2008年07月10日

ロシア・アヴァンギャルド展



 7月の初め、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」を観た。
 このモスクワ市近代美術館の所蔵品展で観ることができる作品のうち、美術鑑賞素人のじぶんがこれまで聞いたことのある作者の名前は、カンディンスキー、シャガール、ピロスマニくらいのもので、ロシア・アヴァンギャルドとはどんなものか、じつはごく限られたイメージしかもっていなかった。
 その限られたイメージとは、この展覧会のチラシの表面に大きく採用されているカジミール・マレーヴィチの作品(「農婦、スーパーナチュラリズム」)のような部類だったのだが、この展覧会の展示と年表による解説で、1910年代から20年代にかけて、革命と革命の変質の時代を走り抜けた美術の“前衛”たちの姿が、もう少しだけ広く、しかももう少しだけ確からしいものとして想像できるような気がしてきた。

 ちょうど、若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍』の感想を書こうとして、笠井潔『テロルの現象学』(1984年、作品社)を読み直しながら、ナロードニキからボリシェビキへ、さらにはスターリニズムへ至る過程の革命観念の変質について考えていたところだった。
 考えていたところだった・・・などというと、如何にもなにかそれなりの見識をもったようなふうに聞こえるが、まさに語のとおり、“考えていた”という以外にここに書くべきことなど持ち合わせていない・・・。

 だから時代性をきわめて素朴に関連付けてしまうのだが、たとえば、20世紀初頭のパリのフォーヴィスムの影響を受けた帝政ロシアの前衛画家たちが、その時代のロシア・インテリゲンチャ総体の宿念ともいえる“ナロード”という観念の影響を受けて、「ネオ・プリミティズム」のような傾向性を帯びるのは自然な成り行きだと思えてくるし、そのゴーギャン的な世界が、同じ時代のパリのキュビズムの影響をも受けつつ、革命の進展のなかで「立体未来派」という方法に転換していくのもずいぶんと合点がいくような気がする。
 そして、立体未来派を主導したカジミール・マレーヴィチの作品が、革命観念の変質(革命党のいわゆる“ボリシェビキ化”と近代的な工場労働者を主体とする革命思想)の時代に、やがて民衆のイメージから完全に乖離して抽象絵画の「スプレマティズム」に至るのも、またこれと機を同じくして、抽象彫刻の「ロシア構成主義」という動きがでてくるのも、いわば当然の帰結だと思われてくる。

 そういえば、このマレーヴィチの作風の変遷は興味深い。
 ブルリューク、カンディンスキー、シャガールが亡命したなかでソヴィエト・ロシアに残ったマレーヴィチは、ナロードの磁場を離脱し抽象絵画の極点まで至ったかに見えるところで、スターリン政権による抽象芸術への弾圧を受け、やがて極めて具象的で伝統的な肖像画や農民の絵画に回帰していくのである。

 すると次には、10月革命前後に作成されたアリスタルフ・レントゥーロフの作品は、そのタッチや彩色が激しくエロス的で、まさに野獣派!という感じなのだが、この作者は、革命の理念が変質していくスターリニズムの時代に、どんな道を辿ったのだろうか・・・と、気になってくる。


 さて、こんなふうに見てくると、観る者はこの展覧会に、次第にストレスを覚えはじめる。

 これらの作品を「革命の季節を駆け抜けた若者たちの軌跡」(チラシの文言)として紹介するのなら、革命思想やロシア・インテリゲンチャの観念の変質とこれら前衛芸術運動の軌跡の関連性について(単純に関連があると見做すのが誤りならその旨)、もっと突っ込んだ解読・解説の試みがほしくなる。

 キュレーターが革命思想やロシア精神史に疎いのか、このあたりをまともに問い始めるとスターリンのみならずレーニンをも批判する内容になるからモスクワ市近代美術館に気を使ったのか(というか、そもそも現在において、ロシア人の目前でレーニンを批判することに気を使わなくてはならないのかどうかをじぶんは知らないが)・・・・、ひねくれものの観客は、この程度の解説では満足しない。
 美術展にそこまで求めるなと言われそうだが、ある種の展覧会に行くと、個別作品につけられた解説では、まるで作者にモチーフを聞いてきたかのように自信満々で特定の解釈を付しているのに、その反面で展覧会構成者としての視点やその口上についてはきわめて通俗的か漠然としているのが常である。
 このアンバランスは、たぶん美術の世界に馴染んだ者は気が付かないだろうが、美術の門外漢にはずいぶん奇異に見える。

 ところで、この展覧会のもうひとつの見ものは、ニコ・ピロスマニの10作品である。
 ピロスマニは、ロシア・アヴァンギャルドとは関係ないところで看板を書いていたグルジアの絵描き。それが“見出され”、ロシア・プリミティヴィズム運動のなかで、中央画壇に紹介されたということらしい。
 放浪生活を送ったというピロスマニの生涯は映画にもなっている。
 ネットで本人の写真をみると、歌にもうたわれるバラにまつわるロマンチックな物語とは無縁で、なんだか“看板屋のオヤジ”という印象だが、このひとの作品の存在が、この展覧会全体に潤いと癒しと、その一方で、じつはじっとりとした陰影を与えている。


 ※ この展覧会は8月17日(日)まで。            


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Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:30│Comments(0)美術展
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