2013年11月21日

映画製作者と被写体の関係における倫理について(その2)






2 プロフェッショナリズムの醜悪さ

 次は、特集企画「6つの眼差しと<倫理マシーン>」から、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ監督『レイプ』(Rape)(1969)についてその感想を記す。
 上映後のトーク:ゲストは『蜘蛛の地』監督のキム・ドンリョン、パク・ギョンテ氏、聞き手は斉藤綾子氏。
 斉藤氏が解説者的な役回りをし、これに客席にいた阿部マーク・ノーネス氏が被写体に関する情報を提供した。また、同じく客席からイギリスの映画・メディア研究者のブライアン・ウィンストン氏が発言した。

 この映画は、ある若い女性をビル街の路上でカメラ(16ミリ撮影機)が追跡するところから始まる。女性は白人で長髪、しかもどちらかといえば美人である。高級という感じではないが安っぽいという感じでもなさそうなコートを着て、スカートを穿いている。特徴的なのは彼女の目の周りのメイクである。上の睫毛は付け睫毛らしいが、下の睫毛は目の下の皮膚に放射状に描かれている。60年代の終わりには一般人にもこんなメイクが流行ったんだっけ?・・・などと思いながら映像に付き合うことになる。
 彼女は自分が追跡のターゲットになっていることに気づいて、カメラマンに抗議したり、商店らしき店舗に入ったり、タクシーを拾って追跡を振り切ろうとするのだが、それでもカメラマンから逃げ切れず、ついに雑草の茂った墓地で逃走を諦め、強引な撮影に結果的に応じたようなかっこうになる。つまり、狼狽したり腹をたてたりした挙句、諦めのように、あるいは恐怖に震え、または救いを求めて媚を売るかのような表情を浮かべて、撮影に身体を開くような目線やしぐさを垣間見せるようになるのだ。

 フィルムの後半は、彼女のアパートにカメラが押し入り、表情をアップして追い回す場面で構成されている。カメラマンは鍵でアパートのドアを開けて押し入る。彼女は叫び声を上げて追い出そうとするが、ドアには鍵がかかり、内側から開けることはできない。彼女は誰かに電話で助けを求めている。密室でパニックに陥っている女の懐に、視線を忍ばせていくカメラのアングルがエグい。作品を見ている限りにおいては、すべての撮影過程を通してカメラマンは一切の声を発しない。そういう意味でかなりのテクニックをもったカメラマンだということがわかる。

 解説の斉藤綾子氏は、この作品を「6つの眼差しと<倫理マシーン>」のプログラムのひとつとして取り上げた理由を、「カメラが被写体に及ぼす暴力性。何を意図して製作されたかとは別に、カメラの視線が持つ暴力性が直截的に感じ取れる作品」であり、しかも「この作品はオノ・ヨーコが1964年にコンセプチャル・アート作品集『グレープ・フルーツ』に書いた一行のアイデアに発して1969年に撮られたもので、<実験的作品>と位置づけられているが、男性カメラマンがひとりの女性を撮影しており、撮られている方と撮っている方のパワー関係が歴然としているという意味でも問題を提起している」からであると述べ、また、「ほんとうにカメラの暴力性を暴こうとして製作したのか疑問。実験的アートのひとつのアイデアの実践という意味合いで製作したところ、しかし、彼らが意図していなかった暴力性が表れてしまったのではないか」とも語った。

 さて、映像を観はじめてすぐに異和を感じるのは、街の様子がイギリスらしいのに、突然まとわりついてきたカメラマンに対して発する彼女の苦情や抗議らしき言葉のほとんどが何語で発せられているのか、少なくともじぶんには判別できないことだ。英語で聞き取れたのは初めの方の「Sorry, I can´t speak English. 」の一言のみ。あとは上述の電話のシーンで、ドイツ語らしい部分(警察に連絡して!、みたいな内容)が一箇所判別できただけである。

 阿部マーク・ノーネス氏の解説を聞いたら、この女性はハンガリー生まれで、「ハンガリー動乱」(1956年)を機に、親とともにウィーンに逃れ、このときはロンドンでモデルをしていたということだった。(というと、あれはハンガリー語だったのか。)
 ついでに同氏が話したことをじぶんのメモから記しておくと、
 「6、7年前になるが、ウィーンの映画祭でオノ・ヨーコの作品特集が企画されたとき、ヨーコ本人がこの作品の上映後のQ&Aに出てきた。すると客席で私の隣に座っていた女性が質問をした。その質問内容は忘れてしまったが、忘れたのは彼女が“この被写体は私です”と言ったから(驚いて)である。この女性はこのあと建築家と結婚し、骨董屋になった。90年代にハンガリーに戻って、動物のシェルターのようなものを創った。しかし、この女性は今年の5月、自分の雇用していた従業員に殴られ火をつけられて殺されたと報道された。」
 「このカメラマンは彼女を撮るまえに別の人物を2、3人追いかけて撮影したようだが、途中でうまくいかなくなって止めたとのことである。そこで、知り合いだった彼女の姉と話をつけて、アパートの鍵を借りた。彼女が日常的にあの墓地を通ることも聞いていたという。」
 「撮影後、カメラマンは何も言わずに消え、翌日アパートのドアを開けたらジョンとヨーコが立っていて、映画化を承諾してくれたら25,000ポンド支払うという契約を持ちかけてきたそうだ。」
 
 この作品は、いくつかの点でたしかに「暴力的」であるだろう。
 まず、カメラが被写体に対して本質的に暴力的であるということ。これについては、パク監督が韓国におけるこの種のテレビ番組などについて「韓国ではモザイクが入れられているにしても、被写体はカメラにすべてを晒さなければならないという圧力が働いている」と述べていた。
 じぶんなどは、カメラのもつ本質的な暴力性と言われると、すぐにオウム真理教事件を思い出す。つまり、オウムの施設や信者を狙うカメラ(マン)に対してかれらが常にビデオカメラを回していたことを、である。カメラを向けられた信者たちは、つねに肩のところにカメラを構えて取材者に対抗していた。その姿は、見る者にとってこちら側のカメラの暴力性を映す鏡のようでもあった。

 次に暴力的な点は、すぐに看て取れるように男性が女性を追い詰めているということである。
 この作品のカメラマンと編集者はじつに巧妙で、映画の中で一度だけチラッとカメラマンの顔が映し出されるシーンを挿入し、カメラマンが男性だと知らしめている。部屋の中に侵入したカメラマンはほとんど暴漢だが、これがもし屈強ならざるカメラウーマンなら被写体の女性に撃退されたかもしれない。

 さらに暴力的な点は、じぶんが最初に抱いた異和に発するが、被写体の女性が英語のできない東欧人だということである。英語ができないうえにまだロンドンに馴染みがないとすれば、路上で誰かに助けを求めるということを躊躇する可能性が高い。しかも東欧からの亡命者である。これは政治的、民族的な差別を背景に成り立つ撮影でもあるだろう。

 もうひとつの暴力性は、これはパク監督も指摘していたことだが、有名人(権力者)が無名人(権力を持たない者)を撮るということの暴力性である。人権侵害があっても「実験映画」だとして糊塗できる。金の力で被写体を黙らせることもできる。じぶんはこれを観て俗悪なAV作品を連想した。あの、ほとんど実際のレイプ行為を撮影して、あとで金と脅しで「女優」を黙らせたような作品を、である。

 そして、最後の点だが、この作品を観てもっとも印象に残ったのは「プロフェッショナルの暴力」とでもいうべき代物だった。
 この作品は、形式が<実験映画>であるようでいて、内実が伝えてくるものは「実験」とは大きく異なる。それは、一にかかって、カメラによる追跡と被写体に近接してのカメラワークが“プロの仕事”を思わせるほど手際よく展開され、被写体の抗議を圧殺する鉄面皮さとなって現象しているからである。
 この作品の編集者は、これを撮影したカメラマンがいかにプロフェッショナルであるか、それを観客に看取させようと図るかのようにして、16ミリ撮影機のフィルムを交換した後のカチンコ(それはカメラマンの肩掛けバッグに固定されている)をカメラマン自身がカチンとやる場面を何度か盛り込んでいる。というか、一般には編集でカットして作品に残さない部分を、あえて観客に見せつけている。
 この作品が孕むいくつかの醜悪さのなかで、ここが一番のキモとなり、ひいてはもっともキモちの悪さを感じさせる部分である。

 客席にいたイギリスの映画研究者ブライアン・ウィンストン氏は、この映画のタイトルバックに記されたカメラマンたちの名前(うち一人は「ニック・ノーランド」と言った。もう一人の名前を高啓は聞き取れなかった。)を見て、次のようなことを語った。
 「これらの人物は、イギリスではプロフェッショナルとして名の通ったドキュメンタリー映画のカメラマンたちだ。イギリスでは<実験映画>と<ドキュメンタリー映画>ははっきりと区別されており、<ドキュメンタリー映画>の地位は高いが、<実験映画>の地位はそうではない。この作品をプロフェッショナルの仕事としてみた場合どうなのかを考えたい。」

 これにじぶんが応えるとすれば、じつにザッハリッヒな話になる。
 ようするに、これらの一流カメラマンは、ジョンとヨーコという有名で金持ちで道楽者の製作者から“プロ”として依頼された仕事をこなした。ただそれだけなのだ。しかし、それだけであるからこそ、かれらがそこで表現してしまうのは、まさに「プロフェッショナルな眼差し」という、鉄面皮で圧制的で野郎自大なゲバルトに他ならない。
 映画『レイプ』では、カメラマンの「プロフェッショナルな眼差し」の前で、被写体の女が身体を開いて「プロフェッショナルな被写体」に変容していく過程が見て取れる。そしてこの過程のすぐ向こうには、札束を抱えて佇む、クソのように幼稚でアマちゃんで醜悪このうえないジョンとヨーコの姿がたち現れてくるのだ。(この項、了)

                                                                                    


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Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:48│Comments(0)映画について
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