2011年03月21日

大震災10日目の仙台行

大震災10日目の仙台行

 2011年3月20日(日)、山形からバスで仙台を訪れた。
 3月11日の東日本大震災のため、生活物資が不足している仙台市青葉区の友人に食料を届けるためである。

 いつもなら満席になる仙台行きのバスだが、この日の便は客が半分にも満たない。
 その多くが大きな荷物を持っている。自分と同じように宮城方面へ物資を担いでいくのか、宮城方面から買出しにやってきて帰るところなのか、と、そんな感じである。
 なかには、郷里の被災地の家族の元に駆けつけようと、物資をかき集めて山形経由で仙台入りするように見える者もいる。(JALのタグがついたバッグやケースが目に付く。震災後、山形空港は24時間体制で空輸の拠点となっている。)

 バスは笹谷トンネルを抜けるまでは高速道路を走ったが、その先は高速道路を通れないため一般国道286号に降りて仙台市内に向かった。高速から降りるときに渋滞したが、いつもより30分程度遅れの100分ほどで広瀬通りのフォーラス前についた。
 広瀬通りから仙台駅そして終点の仙台市役所まで、車窓から仙台市内の様子を観察する。

 まず、道路を走る一般車両の数が想像していたより多い。平常時の数分の1くらいだが、それでも“ああ、やっぱり車の通行量が少ないなぁ”という感じではない。それに繁華街を歩く人たちも、いつもの日曜とは比べものにならないが、まぁそこそこの数である。
 車窓から見える建物に目だった損傷は確認できない。市中心部に入る手前で、瓦屋根が一部損壊している住宅を見かけた。 また、ごく一部、ビルの外壁にヒビ割れが入っているのや、外壁の一部が剥がれ落ちているのが見えた。視認できたのはそれくらいのものである。

 多くの店は閉まったままだが、ラーメン屋やなか卯などの飲食店、FRONTO、VELOCEなどのカフェも一部営業している。駅前のダイエーの周りには長い行列ができている。
 コンビニの多くは閉店したまま。ガラスの壁には内側から新聞紙などが張られ外から中が窺えないようにしてあるが、サンクスなど一部が営業しているのを確認できた。
 駅前のバス停の集中した区間には、仙台を経由して石巻など太平洋沿岸の被災地へ向かう人々の行列ができている。その黒っぽい防寒の服装と手荷物の多さが、やはり大変な災害が起こっているのだということを感じさせる種類のちょっと異様な雰囲気を醸し出している。
 こんな風景の中で目を引いたのは、いくつかの街の花屋が、何事もなかったかのように店先にたくさんの切花を並べて営業して風景だった。

 じぶんはバスを乗り換えるために、仙台市役所前で降りた。
 市役所の正面玄関は閉まっている。この状況で玄関を閉じているのは疑問であるが、市役所に押しかける住民も一段落したということか、市職員も疲弊しているから玄関ぐらいは閉じておこうということか・・・。
 市役所前の広場には、神戸市、横浜市、堺市などからチャーターされて派遣された大型バスが並んで駐車されている。街を走る京都市の救急車も見かけた。
 遠い地方からも救援の手が差し伸べられている。だが、それらはどの程度有効に活用されているのだろうか。

 そんなことを考えながらバスを待っていると、そこに運良く手押しで弁当を売り歩いている料理屋(屋号を発声しながら売り歩いていたが聞き取れなかった)の台車が通りかかった。箱の中にあるのは「シャケ・イクラ弁当800円」。自分は、普段ならまずこの手の弁当に手を出すことはないのだが、このときは当然事情が違った。これは現状における“超豪華弁当”である。これを土産に3つ買い求めた。

 さて、山形市内のスーパーで買い求め、友人の家に持参したものは次のとおり。なお、山形市内のスーパーの棚も7割方は空になっていたので、たいしたものが買えなかった。友人宅では電気と水道は回復したが、ガスや灯油は調達の見込みがないとのことだったので、調理しなくてもいい食材を選んだ。
 牛乳1リットル入り1パック(一人1パックの購入制限があった)、日本酒(「爛漫」)1.8リットル入り1パック、トマト4個、キュウリ4本、温泉卵9個(生卵は売り切れだった)、ソーセージ、魚肉ソーセージ、鯉の甘煮、ピーナッツ入り味噌、魚の缶詰4個、自家製の餅と小豆の缶詰、柿ピー(モンテディオ山形応援のでん六「勝ピー」)、せんべい、チョコレート、さきいか、カップ麺4個、永谷園のお吸い物・・・
 自分が持参したものをテーブルの上に載せていくと、友人はそれをデジカメに収めていた。

 すぐに例の弁当を開いて友人夫妻と3人で昼食。
 友人は、今の仙台では貴重品にちがいない缶ビール(!)の栓を抜いてくれた。弁当は、シャケとイクラが乗ったご飯に、おかずとしてフキノトウの煮付けや竹の子、それに玉子焼きが添えてあるのがうれしい。たしかにこれは料理屋さんが作った弁当だなと思えた。
 「シャケ・イクラ弁当」と缶ビール・・・ああ、なんて豪勢な昼食なのだろう。友人の奥さんは涙がでるほど美味いと言った。だが、それもお互い、家族を含めて皆が無事だったからではある。

 友人は、加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店)と、DVDになった佐藤真監督作品の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE 』を貸してくれた。
 そのうち、このブログに感想を書きたい。


 さて、帰りの山形行きバスは6〜7割の客を乗せていた。
 数日前のように山形経由で被災地から脱出するという緊迫感は感じられなかった。まだそういう乗客もいたし、山形に買出しに来るようなそぶりの客もいたのではあるが、仙台経由で気仙沼や石巻に向かう客とは、ずいぶんと雰囲気が違っていた。

 ところで、塩竃にいる友人にも、先日やっと電話がつながった。
 171災害伝言ダイアルのおかげで無事でいるということは分かっていたのだが、直接声を聴くまでは心配なものである。職場で地震に見舞われたが、同僚に避難させてもらい(友人は半身に麻痺があり、歩行が不自由である)、二晩ほど避難先で過ごしたという。
 友人の自宅は高台なので幸いにも津波による被害を免れたが、電話以外のライフラインはまだ復旧していないとのことだった。水がないのが厳しいようだ。
 往復のガソリンさえ手に入れば、彼にも水と生活物資を届けたいのだが、山形でもガソリン不足は深刻である・・・。


 この大震災と原発事故の経験は、じぶんたちの精神に、静かに、だが大きな影響を与えているような気がする。大げさに言えば、それはちょっぴり時代が変わるような予兆でもある。
 これから、そのことをじっくりと考えていきたいと思う。
                                                                                                                                                                                 







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Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:02│Comments(0)歩く、歩く、歩く、
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