2007年11月03日
札幌行 その1
10月の下旬、約7年ぶりに札幌を訪れた。
札幌行はもう8乃至9回目になる。ここは想い出がたくさん詰まった街だ。
最初に訪れたのは1972年の夏。
札幌オリンピック開催の数ヵ月後で、田舎の中学生だったじぶんには、札幌がまるで理想の都市のように輝いて見えた。
大通り公園を行く人々はみな豊かで生き生きした表情をしていた。
地下鉄は車輪にタイヤを用いていて実に静かでスムーズに走り、オーロラタウン、ポールタウンなどの地下街も洗練されていた。そんな現代都市の風景と道庁や時計台など開拓時代の建物が共存している風景はとても魅力的だったし、それに加えて狸小路や二条市場など下町の感じも好きだった。 そしてなによりそのころの北海道には「ロマン」という心震わせる幻想があった。
そのころのじぶんの中学では春に修学旅行が行われ、その行き先は北海道(函館〜札幌〜小樽)なのだったが、じぶんは直前に体調を崩して参加を取りやめていた。
その夏に同居していた祖母が亡くなり、札幌から祖母の甥か従兄弟(実はいまだにどういう類縁なのかじぶんにはよく理解できない)のおじいちゃんがお悔やみにやってきた。
当時の中学生には驚きだったのだが、そのおじいちゃんは親戚の人の運転で、なんと車で遥々秋田県南部の湯沢市まで駆けつけてくれたのだった。
1972年といえば、東北にも北海道にも高速道路などというものはなかった。一般国道だってろくに整備が進んでいなかったはずだし、車の性能や乗り心地だって今とはずいぶん違ったはずだ。それを札幌から函館へと走り、津軽海峡は連絡船に車を積み込んで、青森、秋田、湯沢と、二日がかりで自家用車でやってきたのだから驚く。いったい何回信号で停まったのだろう・・・。
しかし、このことがじぶんの青春時代に少なからぬ影響を与えた。
なぜなら、初めて会う中学生のじぶんに“一緒に札幌に行かないか?”と何気なく声をかけたおじいちゃんたちのことばに、驚くほどあっさりと乗り気になって、葬式の次の日、その復路の車に文字通り“便乗”して札幌に向けて出発してしまったからである。
この札幌のおじいちゃんの家は、水道工事屋さんだった。
おじいちゃん(家族からはオジジと呼ばれていた)は、札幌の水道の何割だかはおれが敷いたんだと自慢げに話していた。
じぶんは、この家や家族や毎日入り浸る近所の人々の暮らしぶりにもカルチャーショックを受けた。なんと言えばいいか、“大陸的”というのか、雑然としていて大らかとでも言えばいいか。
鉄道と青函連絡船を乗り継いでの帰りの旅も印象的だった。
青函航路の旅情は、まさに石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の雰囲気だったし、生まれて初めての一人旅で吉田拓郎の「落陽」みたいな体験もした。(もっとも前者は1977年、後者は1989年の作品だが。)
写真は、今回泊まった超豪華(!)ホテル「テトラスピリット札幌」(1泊4,200円)の前の通りと、そこから薄野方向へ狸小路を歩いていく途中の風景。(円柱形の高いビルは札幌プリンスホテル)
それにしても札幌にはやたらとホテルが建ったものだ。1ブロックに数軒ずつある。
札幌は依然として魅力のある街ではあるが、70年代の輝きはこんなものではなかった。
あれから札幌はずいぶんと肥大化してきたが、それにつれて北海道はやせ細ってきた。
この街はじぶんにとって特別な街であることをやめ、“一地方都市”になってしまったのだという感慨が湧いてくる。歩いていると涙が滲み出た。(これはちょっとウソだが。)