2013年07月18日

大急ぎ サロベツ原野行(その3)







 稚内発13:45の「特急サロベツ」で豊富駅に行き、そこから駅前発15:03の「沿岸バス」で「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」を訪れる予定だったのだが、駅員に尋ねると、前日のJR北海道の特急「北斗」の火災事故のため、同型の車両を全部点検することになった、それで特急「サロベツ」も運休だ、と言うのである。
 豊富駅前発15:03のバスがサロベツ原野へ向かう最終便だったため、これに間に合わない!?と一瞬アタマの中が真っ白になったが、時刻表を見ると14:12発の普通列車がある。そこで、もしや?と駅員に豊富到着時刻を尋ねると、14:57だと言う。(・・・助かった!)
 しかし、よく考えてみると、稚内発13:45の特急サロベツの豊富駅着は14:26で、稚内と豊富の間は特急でも41分かかる。それなのに、14:12発の普通列車でほんとうに間に合うのか?と心配になり、再度駅員に確認した。するとやはり45分で豊富に着くダイヤなのだった。
 特急が41分かかるところを各駅停車が45分で着くのはどうして?・・・今度はそう駅員に尋ねると(しつこく質問する客だ(苦笑))、「この区間は90キロしか出せないんです」との返事。じゃあ、鈍行も特急も同じ速度で走るっていうことか、と納得?する。

 続いて、もうひとつ、これは大事な質問だが、“では、「北斗」や「サロベツ」が運休なら、「スーパー宗谷」や「スーパー北斗」も運休なの?”と尋ねると、“今回火災事故を起した「北斗」は古い車体だが、「スーパー北斗」は「振り子式」の列車なので大丈夫”と言うのである。「振り子式」の車両というのは何かで読んだ記憶があったが、今回の火災事故関係でなぜ「振り子式」が安全なのかは理解できなかった。つまり、駅員の説明態度はどちらかと言うと軽佻浮薄に聴こえ、事故多発を深刻に受け止めている様には感じ取れなかったのである。(この後、JR北海道の車両が7月15日にまたもや火災事故を起した。)

 とはいうものの、1両編成の宗谷本線の普通列車は特急に負けない速度で原野を貫いて快適に疾走し、予定通り豊富駅前から路線バスに乗ることができた。
 バスの運転手に、「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」から「明日の城」まで歩くつもりだがどのくらい掛かりそうかと尋ねると、男の足で1時間余りだろうという答え。
他の乗客はセンターからの帰途にタクシーを利用しようとしていたが、バスの運転手は「ここにはタクシーが1台しかないから予約を入れておいたほうがいい」とアドバイスしていた。

 さて、北海道では路線バスも爆走する。豊富の町を抜けると、まもなく「サロベツ湿原センター」に到着した。
 とうことで、1枚目の写真は同センターの遊歩道(木道)から湿原を映したものである。
 ちょうどエゾカンゾウ(ニッコウキスゲ)の花が咲き、湿原の広範な領域にわたって群落が存在していることを窺わせている。またあちこちに、ワタスゲ、タチキボウシ、コバイケイソウなどの花も見ることができる。
 しかし、遊歩道の区域は乾燥によりササなどの侵入がかなり進んでいる。「サロベツ湿原センター」内の展示で環境省が実施している湿原の保全事業についての説明を読んだが、実際にはあまりササの侵入を防げていないように見える。このまま乾燥が進めば湿原全体に広がり、湿地の植物たちは駆逐されていくだろう。









 2枚目は、湿原センターに隣接して建てられている「泥炭産業館」の内部の様子である。かつてこの湿原で泥炭を採取していた時に使用されていた、浚渫機械や泥炭を粉砕して乾燥させる機械などが展示されている。乾燥された泥炭は「土壌改良材」として販売されていたが、その現物も展示されている。

 そうこうしているうちに、時刻は16時を過ぎていた。遅くとも18時までには宿に着かなければならないので、急いで「サロベツ湿原センター」を後にし、この夜泊まる予定の「明日の城(じょう)」を目指して西に歩き始めた。
 風があり、また小雨もパラつく天候の中、サロベツ湿原の中をまっすぐに延びる2車線道路を、たまに行きかう車を恨めしげに眺めつつ、登山用のリュックを背負ってテクテク歩いた。
 “サロベツ原野を歩いてみたい”というのがこの旅の主なモチーフのひとつだったわけで、それを達成したということにはなるが、事前に予想していたとおり、原野はやはり原野であり、エゾカンゾウの花が美しく咲いているにもかかわらず、2年前に釧路湿原を訪れたときと同じようにそれはじぶんにとって必ずしも感動的なものではなかった。むしろそうであることがわかっていたのに、ここにこうして来てみたかったのである。







 3枚目はそのテクテク歩いた道路の写真。まっすぐな道路ではあるが、泥炭地に建設されているため、路盤が沈んだり傾いたりすると聞いた。そういえば、写真からも波打っているさまが窺える。
 バスの運転手は1時間余りと言っていたが、50分以上歩いても原野の向こうにそれらしき建物の姿は現れない。1時間余り歩いたところで低い丘陵に差し掛かかり、さらに道路の分岐を2箇所ほど越えて歩き続けていくと、やっと道路端に木製の案内看板を見つけた。そこから林の中の私道を少し昇ったところに建っているのが今夜の宿「明日の城(じょう)」だった。70分は歩いただろうか。








 「明日の城」(写真4枚目)は、サロベツ湿原に建つ唯一の宿。外見や内部の造りは小奇麗な洋風ペンションのようだが、基本的に相部屋。主にいわゆるスキーヤーズ・ベッドが設置された部屋とフローリングにカーペットを敷いた個室(布団を自分で敷いて寝る)がある。個室の方も、基本は相部屋。宿が空いているときは個室料金を払えば専用にできるとのことである。
夕食は、名物の「牛乳鍋」だった。これは季節の野菜やキノコと骨付き鶏肉のぶつ切りを牛乳の鍋に入れた料理。それに一人一皿の、ホタテやエビやイカなどの刺身盛り合わせが付く。そして牛乳鍋の具を食べてからご飯を入れておじやをつくるという趣向だった。これにトーストと目玉焼きとサラダ、牛乳などが付く朝食を合わせて1泊2食で4,900円。(牛乳鍋がダメという人は、事前に連絡すると別の料理に替えてくれるようだ。)いかにもバックパッカーやバイクまたは自転車のツーリングの客を相手にする宿という感じだ。
 団塊の世代くらいの年齢に見える宿の主人は九州の佐世保出身。20代からここでこの宿を営業しているとのことである。というのも、宿の居間にこの場所で若者相手の宿を始めたときからのアルバムが何冊もあったので、収められていた写真やこの宿に関する新聞記事のスクラップをじっくり拝見させていただいた。そこで、奥さんは大阪出身で客としてここを訪れ、主人にプロポーズされたこと。そして、前の建物は火災で灰になり、二人で出稼ぎをしながら現在の宿を再建したこと、などを知った。
 ご主人夫妻が醸し出す宿の雰囲気には開設から現在に至るまでの歴史が感じられ、まさに60~70年代の若者の“北海道の旅”のイメージが微かに残っているように想える。リピーターも多い様子で、ご主人夫妻の気さくな人柄と、ご主人の若い頃に貧乏旅行者相手に営業していた頃を髣髴とさせるようながらっぱちな立ち居振る舞いが印象的だ。もっともそれゆえに、自分が若い貧乏旅行者のように扱われること(たとえば団体行動を指図するみたいな言動)に抵抗がない客にとってはいい宿だと思えるが、“おれはサービスを受けるべき客なんだぞ”という意識を持つ人にはお薦めできない宿かもしれない。
 なお、ここは原野の中の一軒屋でもあり、手ごわい蚊やブヨが出ることに用心する必要がある。じぶんは、4人の相部屋で、そのうちのひとり、ライダーの若者が持参していた電池式の電気蚊取りのおかげで難を逃れることができた。

 ところで、夕食時に5人で同じ飯台に席を割り当てられ、従って同じ鍋をつつくことになったのだったが、このとき牛乳鍋を一緒につついた70代後半(夫は80近くに見えた)の老夫婦一組と団塊の世代くらいの夫婦一組、合わせて二組の夫婦の同宿者と話を交わしていくつかの想いを抱いた。このことがこの旅のいちばんの収穫だったかもしれない。それを次回に書いてみたい。(続く)                                                                                                                                                                                                                           



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:33Comments(0)歩く、歩く、歩く