど遅いスピードになるわけではなかった。釧路湿原駅から先、もっとノロノロ運転にすることはできないものだろうか。もっとも、団体客の観光バスのコースの一部として組み込むには、この程度の乗車時間(40分ほど)が適当だということかもしれない。
 湿原を流れる釧路川は、台風の影響による増水で濁っていた。曇り空でもあり、とうてい美しい風景という印象ではない。しかし、じぶんは予めこんな風景を想像していた。いや、というよりもそのように自分が醒めた感受をするであろうことを想像していた。じぶんは、すでに北海道には広大で美しい自然がある・・・そんな幻想から見放されているのである。“ロマンのある北海道”というのは、10代のじぶんが、1970年代の北海道に描いていた幻想だった。そこからずいぶんと遠くに来ているのだ。



大急ぎ 知床行 (その2)

 ノロッコ2号は、塘路という駅で釧路に折り返しになる。
 塘路駅に11:40に着くと、乗客の多くは駅前に迎えに来ていた観光バスに乗り込んでいった。塘路駅の前の芝生には木製の展望台があり、その上からノロッコ号とその向こうに拡がる釧路湿原を撮ったのがこの写真である。








大急ぎ 知床行 (その2)

 じぶんは次の網走行きが来るまでの間、塘路湖の方向に歩き出し、標茶町の郷土館を訪ねた。この郷土館の建物は、明治18年に設置された釧路集治監の本監として建てられたものだという。
 シマフクロウやオオワシ、オジロワシなどの剥製を初めとした野生生物の標本と、民具やアイヌの民具などが展示されている。なかでも集治監の歴史を展示・解説した一室が興味深かった。
 集治監とは、いわゆる刑務所だが、北海道の開拓に不可欠な役割を果たした。集治監に収監され強制的に労働させられた者たちの犠牲の上に、今の北海道は成立している。初期の集治監には、犯罪者のほかに、明治維新以後に叛乱を起こしたいわゆる不平士族たちも送られていたという。今で言えば政治犯たちである。
 かれらはその能力や技術に応じた仕事を与えられ、自らの手で集治監の施設を作り、自給自足のための農地の開拓と生産を担った。集治監は農業試験場的な役割も果たし、ここで開発された栽培技術が開拓民に普及されていったという。




大急ぎ 知床行 (その2)

 「博物館 網走監獄」のパンフレットによれば、釧路集治監の網走分監(後の網走監獄)には、明治24年(1891年)に1,200名が収監され、網走から北見峠下までの163キロの北海道中央道路の建設を僅か8ヶ月で完成させるよう命令が下され、昼夜の突貫工事による過重労働と劣悪な環境により、211名が命を落としたという。
 標茶町は集治監により発展し、集治監の廃止により衰退する。釧路湿原の中の小さな駅で下車したことで、思いがけず、今は完全に観光地化され隠された北海道の裏の顔を垣間見た気がした。(写真は、120年前の釧路集治監時代から変わっていないという階段。)

 塘路駅まえのベンチでそこにある売店のソフトクリームと山形から持参したカロリーメイト、それに目の前の水飲み場の水で昼食をとり、13:54塘路発の釧網本線で知床斜里に向かう。ノロッコ号の走る区間より、こちら普通列車の走る塘路から知床斜里までの区間の方が湿原らしい眺めが広がっていた。
 知床斜里駅着は16:28。これまたせわしなく、駅前の斜里バスターミナルから16:40発のバスでウトロ温泉に向かった。

 ウトロ温泉に向かうバスの走路(国道334号)は、朱円という地区では15キロから20キロほども一直線の道路だった。両側には、馬鈴薯と甜菜の畑が広がっている。しかし、哀しいかな、自分には車窓から眺めただけではその作物が馬鈴薯なのか甜菜なのか区別がつかない。たぶん甜菜だとは思うのだが自信がない。
 バスはバス停で停まることなく、一本道を一定の速度で走っていく。広大な畑のなかの道路の路肩にバス停の標識は見当たらないのだが、車内のテープ・アナウンスから、ほぼ同じ間隔で次の停留所の地名が呼ばれる。そのことに、なにか不思議な感覚に見舞われる。
 オホーツク海に夕陽が傾き、雨雲が途切れ始めたころ、バスはウトロ温泉バスターミナルに到着する。17:30だった。
 そこから今宵の宿である「国民宿舎・桂田」に連絡して、送迎を受ける。


大急ぎ 知床行 (その2)

 海岸に建つ「国民宿舎・桂田」では、海が見える側の部屋を予約していた。ここは、どうやら小さな地元業者に運営が任されているようだ。
 ずいぶん古くて質素な宿だが、職員の感じは悪くなかった。海を眺められる露天風呂も、チープな感じだが最果ての旅情を感じさせる雰囲気があった。ただし、のほほんと入浴していると強力なブヨが襲ってくるので、これには要注意である。
 夕食のメニューはいかにも国民宿舎という感じだったが、特徴は一人に一パイの毛ガニがつくことだった。じぶんはカニ好きというわけではないが、それなりに美味しくいただいた。
 ここで飲んだビールは、サッポロビールの「北海道限定サッポロ・クラッシック」という銘柄だった。これまでサッポロビールやエビスビールを美味いと思ったことがなかったが、この「サッポロ・クラッシック」は、ちょうどよい苦味で美味かった。北海道にいる間は、ビールといえばこれだけを飲んでいた。
 台風が接近する中、辺境の地の宿で独り夜を過ごす。それにはアルコールが欠かせないと「初孫」のパック酒を背負ってきていたのだが、食堂で飲んだ生ビール1杯と「サッポロ・クラッシック」の中瓶1本で酔いが回り、24時過ぎに入眠して翌朝まで熟睡したのだった。(つづく)




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Posted by 高 啓(こうひらく) at 15:16│Comments(0)歩く、歩く、歩く、
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