2012年08月14日

黒石市「こみせ通り」と「つゆやきそば」

黒石市「こみせ通り」と「つゆやきそば」




  猛暑の夏に、十和田~弘前~盛岡と車で巡った旅の話の続き。

 十和田湖畔を発って弘前市を目指すが、途中で正午を迎えると、次第に連れの“腹ペコ病”が出てきた。これは腹が減ると早く何か食べることにばかり気がいって、イライラして怒りっぽくなってしまう状態を指す。お互いに腹ペコ病が出ると、口論する確率が上昇する(苦笑)
 弘前まではとてももたない。途中でなにか食べていこうということになり、ガイドブックを見て、黒石のB級グルメ「つゆやきそば」を試してみようかと相成った。

 じつは、腹ペコ病にならなくても、できれば黒石市(人口3万5千人)には立ち寄りたいと思っていたのだった。
ガイドブックで「こみせ通り」の存在を知り、その風情にじぶんの故郷の秋田県湯沢市の在りし日の記憶を重ねていたからである。
 昔ながらの雰囲気が残る黒石市の中心街に入り、「中町こみせ通り」を探して、またも炎天下にその界隈を歩く。
 まずは、腹ペコ病からの快復をと、「中町こみせ通り」の一画にある「すずのや」という「つゆやきそば」専門店に入る。すでに昼食の時間は過ぎていたが、小さな大衆食堂といった感じの店の中には、観光客と思しき客が2、3組入っていた。そこでじぶんは「つゆやきそば」を、連れは先客に出されたその丼を見て気が変わったのか、ただの「焼きソバ」を注文した。
 ここの焼きソバは、ウドンと言った方がよさそうな太い帯状の麺に、しっかりとソースを絡ませた一品である。味はまぁまぁだが、炎天下に捜し求めてまで食べに来るほどのものではないかもしれないと思う。
 で、問題の「つゆやきそば」は、この焼きソバを日本蕎麦の汁に入れたもの。和風ダシの味とソースの絡めてあるソバが、意外にもうまく味のハーモニーを奏でている。ただし、これは“食事”としていただくという感じではない。小腹が空いたとき“買い食い”するものという感じである。

 この店に「つゆやきそば」の発祥と、それを「B級グルメ」として再興した経緯について書かれたチラシがあった。するとやはり、もともとはある食堂が腹ペコ学生などの間食として、新聞紙に包んで売っていた焼きソバを、腹が膨れるようにソバの汁に入れて出したというのが始まりらしい。
 その食堂は無くなってしまったが、子どものころ口にした味に郷愁を覚えた人々が、名物を創ろうと意図的に復活させたのがいまの「黒石つゆやきそば」だということである。


 さて、腹ペコ病から解放されたところで、人通りのほとんどない黒石市の中心街「中町こみせ通り」を、汗を拭き拭き、まったりと見物して歩くことにした。
 「こみせ」というのは、通りに面した建物(商店や問屋や造り酒屋など)が、軒先を通り側に張り出させて、その庇の下を歩道として通行人が自由に利用できるようにした構造の謂いである。こみせと道路の境には軒を支える柱があるだけで固定された建具はないが、冬季は雪の吹込みを避けるため腰の高さくらいまでの板(「しとみ」)を入れる。
 黒石の中心市街地は、1600年代後半に「黒石津軽家」の初代領主・津軽信英(のぶふさ)によって新しく町割りされたという。こみせの建築年代は定かではないが、信英が町割りをしたときに作らせたと伝えられている。
 月曜日の日中、それも炎天下とはいえ、現存する「こみせ」が断続的に連なる「中町通り」は、“閑散”という言葉がまさにこういう状態をいうものだと思わせるほどひっそりとしている。通行人どころか車もほとんど通らない。街並みも、昭和30年代のまま時が止まったような時空だった。いや、時は確実に流れているのだから、少しずつ少しずつ朽ちていっている、のには違いないのだが。

 もっとも、この「中町こみせ通り」は、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、保存復元が行われているという。
 国の重要文化財「高橋家住宅」(1760年代建築、米・味噌・醤油・塩などを扱う商家)、「中村亀吉酒造」(大正2年創業。二階の軒先から大きな酒林が吊り下げられている)、「市消防団第三分団第三消防部屯所」(大正13年建築。現役としては日本で一番古い消防自動車が配備されている)、「(旧)松の湯」(銭湯だが、威厳ある建築)などの建物が目を引いた。
 しかし、もっとも印象的だったのは、どこの店先だったかよく覚えていないのだが、通りから何気なく店内を覗いた際に見た、その店の店員さんが自分の事務机で遅い昼食に出前のラーメンかなにかを食べている姿だった。これが、“あ、これが昭和の風景なんだよ~”という感じで絶妙だった。

 余計なことかもしれないが、ちょっと気になったことを述べると、まず、中通りからちょっと裏手に入ったところに土蔵があり、そこが公民館のホールみたいに使われているのだったが、この空間はもっと効果的に生かせそうな気がした。
 反対側では、中町通りに接する路地が、如何にも街づくりの補助金で作られたという感じの長屋(飲食店が入っている)と緑地に整備されている。町中の路地に緑地を作り、水の流れを引き込んでいるこの空間の雰囲気は悪くないが、緑地の中心に大きなモニュメント(地元出身の作曲家3人を顕彰した石碑)を設置しているのはいただけないし、造作の細部についてはせっかくのコンセプトを生かし切れていないという印象を受けた。
 また、「中町こみせ通り」とは言うものの、古い木造の建築物と、すでに現代風に(と言っても古いものだが)建て替えられている商店などの建物が混在しており、こみせが1ブロック途切れずに続いているというわけではない。だから、ここを訪れる観光客は、観光地として整備された古い街並みを見せられるというよりも、地元が維持と復元に取り組んでいる途中の姿(取り組んでいる本気度とか度合い)を見せられると言った方がいい。復元には国の補助金が使われたというが、その補助金は今後も継続して受け取れるのだろうか。・・・おそらく、今や国の補助金は途絶え、地元の自力で維持・復元に取り組まなければならなくなっているというのが現状ではないだろうか。
 困難は待ち受けているだろうけれど、行政も地元も、できることならこの通りの復元にもっと本腰を入れ、さらにはこの通りに隣接する中心市街地の商店や飲食店に特色を持たせ、かつは情報発信に意を砕いて、“昭和の街・黒石”を演出してほしいものだと思った。

 炎天下に一服したいと中心商店街を歩いたが、入りたくなるような店が見当たらないまま市役所まえの通りに立ち至ると、歩道の地面にガムテープなどで場所取りがしてある。この日の夕方から「黒石よされ」の流し踊りが出るので、それを目当ての出店が場所取りをしているのだった。
 この閑散とした街ももうすぐ祭りの人出で賑わうのだと思うと少しもの悲しさがまぎれるような気がしたが、この旅はいわばこの地方のあちこちで行われる“夏祭り”を避けて移動しているのであったから、次の目的地である弘前を目指してそそくさと黒石を出発したのだった。 (了)                                                                                                                                                                                                
                                                                                                                                  



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Posted by 高 啓(こうひらく) at 13:24│Comments(0)歩く、歩く、歩く、
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