2011年05月25日

薄情者の大阪行(その1)



 2011年5月21日(土)、東京駅から、東海道新幹線で大阪へと向かう。

 安田有さんとセンナヨウコさんが発行していた寄稿誌『COTO』が終刊したので、大阪の寄稿者が発起人となって「COTOありがとうの会」が開催されることになり、その案内がじぶんにも送られてきた。
 こんな機会でもなければ当分は大阪を訪ねることもないだろうし、この機会を逃せば安田有さんといつお会いできるかわからない。思い切ってぬけぬけと顔を出すことにしたのである。
 

 21日の昼過ぎに新大阪駅に着くと、まず構内のJRの案内所で天王寺に向かう路線を尋ねた。
 駅員のような男性職員は、地下鉄なら乗り換えなしで行けるが、JRだと大阪駅で乗換えが必要だと言う。そこで、「何線に乗ればいいのですか?」と尋ねると、「どれでもいいですよ」と言うのである。首をかしげながら大阪駅に向かうと、いくらなんでもどのホームの列車に乗ってもぜんぶが天王寺に行くとは思えない。(苦笑)
 それで今度は改札口の男性駅員に訊くと、すぐさま「1番線です」とだけ言う。そこで「環状線」と書かれた1番線ホームから、そこに来た電車に乗り込む。
 いくつか駅を経ていくが、どうも様子が変だ。「ユニバーサルシティ」とかいう駅を過ぎ、“終点”の「桜島」に着いてしまったのだ。(再苦笑)
 じつは、このあと、御堂筋で淀屋橋近くのホテルに行こうとしてGoogleの地図のコピーを視ているときも、通りがかりのおばさんからヘンな教えられ方をした。こちらが道を尋ねたのではなく、向こうから親切に「どこに行かれます?」と声をかけてくれたので、大阪のおばちゃんはずいぶん親切だなぁと思って話を聞いていたが、どうも見当ハズレなことを自信ありげに言っている。さすがに3度目なので眉唾で聞き、結局は自分が持参した、あの見にくいGoogleの地図から場所を見つけ出した。
 ・・・大阪のひとは、やはりわれわれとはちょこっと違う・・・と思った次第。(笑)

 天王寺で降り、通天閣を眺めながら、天王寺動物園と市立美術館の敷地に挟まれた通路を新世界へと向かう。両側が高いフェンスで囲まれていて、緑の空間なのに閉塞感がある。両施設の敷地とその間の通路を区画するためにフェンスが必要なのはわかるが、空間デザイン上、もう少し工夫があってもいいような気がする。

 さて、新世界を訪れるのはこれが3度目。
 1度目はたぶん1980年頃だった。いま、故郷の秋田県湯沢市で、末期がんと闘っている高校時代の友人Y氏を大阪に尋ね、彼の案内で新世界を訪れたのだった。Y氏は、東京での仕事に疲れ、帰郷の決意をしていたのだったと思うが、その前に東京で稼いで貯めた金で関西を見物して歩くと言って、大阪に部屋を借りていたのである。
 確か、その足で彼と二人して山陰へ小さな旅に出た。ふたりともNHKのテレビドラマ「夢千代日記」のファンだったので、そのドラマに出てくる餘部の鉄橋を渡りに行ってみようと思い立って出かけたのだったと思う。城之崎温泉かどこかの安宿に泊まった記憶がある。
 この頃の新世界は、まだ汚くてちょっと危ない雰囲気があったような記憶である。ジャンジャン横丁の串カツ屋で、初めて関西風の串カツやどて焼きを食った。いちど口を着けた串カツは、二度とソースの容器につけてはいけないというルールに緊張した。(笑)
 2度目は、1990年代の前半だったと思う。女房と息子たちを連れて、親類のいる神戸に向かう途中、青春時代の想い出の場所である新世界を再訪したのだった。
 1990年の「国際花と緑の博覧会」(通称「大阪花博」)を経て、新世界は小奇麗に整えられすでに「観光地」になっていたが、それでも周りには露天商が店を出していたり、ルンペンがいたりして、昔の面影がいくらか残っていた。
 以前に訪れたときと同じ店で、息子たちにルールを言い含めながら串カツを食わせた。息子たちは、親父の嫌いなお好み焼きも食いたがったので、ジャンジャン横丁の出口近くのお好み焼き屋にも、しぶしぶ入った記憶がある。
 3度目の今回も、やはりまたあの串カツ屋に入った。だが、若い女性やカップルが増え、店の客層は昔とすっかり変わっていた。店員が中国語を話しているのを聴いて、時代の移り変わりを感じた。生ビールのジョッキを1杯と、串カツを4本と、どて焼きを1本で、計1,100円。これだけでそそくさと店を後にした。

 ほんとうは、大阪に来る暇があったら、Y氏の見舞いに湯沢へ帰省すべきなのだ。正月以降は、大震災後の仕事の忙しさにかまけて、安否を問う携帯メールさえ送っていない。・・・なんと薄情な<似非友人>ではないか。
 ・・・だが、しかし、彼になんて声をかければいいのか。
 ・・・“まだ生きているか”と、何よりそう問いかけなければならないのだが、では、じぶんはなんのためにそう訊くのか・・・ぬくぬくと生きているじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないのか・・・そんな想いがして、ひとりこんなところに足を向けているのだった。
 (Y氏については、「山形詩人」69号に発表した「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」という詩で触れている。)

                                              以下、次回へ。






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Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:24│Comments(0)歩く、歩く、歩く、
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