2010年09月14日
「山形詩人」69・70号及び高啓の詩へのコメントへのコメント
1 高啓の最近の作品
高啓は、「山形詩人」69号(2010年5月)に詩「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」、同70号(2010年8月)に詩「女のいない七月」を発表している。
また、山形県詩人会の会員による『アンソロジー・2010 山形の詩』(2010年9月)に、詩「ラヴ・レタァ」を発表している。
2 現代詩手帖・詩誌月評
『現代詩手帖』2010年4月号の詩誌月評で、評者の水島英己氏が、「山形詩人」68号(2010年2月)に発表した詩「冬の構造」を取り上げ、紹介と批評を書いてくれた。
以下にその一部を引用する。
「意味も描写も明確ななかで、『手を結びながら歩くのは冬の構造である』や、『けれど、知らぬ間にたどり着いたのは危うい視点場なのだ』という暗喩的な表現に苛立ちを覚える人もいるかもしれない。『危うい視点場』というのは、そこからこの二人の、とくに女の側の心的外傷になっているような記憶を想起させる怖れに結びつく何かがお城の下の街に見える場ということであろう。島尾敏雄の小説の世界のそばにいるような気もする。『冬の構造』や『危うい視点場』という表現が必須のそれかどうか? この二人の歩みの個別性と普遍性を媒介するという意味で、この詩にとっては不可欠なことばだと私は考える。この詩に私が惹かれるのは風景が時間的な継起として捉えられている、その見事さにある。」
「自らの経験的現実を『ことば』で書く詩のあり方として野村(注)と高の二人の詩を挙げた。野村のことばは沈黙を目指している。そこでは現実の事実内容そのものが消えてしまい、『ことばで』で(ママ)書くことの無根拠さをさらけ出す。高のことばは堅固さと精確さを誇ろうとする。しかし、常に事実内容の重大さが、ことばで書くことを無化しようとしている。二人の詩が堪えているのは現実とことばの現代的な関係のあり様である。」
(引用者注)野村尚志個人誌『季刊 凛』29号の詩「日暮れの弁当」
この論評に突っ込みを入れようとすればその論点は盛りだくさんだが、まずは限られた月評の紙幅のなかでこのように丁寧に取り上げていただいたことに感謝したい。(ただし、残念なことに、高啓の詩の引用部分に少なくても3箇所の転記ミスがある。)
ところで、「冬の構造」や「危うい視点場」という言葉は、「暗喩的な表現」なのだろうか。「冬の構造」は抽象語だとはいえるが、暗喩というのとは少し違う。また、「危うい視点場」は、暗喩ではないどころか、抽象語でさえない。なぜなら、作品のなかでそこが物理的(地理的)な視点場であることと、「危うい」のはなぜかということを、まさに水島氏が理解しているような内容を読者が想像できるように、詩行において説明的に記述しているからである。(ちなみに、この区画整理で消えた連れ込みホテルと移転した中央病院のことは、高啓の別の作品にもっと詳しく出てくる。高啓の詩集の読者には、高啓の詩作品は、連作小説みたいに読んでいただけると思う。)
高啓の詩は、ほんとうは、いくつかの限られた抽象語や暗喩表現に頼ることで「この二人の歩みの個別性と普遍性を媒介する」というような必要を感じない位相で書かれている。
この作品は、その総体として、この二人にとって個別的な対幻想の世界が、普遍的な時空構造として現れるという世界を描いている。逆にいえば、普遍的な時空構造は、対幻想としては、つねに/すでに、個別的に(というか、むしろ固有なものとして)生起するしかないということだ。
しかし、こういうことが読者に伝わりにくいので、「冬の構造」という抽象的な表現で、いわば堪え性がなくて馬脚を現すかのようにして、<世界>という観念への、しょうべんくさい導きのことばを挿入してしまったのである。
もっとも、この月評における水島氏の評価眼は、この作品の勘所のひとつに向けられてもいる。「この詩に私が惹かれるのは風景が時間的な継起として捉えられている、その見事さにある。」という表現で、この作品が、散策の風景を辿ること、つまり情景を映画的に構成していくことで、ふたりの時間意識を描こうとしているところに着目してくれているところである。
作者としては、だがしかし、この作品が、その志向の結果として、「見事」なものになっているかどうか自信はない。
3 瀬崎祐氏のHP「風都市」関連ブログ
詩人の瀬崎祐氏が、自らのHP「風都市」の関連ブログ「いただいた詩誌・詩集から」http://blog.goo.ne.jp/tak4088/e/ff48f48ea360754d2d72951c5e3f61a6において、上記の『山形詩人』第70号掲載の「女のいない七月」を取り上げている。
論評の一部を引用する。
「感情も感覚もむき出しで、荒々しい。その生理的な部分を容れた作者の肉体がそのまま迫ってくるようで、圧倒され、それゆえに魅了される。巧みなのは、迫ってくるものが肉体そのものであるように見せていて、やはりどこまでも感情であるところだ。」
「『女とはそんなつながりだったんだ』と気づいたりもして、女が不在であることによってはじめて見えた事柄が、すざまじい(ママ)存在感を放っている。当然のことながら書かれている内容はどこまでもフィクションであるわけだが、書き表したものにここまで生の感情を載せることができることに、感嘆する。」
上記2つの引用部分の間に作品の最終連が引用されているが、残念なことに転記ミスで最後の2行の前が1行空けられていまっている。実際は最終連に行明けした部分はない。
さて、このように気を入れて読んでいただいたうえに、このように感嘆していただいて、作者としては恐縮するばかりだが、一言断らせていただけば、高啓はこの作品のどこにも「生の感情」を載せたりしていない。この作品がその総体で表現しようとしているのは、「肉体」やら「感情」やらであるように見えて、じつはむしろ<観念>といったものに近い。
なお、この「女のいない七月」のなかで、女に向けて「ラヴ・レタァ」という詩を書くという件があるが、その詩が『アンソロジー・2010 山形の詩』に掲載されている同名の作品である。
【余談的な註】
「山形県詩人会」は、現在存在している団体で、山形県在住の詩人たちの多くが所属している任意団体。
個人の自由意志による加盟で、会としての思想傾向や組織方針などはない。
たまに「詩人会議」という団体と混同する人がいるが、組織としてはまったく関わりはない。(山形県詩人会の会員で、県の詩人会議に所属している人はいるかもしれない。)
また、かつて「山形県詩人協会」という団体が存在し、「県詩賞」という賞を運営していたが、いまの「山形県詩人会」はこの流れを汲むものではない。(まったく無関係というものでもないが・・・)
山形市民会館設計案への異和(5)
近江正人詩集『真夜中のスイマー』(高安書房刊)
佐藤傳詩集『日々のなかの旅』(高安書房刊)
秋田魁新報にエッセイが掲載されました。
『切実なる批評-ポスト団塊/敗退期の精神-』所収の黒田喜夫論について
『切実なる批評』-ポスト団塊/敗退期の精神ー』配本しました。
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Posted by 高 啓(こうひらく) at 23:13│Comments(0)
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