2008年12月31日

石田徹也―僕たちの自画像―展




 上京の折、練馬区立美術館で開催されている「石田徹也―僕たちの自画像―展」を観た。

 山形に住み、美術雑誌もほとんど読まないじぶんのような者にとって、東京の美術展の情報は、ネット上のサイトや情報誌「ぴあ」に拠るか、あるいは別の展覧会や美術館に置かれているチラシで得るほかない。この展覧会のことも、たぶん、太田三郎の回顧展を観に行った際に、山形美術館で手に取ったチラシで知ったのだったと思う。
 そのチラシに転写された石田の作品から、少しばかり感じるものはあったが、じつはそれほど期待して出かけたわけではなかった。チラシ上に印刷された作品の画像からは、哀しみを湛えた作者のイメージは伝わってきたものの、ややポップで、世間受けしそうな作風に、少しばかりのあざとさを感じ取ってもいたからである。

 チラシの裏面にある、この美術館のキュレーターが書いたコピーも、凡庸な印象を与えた。


 「多くの作品に登場するうつろな目をした人物は、彼の分身であるとともに、現代に生きる多くの若者たちの自画像でもあります。また、それは複雑で捉えどころのない現代社会の中で生きる私たちが、日頃は心の奥底に押し隠してしまっている精神のドラマを表現したものとして、世代を超えた共感を呼んでいます。ある時は哀しく、ある時は悲痛であり、また滑稽な現代人の姿を、石田徹也は、精密に観察しながら、丹念に描き出しました。」
 
 しかし、この展覧会で感受したものは、チラシ上の作品写真や説明文から得ていた印象とはずいぶんと異なったものだった。
 じぶんとしては久しぶりのことだが、背筋の震える想いをした。
 石田徹也という表現者の描こうとしたものは、「現代人の内面を描ききった」などと安易に世俗的な社会性に回収できる性質のものではない。
 私たちは、彼の作品の前で、もっと激しく戦慄すべきである。


 【1】
 1973年、静岡県焼津市に生まれた石田徹也は、1996年、武蔵野美術大学を卒業する。
 とりあえず1995〜1996年頃を<初期>と看做なすと、この<初期>を代表する作品は、この展覧会のチラシの裏面に掲載されている作品3(チラシでは4)「SLになった人」(1995)、作品10(チラシでは1)「飛べなくなった人」(1996)などの作品だと思われる。
 これらの作品は、サラリーマンの格好をした男(その顔はすべて石田の自画像)が飛行機やSLに合体しているように、あるいはそれらの鉄のスーツを纏っているように描かれている。
 これらの作品が、やがて、チラシの表面に掲載されている、やじろべえ型回転式シーソーにぶら下がったサラリーマンを描いた作品12(チラシ表面)「社長の傘の下」(1996年)やガソリン・スタンドと牛めし屋を合体させたような作品16(チラシでは3)「燃料補給のような食事」(1996)などと相俟って、様々なものに絡めとられている現実生活と「現代人の内面」を描いたものとして印象付けられるのは、ひとまずは自然なことのように思われる。
 ところで、しかし、展覧会には、「SLになった人」と「飛べなくなった人」の習作らしき作品が展示(なぜかガラスケースの中に置かれる形で)されているのだが、これらを見ると、いわば<初期・石田徹也>への印象が、少しばかり違ってくる。
 たとえば固定された飛行機に合体したサラリーマンを描いた「飛べなくなった人」の習作は、作品7「ビアガーデン発」(1995)と題されており、そこには酔って赤ら顔になったサラリーマンが3人、肩を組み千鳥足で踊っている。
 両側の人間はワイシャツ姿で、真ん中の一人が飛行機のスーツ(この場合、「スーツ」というのはいわゆる「モビル・スーツ」みたいな意味である)を纏っている。顔はすべて石田の自画像。背景は描かれていないが、まるで屋上ビアガーデンで“出来上がって”、3人で肩を組んで“舞い上がろう”としているような様子である。飛行機の翼には、「MALTS」とビールの銘柄のロゴが刻まれている。
 また、「SLになった人」の習作は、作品8「居酒屋発」(1995)と題されており、これにも背広姿のサラリーマンが3人、遊園地で走っているようなミニSLに乗っている(というより、身に纏っていると言うべきか)姿が描かれている。汽車の車体にも「MALTS」と刻印がある。



 さて、これらをいまじぶんは「習作」と呼んでしまったが、帰り際にこの展覧会のカタログを購入し、そこに掲載されている「出品リスト」を見ると、「ビアガーデン発」と「居酒屋発」は、第63回毎日広告デザイン賞優秀賞を受賞した作品なのだった。(デザインは平林勇が担当し、石田はイラストを担当したという。)
 たしかに石田には、このような“ウケ”を狙う作品で商業的に勝負するイラストレーターへの道が開けてもいたのだ。
 しかし、これらはどうみても「飛べなくなった人」や「SLになった人」の習作に見える。広告デザインとしての作画を、石田が、いわば腕力で“ファインアート”に引っ張っていった、その志向性がここに伺えるような気がする。
 これらとは別に、「飛べなくなった人」という題名で、遊園地のアトラクションの「バイキング」のような木造の帆船の甲板に腹ばいになり、クロールをしている背広姿の男が描かれた作品(1996)もある。これには「MALTS」は存在しない。(なお、この作品はこの展覧会には出展されていない。展覧会のカタログに「参考図版・作品2」として掲載されている。)

 ここに視えるのは、哀調を帯びた人間への視線と同時に、むしろ遊園地の乗り物にヒントを得て、機械や器具や家具や建物や・・・それらの物体と合体した人間を(自画像を通して)描くという手法を“発見”した、若き画家の、いわばささやかに煌く<出発>の風景である。


 ところで、ガラスケースに収められていた(したがって他のページを見ることはできない)石田徹也のノートから、こんな部分を書き写してきた。

 「僕がもとめているのは、悩んでいる自分をみせびらかすのでなく、それを笑いとばすユーモアのようなもの。ナンセンスに近づくことだ。他人の中にいる自分という存在を意識すれば、自分によって計られた重さは意味がなくなる。そうだ。僕は他人にとって10万人や20万人の他数(ママ)の中の一人でしかないのだ。そのことに落胆するのでなく、軽さを感じること。それがユーモアだ。」

 それから、ノートには、公衆トイレの落書きみたいにして、略図とともに、こんな構想も記されていた。
古風な箱型の真空管ラジオと、それを背負うように合体している女の乳(乳首)を、男(それは石田の場合、つねに自画像だが)が揉んでいる構図。女の口からは「Ah〜〜」と悶え声が流れる・・・

 ここにあった「ナンセンス」を含む「軽さ」への輻輳した志向は、だが、おそらくは彼の作品に「現代人の内面」を求める周囲の評価へ対応するために、一旦は、自己と社会が重ねられる批評的なモチーフ、もっといえば、哀調を帯びつつ不安を宿し、厭世的かつ自己嘲笑的なモチーフへと絞り込まれるようにして形象化されていく。
 傘(=銃)を抱えたサラリーマンがまるで塹壕に隠れるようにビルの隙間に腰を下ろしている構図の作品14「兵士」(1996)や洋式便器に入ったサラリーマンを描く作品13「トイレへ逃げ込む人」(1996)、階段と合体した男が非常ベルを鳴らそうとしている作品15「屋上へ逃げる人」(1996)、会社の机の引き出しに自分の死体が入っている作品21「引き出し」(1996)など・・・。
 この展覧会のカタログに掲載されている「石田徹也 略年譜」には、大学を卒業した彼が就職したのだったかどうかの記載はない。だが、石田がこの時期、もっぱら背広姿のサラリーマンを描いていることを思えば、背広を着るような職場に就職したのだったのかもしれないと思わせられる。


 【2】
 1996年までの<初期・石田徹也>は、97年から2000年にかけて、その技量を向上させ、<初期>を離脱していく。
 97・98年には、まだ“背広もの”を描いてはいるが、自己の内面を表出させる傾向や自己の内面を抉り出すような傾向が、次第に表に現れてくる。
 エロ本をあさる5本の指(=足)をもった蜘のような自画像の作品31「物色」(1998)や、小学校の校舎に埋め込まれたままの自分を描いた作品33「囚人」(1999)、高校(?)の教室を描いたかのような作品28「めばえ」(1998 学級で机に座っている生徒たちのうちの二人が顕微鏡と合体している作品)や作品29「無題」(1998 回答用紙に答えの印を付けている生徒の左手が旧式のミシンになっている作品)などが、それである。

 1999年の次の3つの作品は、ある意味で石田の描いた最後の“わかりやすい”作品だ。
 作品35「待機」は、6人一室の病室で、スクラップにされた車のボディをベッドにする病人たち(若者として描かれた自画像たち)が、寝たり腰掛けたりして、何かを待っている光景を描いている。
 彼らが待っていたものは、老いの先にある“廃車”なのかもしれない。作品36「彼方」では、荒涼とした入り江の風景のなかに、車のスクラップと合体した老人(しわくちゃの顔をした自画像たち)の肉体が横たわっている。
 作品34「市場」は、まるでその老いへの恐怖を鎮め、癒しを与えるかのような老女(西洋人のシスターに見える)と彼女に寄り沿う男たち(これも石田自身の分身)の構図だが、しかしその老女のボディの中は空っぽで、彼女に救いを求めている別の男が、暖簾をかき分けて向こう側からこちらを覗いている。

 そして、次に問題の2000年。そこには、ふたつの作品「無題」が存在する。
 このふたつには、どちらも防火服を纏った消防士が描かれている。一方の作品38「無題」の消防士ははしご車のリフトのようなものに乗っており、今しがた救助してきたかのような赤ん坊を抱いている。もう一方の作品37「無題」の消防士は、リフトにのってこちらへ手を差し伸べている。その消防士の両脇には子どもが乗せられているのだが、その子どもたちもこちらへ手を差し伸べようとしているかのようだ。
 印象的なのは、ここでおそらく初めて子どもや赤ん坊が描かれていることだ。
 それに、石田は、なぜ消防士を描いたのだろう。そして、なぜ、この年は寡作なのだろう・・・。
 2001年以降に、石田が、私に言わせれば“開花”を迎える前の年、彼にはどんなことが起こっていたのか・・・。一見解り易く思われるこれらの構図と、逆に、ほとんどあそび(“ハンドルのあそび”というときのあそびという意味)のない筆致に、このあたりで石田がある種の閉塞に見舞われていたのではないかという想いがする。





 【3】
 2001年から2004年にかけての石田作品は、おおきな転換を遂げる。
 「石田徹也―僕たちの自画像―展」では、この時期の作品群に圧倒された。
 一言で言えば、ここには石田の心的過程が描かれている。それは知覚と表象、過去と現在、「存在者としての自分」とそれを「眼差す自分」が相互に交代したり、入れ替わったりする世界であり、しかもその中を石田徹也の固有な時間が流れる(あるいは滞留する)世界なのだ。
 
 正直に言うと、この展覧会を観にいく前、じぶんは、たまたま、柴山雅俊『解離性障害』(ちくま新書)を読んでいた。オツムが単純なじぶんは、それゆえ、そこに書かれている解離性障害の心的世界が、まさに石田のこの晩年の作品に表白されているような印象を受けたのである。
 石田は、解離性障害かどうかは別として、自らの、おそらくはたいへんにきつい心的世界を、よく構造化し、しかもそれを極めて丹念な筆致で細密に描いている。この自己への凝視力というか、しんどい自己世界を表現しようとする志向力に圧倒される。

 たとえば、作品39「しじま」(2001)には、風呂場の洗面台の鏡に映った自画像が描かれている。この自画像は左手の指先から血を流しながら、遠くを見つめている。・・・その見つめる先に描かれているのは、風呂場のタイルの壁に浮かび上がる、次のような光景である。
 波打ち際に置かれた病院のベッドの上で、若い男が上半身を起こして構えている。彼は、ほとんど裸の状態で、彼の性器は赤黒く勃起している。胸をはだけた看護婦が二人、ベッドの両側から男の足を手で押さえようとしている。男の枕元には母親らしき女が椅子に腰掛けており、さらにその情景を、まるでAVビデオの撮影現場であるかのように、テレビカメラを構えたカメラマンと録音技師が記録している。そして、この光景全体は、薄いヴェールのような、カーテンのようなもので包まれている。
 海岸の波打ち際にベッドが置かれている作品としては、作品40「無題」(2001)もある。こちらは、浴衣姿でベッドに寝ている自分を、ベッドの端に腰掛けた兄弟、枕元に立つ母親、ベットサイドで椅子に腰掛ける背広姿の父親などが囲んでいる。これも、半透明のベールのようなもので囲まれている。

 自分がいる世界を、もうひとりの自分が外から眺めている。これが解離性の離隔の心的構図である。世界は平面のように遠ざかって視え、しかも、まるで薄い膜を通してみているようだとか、スクリーンに映った世界を視ているように思えるのが、離人症の症状だという。(前掲書)
 風景がヴェールの向こうのように視えている作品は、チラシの裏面に掲載されている作品70(チラシでは6)「無題」(2004)も同じだ。ここでは、少年の作者の自画像が、海水浴の風景が映写されたヴェールの隙間から顔を覗かせている。

 「存在者としての自分」とそれを「眼差す自分」の遊離・・・それには、「体外型離脱」と「体内型離脱」ないしは「着ぐるみ型離脱」があるという。(前掲書)
 「体外型離脱」が身体から浮き上がって世界に拡散するような感覚だとすれば、「体内型離脱」は、身体という殻から剥がれ落ちて、自分が内側に縮まったような感覚だとされる。
 たとえば、作品54「帰路」(2003)では、顔の前面に大きく真っ暗な穴があいており、その穴の中に、こちら振り返る小さな子どもの姿が描かれている。
 作品65「文字」(不詳)では、ベッドの上に横たわる自分の身体が、ロシアのマトリョーシカを連想させるような、5重の入れ物のように描かれている。
 また、作品49「無題」(2003)では、子どもの胸のあたりにもうひとりの子どもである自分の顔が描かれている。その顔の上、後方には(つまりボディとしての子どもの胸の中のような位置には)、透けるように、さらに一人の全裸の子どもが横たわっており、それを何本かの裸足の足が踏みつけている。
 作品53「無題」(2003)では、草原の中に幼児が一人佇んでいるのだが、この自画像の幼児の身体は、首や胴や手足が分断され、まるで達磨落としのように描かれている。そして、この子どもの片方の足がクローズアップされたかのような作品52「裏庭」(2003)では、その足の指が恐怖で引きつったように曲げられ、土に突き立てられている。
 恥知らずにまったく単純な解釈をしてしまえば、ここには、幼児期に受けた虐待や少年期に受けたイジメのトラウマが表出しているようにみえる。
 あるいは、上記の作品49「無題」の構図を乱暴に読み込んでいくとするなら、心的外傷の経験を自分の心的過程から切り離す離隔の状態が窺われ、さらには人格交代の世界まであと少し・・・という心的世界が見て取れるようにも思われる。

 2001年以降の作品は、ほとんど解離の心的世界を描いたと思われる作品ばかりである。
 チラシ裏面の洗面台を自己の身体であるかのように描いた作品61(チラシでは5)「体液」(2004)についても、これは解離でいうセネストパチー(体感異常:体内に訳のわからない異様な「もの」がいるという漠然とした感覚)だと看做すこともできるだろう。
 2003年から2004年にかけての作品のいくつかに、自画像と自画像の子ども時代の姿が同時に描かれているのも、体外離脱、自己幻視、交代人格、「想像上の友人」などの解離の心的世界を想像させる。
 だが、もちろん、作者が、解離という病理の世界に蟄居していたなら、これほどの緊密な質と膨大な作業量の作品群を描き残すことはできなかっただろう。
 石田徹也は、おそらく、じぶんのなかの心的な世界と、私たちの想像を超える激しい闘いを闘っていたのだと想える。


 けれども、2004年頃になると、その作品には死のイメージが濃厚に入り込んでいる。
 2004年の作品で特徴的なのは、初めて性的な対象としての“女”の身体が描かれていることだ。
 作品57「堕胎」(2004)では、ベッドの上に向こうを向いて横たわっている女(ブラジャーとパンティだけを纏っている)がいて、手前にベッドに腰掛ける自画像が描かれている。
 作者は女を知った?・・・だが、ベッドの下は、水の干上がった川原のようだ。
 作品59「無題」(2004)では、自画像と女がお互いに背中を向けて横たわっている。女は白いキャミソールとパンティの姿で、男は黒いTシャツと長ズボンを履いている。しかし、二人が横たわっているのはベッドではなく、街を襲い、家や車を飲み込んだ泥流の上である。
 その泥流を、お面のような顔がいくつも流れている。そして、その泥流と横たわる二人の上空には、ゴムボートに乗ったちいさな自画像たちが浮かんでいる。

 泥流とそこに浮かぶお面のような顔のモチーフは、別の作品60「無題」(2004)では、男と女の間ではなく、今度は自画像の体内を流れている。この自画像は首を壁に持たせかけ、床に倒れているが、その左手を誰かの右手と触れ合わせている。しかし、そこには手が描かれているだけで、女は既に存在しない。
 そして、この年には、直截に死を呼び込むような作品である作品66「再生」(仰向けで担架に乗せられ、口には酸素吸入器のようなものを付けている)や「制圧」(2004・参考図版16)(顔面に携帯電話がめり込んで血が流れている)が描かれている。



 石田徹也には、そのレトロで個性的な作風から、たぶん、商業的なイラストレーターとしての道が開かれていたのではないかと思う。
 広告デザイン賞に応募した路線で作画を続けることによって、その世界で糧と評価を得つつ、その一方で、自らが追求するファインアートの世界では、作品「飛べなくなった人」(1996)に代表されるような「現代人の内面を描ききった」的な路線で社会的な評価を高めることも可能であったと思う。
 けれど、石田徹也はその道を行かなかった。
 彼は、あくまでも孤独な表現者として、人間の内的世界を描く道へ、いや、自分の内面世界を形象化し、そのことで自己の心的世界を剔抉し、これを凝視し、さらには対峙する領域へ、深く深く踏み入ったのだったように想われてくる。

 石田徹也は、2005年5月23日、「鉄道事故」により逝去。享年31歳。

 石田徹也回顧展が、今後も他の地域で開催されることを望む。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 





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Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:42│Comments(0)美術展
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