2009年06月22日

映画『マタンゴ』感想

映画『マタンゴ』感想

 2009年6月20日、山形市蔵王松ヶ丘のシベールアリーナで開催された「本多猪四郎特集・ゴジラを取った男」という上映会に出かけ、同監督作品「マタンゴ」を観た。

 この上映会は、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」のプレイベントとして開催されたもので、現在の山形県鶴岡市(平成の合併前の朝日村)出身である本多猪四郎監督作品を回顧する企画。「空の大怪獣ラドン」(1956)、「妖星ゴラス」(1962)、「ガス人間第1号」(1960)、そして「マタンゴ」(1963)の4本が上映され、途中で井上ひさし氏の講演も行われた。
 この日、じぶんが観たのは「マタンゴ」(脚本・木村武、特技監督・円谷英二)のみ。
 この作品を観に行ったわけは、昔、子どものころに観て、何度も怖い夢を見せられてきたから。

 チラシの作品紹介には「この作品を観てトラウマになったしまった人も多いはず。ある種恐怖映画だが、人間のエゴがむき出しになったヒューマンドラマでもある。水野久美がもっとも想い出深い作品という。覚せい剤や麻薬使用への警鐘が込められている。」とあるが、まさにこのとおり、素直にも?この作品にトラウマを刻まれた子どもだったわけである。

 子どもの頃の印象としては、とにかく暗く、恐ろしい映画だった。映画の内容はかなり朧気になってしまっているが、しかしそこから感じた恐怖感や気色悪さの印象はかなり生々しく記憶に刻まれている・・・大きな難破船のシークエンスと、キノコ人間たちが襲ってくるという光景は、年長になってからも、何度も夢に現れてきた。
 これは、この機会にそのトラウマの正体を見極めておかずんばなるまい・・・と勇んで出かけたわけである。

 さて、子どもながらに感じたこの気色悪さを振り返ってみると、佐藤肇監督作品「海底大戦争」(1966)に出てくる半魚人に対するそれと、どこかで、つまり生身の人間が変身させられるという点で通底しているのだが、こちら<半魚人>は、人間の手で改造されたサイボーグであることから、作品への恐怖は、むしろ強制的に行われる人体改造への恐怖と言うべきなのに対し、マタンゴはもっと抽象的で、なにか神話的な恐怖を表現しているような印象さえあった。
 そもそも、人間がキノコ(正確にはキノコ人間?)になってしまうという、それ自体では荒唐無稽な話でありながら、なぜそれがトラウマになってしまったのか・・・この辺りが不思議だった。

 映画は、無人島からただ1人逃げ帰った主人公・久保明(役名を覚えていないので、以下全て俳優名で記す)が、後姿のまま、都心の精神病棟から窓を眺めて独語するシーンから始まる。窓の外には、眩いネオンの街が見えている。
 すぐにタイトルバックが始まり、ヨットの帆を背景に出演者名が出る。このときの軽快な音楽と、波間を疾走する大型ヨットのシーンがずいぶん明るいのに驚く。ここだけみればまるで「若大将」シリーズだ。じぶんの記憶の中では、この映画は白黒作品だったような印象があった。

 あらすじを記すと・・・ヨットで航海に出かけた若者たちが、時化にあって無人島に流れ着き、そこで大型の難破船を見つける。食物(缶詰)はあるのに、人間はいない。人間の死骸もない。
 若者たちは、やがてすぐに、うまく食物を採取・捕獲できない焦りや脱出の展望が開けないこと、そして性的な欲求不満などから、食料や女性やグループの主導権をめぐって対立し、争うようになる。そこに、ある夜、キノコ人間=マタンゴが現れる・・・。
 やがて、食料不足に絶えかね、キノコには手を出さないようにという申し合わせに反して、ついに1人の男がキノコを口にする。・・・そして精神がハイになり、女を誘う。
 以下、人間の仲間同士、あるいは人間とマタンゴ化しつつある人間の抗争があって、結局はみんながマタンゴに取り込まれ、唯一、久保だけがそれを拒否して脱出する・・・こんな感じである。

 配役は、自分では状況を打開できない金持ちの御曹司に土屋嘉男、その友人だがじつは子分のように飼われていたスキッパーに小泉博、土屋の愛人でキャバレーの歌手に水野久美、土屋の友人でマジメな大学教員に久保明、久保のフィアンセに八代美紀、など。
 なかでも水野久美の妖艶さがひときわ目を引く。なかなかの存在感である。そして、土屋嘉男の陰影ある演技も印象的だった。
 また、清純で初心な娘だったはずの八代美紀が、ついに無理矢理マタンゴに取り込まれ、キノコを口にして微笑みながらフィアンセの久保を招くシーンで、彼女の顔が微妙に膨れていたのが怖かった。


 この作品では、久保を除いて、すべての人間が醜悪または虚弱なエゴイストに描かれている。人間としての理性や倫理を貫こうとするのは久保ばかりで、あとの連中はエゴの塊という正体を暴露する。
 しかし、人間性を貫き、マタンゴを拒否して逃げ帰った久保は、最後のシーン(それは最初のシーンに直結している)で、こうして命からがら帰りついた日本自体が、マタンゴのような人間たちで満ちているではないか、あの島でマタンゴになった者たちの方がむしろ幸福だったのではないか・・・というような趣旨の科白を口にして、顔をこちらに向ける。すると久保の顔は、すでに一部がキノコ状に変貌しているのだ。

 この作品は、まさに「ゴジラ」が破壊しようとしつつ結局は破壊しつくさなかった東京あるいは日本の、その後の姿を描いている。60年安保を頂点とした政治の季節は急速に過ぎ去り、所得倍増計画と高度経済成長の時代、言い換えれば(東京には)拝金主義あるいは欲望自然主義の時代がやってきていた。
 子どもだったじぶんがトラウマを植え付けられたのは、オドロオドロしい怪物マタンゴに襲われる恐怖を感受性豊かに受容したからだったのだろうが、こうして大人になって「鑑賞」してみると、この映画は、時代精神への批判というか、この時代の人間への批評が前面に出ている作品であって、本質としては恐怖映画とか怪物映画という代物ではなかったのだということがよくわかる。
 こんな文明批判的なモチーフを社会的な人間ドラマとして描かず、怪物映画として描いたあたりに、「ゴジラ」から志向された日本映画独特の趣というか、精神の屈折が見てとれる・・・などと、したり顔で語ることもできそうな気がする。


 さて、今更ながら、ずいぶんニヒリズムに彩られた映画だったのだなぁ〜と近しげに思うと、そういえば、昔むかしのじぶんは、人間の性根、つまりは我欲に対して、強く嫌悪というか恐怖心を抱くような子どもだったことに気づく。
 すると、怪物映画だからトラウマに苛まれたというよりも、むしろ、人間嫌いの感受性を日々の生活のなかで拡大再生産していたじぶんが、マタンゴのオドロオドロしさを人間そのもののオドロオドロしさに錯合して、夢で何度も恐怖と忌避とを追体験してきたのかもしれない・・・などとも思えてくる。

 しかしまた、今のじぶんは? と問い返せば、人間嫌いの心理はなお一層心の深いところに保持しつつも、今なら、ただただ水野久美の妖艶さに惹かれて、間違いなく甘美なキノコを口にするだろうな・・・・・・おおっと、そんな中年オヤジになり下がっているのである。

 
 なるほど、どうりでこのところ久しくマタンゴの夢をみていなかったわけだ・・・。あっは。
                                                                                                                                                                                                                                                             









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Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:23│Comments(0)映画について
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