2007年11月08日

北蔵王縦走



 10月の初め、刈田岳から笹谷峠まで、北蔵王を日帰りで縦走した。

 蔵王エコーラインの刈田岳駐車場から登りはじめ、刈田岳からお釜を眺めつつ、熊野岳の非難小屋から右(東側)のコースへ入る。 これは蔵王スキー場を経て温泉に至るコースと反対のコースで、山形県と宮城県の県境の稜線を行く、いわゆる北蔵王縦走路の一部である。

 刈田岳から熊野岳に向かう火口湖「お釜」の縁(外輪山の稜線)は「馬の背」と言われ、あたりは荒涼とした岩礫帯。その無国籍的(?)風景をロケハンされて、最近公開された映画『ジャンゴ』(三池崇史監督作品。副題は“スキヤキ・ウエスタン”)の撮影現場になったという。もっとも、映画を観ていないので、その場面が使われているのかどうかは知らない。




 追分と呼ばれる蔵王ダムへ下るルートとの分岐点を経て、名号峰から灌木帯を八方平の非難小屋へ向かう。
 ここらへんからクマの出没を避けるために鈴を揺らしながら行く。
 小屋で小休止。これは宮城県が建てたもの。新しくはないがけっこう立派な小屋だった。
 ここからは、急峻な痩せ尾根のアップダウンが続く雁戸山へ向かう。


 北蔵王連峰のスカイラインは、山形駅に降り立った旅人が初めに眺める山形の象徴的な風景だ。鮫の歯のように尖がった雁戸山の稜線が印象的である。
 ただし、15年ほど前に山形新幹線の開通に合わせて山形駅の駅舎が建替えられ、駅舎出口(=ベディストリアンデッキ上の出口)が駅前通りのラインからずれてしまい、連峰への視界が開けないことになってしまった。
 なお、この駅舎出口から駅前通りを経て雁戸山を望むビスタを確保するため、ベディストリアンデッキは山形メトロポリタン・ホテルの方に不自然に出っ張っている。ご存知だったろうか。(拙詩集『母を消す日』のなかの作品「ベディストリアン・デッキのドッペルゲンガー」は、この場所を舞台にして書いたものである。)





 雁戸山周辺の「蟻の戸渡り」と名づけられたアップダウンの激しい痩せ尾根を歩いていると、左手下には蔵王ダム、その向こうに山形市内が見え、右手には遠く仙台市内が望まれる。前には延々と連なる山々・・・。いい眺めだ。
 しかし、こんな細い尾根を挟んで左と右で世界が異なってしまうのかとため息がでる。
 左は「裏日本」で雪に埋もれ、右は「表日本」で晴れ晴れとした世界・・・わかっちゃいるが、なんか不条理だ。






 雁戸山を越えると、また灌木帯に入り、カケスガ峰から山形県側のルートに入って、樹林帯をしばらく下る。
 やっと山形工業高校の山小屋に着き、笹谷峠の駐車場に下りる。

 約8時間半の行程で、実質的には6時間余りの歩き。登山マップでは390分程度の表示になっているから、まずまずのペースだったことになる。
 しかし、下りだけは先導者がすごいスピードで行くので、ついていくのが大変だった。
 久しぶりの山歩きで、翌日から二三日は腿が痛かった。

 その歳でそれだけの体力があることに感謝しなさい・・・そう年上のひとから言われた。
 たしかにそのとおりだと思った。・・・感謝。m( _ _ )m  

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2007年11月06日

仙台行



 10月のある日曜日、仙台在住の友人に誘われて広瀬川河畔での芋煮会に参加させていただいた。
 どんな集まりなのかというと、かつて存在した仙台市内のある飲み屋の常連客だった人たちが年に一度会し、こうして芋煮会を催すのだという。
 じぶんが知っているのは友人夫妻だけだったが、大きな顔をしてそこに参入してしまった。

 広瀬川は前日の降雨で水嵩が増していた。
 この辺りの河畔に下りたのは初めてだったが、芋煮会のメッカ、山形市の馬見ヶ岬川のように河川敷が整備されているわけではなく、草茫々で、向こうにビルが見えなければ大都市の中心部を流れる川とは思えない風情だった。
 芋煮会には、むしろこんな場所の方がいいかもしれない。




 芋煮鍋は、いつも豚肉を入れた味噌仕立ての「仙台風」と、牛肉を入れた醤油味の「山形風」の二種類を作るのだと言う。
 じぶんは山形風の鍋の火焚きを手伝ったが、どちらの鍋にも鍋奉行がいるわけでもなく、いつの間にか女性たちが具を入れて、あっという間に出来上がってしまった。
 仙台では、豚にしても牛にしても、肉は水を張るまえに鍋で炒めておくのだという。
 仙台風は、いわゆる豚汁。これにはいろんな具が入れられていたが、どうもじぶんは豆腐が入っているのに白けてしまった。豚汁だと思えば豆腐が入っていても平気なのだが、芋煮に豆腐というと違和感がある・・・なぜかな。
 山形風は、本場のようにごてごて芋と肉を煮ないで、あっさりめ。日本酒が入らないのでいまいちコクがないが、こちらは本場の山形風芋煮より美味しいくらいだった。




 集まりは40代〜50代のおじさん、おばさんなのでが、そのなかに数人の宮城教育大学の学生だという男女も混じっていた。某体育系サークルの面々だという。
 じぶんは青森県出身の男子学生3人とちょっとだけ話したが、みんな真面目そうな学生だった。
聞くと、青森にはこうした野外でやる風物詩としての鍋の宴がないという。
 3人とも郷里で教員になることを望んでいたが、募集人員が少ないので採用されるのは厳しい、だから首都圏も受けると言っていた。

 車座になって自己紹介するとき、彼ら学生が応援団風に声を張り上げて「○○ケンリツゥ〜○○コオコオゥ〜シュッシン〜、ミヤギ〜キョウイクダイガクゥ〜・・キョウイクガクブゥ〜・・○○カテイセンコォオ〜・・・何のだれそれドゥォエ〜ス」とやるので、じぶんも「アキタケンリツゥ〜ユザワコウコウォ〜シュッシン〜、ヤマガタダイガクゥ〜・・・ジンブンガクブソツギヨゥ〜・・・」とやってしまった。バカである。(--;




 けっこう酔いながらも、帰り道、市役所前の山形行きバス乗り場まで歩いていく。
 途中、三越デパートの裏を通ったら、最後の写真のような古い飲み屋の集まった一画があった。地上げにあっているのか、営業している店はほとんどないようだった。
 さて、今日はこんな店に集っていたひとびとの芋煮会だったんだろうか・・・。
 それにしても、じぶんが魅力を感じた古き良き仙台は、こうしてどんどん消えていく。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:46Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年11月04日

札幌行 その2


 
 
 二回目に札幌を訪れたのは3年後の1975年の夏だった。
 高校3年生の夏休み。札幌にあった桑園予備校の夏期講習に出かけたのだ。

 桑園予備校の「桑園」というのは地名で、駅名(札幌駅の隣駅)でもあった。この予備校は既に存在しないようだが、当時は秋田県の高校でも桑園予備校主催の模擬試験をやっていて、“北海道大学を受けるなら桑園予備校”という感じだったように思う。
 もう記憶はかなり曖昧になっているが、桑園の隣の琴似駅(だったような気がする)の近くにあった商人宿みたいな旅館が受講生の宿舎となっていて、じぶんたち遠方の受講生は勉強用の座卓と卓上用の照明スタンドを持参して参加したのだった。8畳ほどの和室に秋田県の各地から来た受講生が4人詰め込まれた。

 


 じぶんは予備校の授業には毎日出席したが、授業が終わると宿舎での勉強はそっちのけで札幌の街を歩き回っていた。
 薄野ではトルコ(今で言う“ソープランド”)の客引き(若い女性の)に声をかけられて、びくびくしながら“ぼ、ぼ、ぼくはまだ高校生です・・”なんて言って逃れた記憶もある。
 そもそも、高校時代まで授業に出る以外に勉強することがほとんどなかったのだ。
 自宅や図書館でも、予習復習はもとより受験勉強というやつをほとんどしたことがなかった。(大学入学以後、これをひどく後悔したが。)
 高校生なのに家でまで勉強するやつはバカだと思っていた。大学受験は、勉強して合格するのではなく、人格(?)で合格するものだと、なんとなく思っていたフシがある。(苦笑)

 夏期講習が終わり、明日は帰るという晩に、その旅館に同宿していた道内や他県からの受講生たちと別れの宴を催した。
 もちろん酒を飲み、語り合い、ついには夜更けに大声で歌を歌いだした。宿の職員からの注意もなかったので、いい気になっていたのだろう。
 ところがなんと、酔っぱらってトイレに行くため廊下に出たら、そこに制服姿の警官がいるではないか! じぶんの高校は規律違反への処罰が厳しかったので、その姿を見た瞬間、頭が真っ白になり“ああ、これでおれの高校生活は終わりだ・・・”と思ったものだ。
 その若い警官は、しかし幸いにも、近所から苦情があった、夜も更けてきたからしずかに・・・とじつにやさしく諭し、そのまま帰っていってくれた。





 そして、次の年じぶんは北海道に憧れて北大を受験し、当然の如くに失敗する。
 それから4年後、今度はほとんど何の準備もしないまま法学部の大学院を受験するが、ドイツ語の試験で出題されたマックス・ウェーバーの「プロ倫」が一行もまともに訳せず、これまた当然失敗。もっとも、このとき北大を受けたのは北海道に渡るのが目的ではなく、そこにかなりマイナーだったじぶんの専攻分野(日本政治思想史)の教授がいるからというのが理由だった。

 大学受験のための札幌行、さらにはとりわけ印象深い大学院受験のための札幌行でも、忘れられない体験をしたが、そのことはまたいつか別の機会に記したい。
                                                                                                                      
 写真は、一枚目と二枚目が薄野の中心部。
 夜、一枚目のビルの2階の「さっぽろっこ」という居酒屋で肉じゃがとホッケ焼きを食べた。
 三枚目は、薄野から中島公園方向へ歩いていく途中で見かけた「ノアの箱舟」というレストラン(?)。

 札幌の街中を東西南北に歩き回っていると、この街が思っていたほど大きくないことに気付いた。
 



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:19Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年11月03日

札幌行 その1



 10月の下旬、約7年ぶりに札幌を訪れた。
 札幌行はもう8乃至9回目になる。ここは想い出がたくさん詰まった街だ。

 最初に訪れたのは1972年の夏。
 札幌オリンピック開催の数ヵ月後で、田舎の中学生だったじぶんには、札幌がまるで理想の都市のように輝いて見えた。
 大通り公園を行く人々はみな豊かで生き生きした表情をしていた。
 地下鉄は車輪にタイヤを用いていて実に静かでスムーズに走り、オーロラタウン、ポールタウンなどの地下街も洗練されていた。そんな現代都市の風景と道庁や時計台など開拓時代の建物が共存している風景はとても魅力的だったし、それに加えて狸小路や二条市場など下町の感じも好きだった。 そしてなによりそのころの北海道には「ロマン」という心震わせる幻想があった。




 そのころのじぶんの中学では春に修学旅行が行われ、その行き先は北海道(函館〜札幌〜小樽)なのだったが、じぶんは直前に体調を崩して参加を取りやめていた。
 その夏に同居していた祖母が亡くなり、札幌から祖母の甥か従兄弟(実はいまだにどういう類縁なのかじぶんにはよく理解できない)のおじいちゃんがお悔やみにやってきた。
 当時の中学生には驚きだったのだが、そのおじいちゃんは親戚の人の運転で、なんと車で遥々秋田県南部の湯沢市まで駆けつけてくれたのだった。
 1972年といえば、東北にも北海道にも高速道路などというものはなかった。一般国道だってろくに整備が進んでいなかったはずだし、車の性能や乗り心地だって今とはずいぶん違ったはずだ。それを札幌から函館へと走り、津軽海峡は連絡船に車を積み込んで、青森、秋田、湯沢と、二日がかりで自家用車でやってきたのだから驚く。いったい何回信号で停まったのだろう・・・。
 しかし、このことがじぶんの青春時代に少なからぬ影響を与えた。
 なぜなら、初めて会う中学生のじぶんに“一緒に札幌に行かないか?”と何気なく声をかけたおじいちゃんたちのことばに、驚くほどあっさりと乗り気になって、葬式の次の日、その復路の車に文字通り“便乗”して札幌に向けて出発してしまったからである。




 この札幌のおじいちゃんの家は、水道工事屋さんだった。
 おじいちゃん(家族からはオジジと呼ばれていた)は、札幌の水道の何割だかはおれが敷いたんだと自慢げに話していた。
 じぶんは、この家や家族や毎日入り浸る近所の人々の暮らしぶりにもカルチャーショックを受けた。なんと言えばいいか、“大陸的”というのか、雑然としていて大らかとでも言えばいいか。

 鉄道と青函連絡船を乗り継いでの帰りの旅も印象的だった。
 青函航路の旅情は、まさに石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の雰囲気だったし、生まれて初めての一人旅で吉田拓郎の「落陽」みたいな体験もした。(もっとも前者は1977年、後者は1989年の作品だが。)





 写真は、今回泊まった超豪華(!)ホテル「テトラスピリット札幌」(1泊4,200円)の前の通りと、そこから薄野方向へ狸小路を歩いていく途中の風景。(円柱形の高いビルは札幌プリンスホテル)
 それにしても札幌にはやたらとホテルが建ったものだ。1ブロックに数軒ずつある。

 札幌は依然として魅力のある街ではあるが、70年代の輝きはこんなものではなかった。
 あれから札幌はずいぶんと肥大化してきたが、それにつれて北海道はやせ細ってきた。
この街はじぶんにとって特別な街であることをやめ、“一地方都市”になってしまったのだという感慨が湧いてくる。歩いていると涙が滲み出た。(これはちょっとウソだが。)




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 14:07Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年06月06日

杉の美林を見に行く

 山形県最上郡金山町を通りかかった。
 この町は金山杉の産地として有名である。

 金山町には景観条例があり、道路から見える家々が「金山型住宅」という切妻屋根と白壁、杉板張りの建物に統一されている。よくこれだけの民家が協力したものだと思う。

 (詳しくは「街並み(景観)づくり100年運動」を参照。)




 杉の美林というものを見たいと思い、すこしわき道に逸れ、「大美輪(おみのわ)の大杉」
という杉の林を訪ねた。
 樹齢約240年、樹高59メートル、幹の周りが3.45mという巨木群が保存されている。
 深い林ではない、いわゆる里山であるが、その林の感触について旨く言い表すことはできない。
 植林された杉林というものが必ずしも心地よい場所だとは限らないのだ。
 ここの杉たちは圧倒的な迫力をもって、まるで一帯にシールドを張り巡らしてでもいるかのように、その質感を押し出してくる。

 こういう美林が、日本にはあちこちにある・・・そんなふうになんとなく思い込んでいるが、外国産の大量輸入とそれに伴う国産木材価格の大幅な下落で、林業経営は極めて成り立ちにくくなり、管理放棄される森林が増えているという。
 森林の荒廃が進み、この日本的景観も危機に瀕しているのだ。








 来た道を帰ろうとして、ふと気づいた。
 里山の手前の農地に菜の花が咲いている。後ろの黒々とした杉林と美しいコントラストを構成している。
 だが、作付けしたというには生え方が疎で、水田からの転作で菜種を植えてあるという様子では、どうもない。休耕のまま、耕作放棄されているように見える。

 少子高齢化と過疎、地域社会崩壊の足音・・・おそらくは、それがこの美しい風景の裏側に張り付いた意味である。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 23:57Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年05月26日

新緑の蔵王



 新緑の蔵王を訪ねた。

 蔵王中央ロープウエイの山頂駅を降りると、そこには大きなお地蔵さんが鎮座している。

 ここから振り返り、地蔵岳の山頂まで残雪の上を歩く。





 この日は晴天で、下界では初夏を思わせる暑さだったが、地蔵岳の山頂(1,736m)は強い風が吹いていて体が芯まで冷える。

 ここは毎年最高で風速50メートル以上の風が吹き、冬でも雪は積もらない。気温は零下20度位まで下がる。(零下20度までしか下がらないと言うべきか。)

 この強風と凍上の環境の中でよく植物が生育するものだ。
 ミネヤナギ、ミヤマネズ、タカネコウボウ、ガンコウラン、コケモモ、ミネゾウ、ミヤマハンノキなどが寄り集まって、小さな植物島のような塊をつくっている。

 まず、なにかひと株の植物が根付くとそこに風で表土が集められ、その表土に少しずつ植物が集積していく。すると集積した植物が根を張る部分の土は凍上によって持ち上がり、島のようにもっこりとしていくのだ。



 その島の風が当たる側(蔵王では西側)はまるで波で削り取られた海岸ように土が削り取られて、草木の根が剥き出しになる。だがその一方で、風下の側は植物がより繁茂し、群落をつくっていくのである。









 こうして密集したガンコウランの花(写真)が、いま咲き始めている。

 ショウジョウバカマの花も一株みつけた。









 北を望むと雁戸山への稜線がきりりとしていて心地よい。
 






 南は熊野岳(写真左手のピーク)で、これを過ぎると蔵王のシンボルお釜が姿を現す。

夏に、あの逞しくも可憐なコマクサを見にきたいと思う。  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:46Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年05月02日

ブナの森を歩く



 新宿の雑踏を歩いた次の日、山形に戻り、月山の麓の県立自然博物園を訪れ、インタープリターの案内でブナの森を歩いた。

 このあたりは標高900メートル。約5メートルの積雪があるという。
 この季節でもまだ2メートル近い積雪が残っている。


 積雪の圧倒的な圧力に耐え、ブナはたくましく育つ。
 ブナの寿命は樹木としては比較的短命で、約200年から250年だそうだ。
 月山の麓にはブナの豊かな天然林が広がっている。もうすぐ開花の季節だという。


 兎の糞があちこちに落ちている。ブナの表皮や芽を食べている。糞はおが屑のようでほとんど臭わない。



 ブナの中には、このようにのた打ち回って育つ木もある。
 積雪の関係で枝が下に引っ張られ、捻じ曲げられてしまう。だが、植林されたアカマツなどが枝折れしてしまうのと比べ、ブナは極めてしなやかで、積雪の圧力の中をかいくぐるように枝を伸ばしていく。










 ブナの枝にはヤドリギが取り付く。
 ヤドリギの実は鳥の餌となり、糞として別の木の梢に付けられ、広がっていく。
 そのヤドリギに寄生されたせいなのか、ブナの梢には拳骨のように瘤ができている。
 これはブナが瘤を作ってヤドリギを退治しているという見方もできるという。





                                                                                                                                                                                          








 ブナの森から姥ヶ岳を望む。
 この写真では判別できないが、肉眼では山の雪面にかろうじて蟻のような人影が見えた。
 月山スキー場のスキー客である。
 ここからは月山山頂は見えない。左手に少しだけ写っているのが湯殿山である。




 ブナの森には癒される。
 だからブナの森で死にたいと思ったことがある。


 だが、動物に食われ、蛆虫や昆虫に食われる姿を想像すると、その気もやや萎える。
 おれは所詮俗物である。


   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:41Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年05月01日

歌舞伎町の夜明け


 GW連休の前半、新宿を訪れた。

 連休中の日曜日、だが休前日にもあたるこの日の夜、久しぶりに新宿ゴールデン街に廻ってみた。
靖国通りから歩道を入ると、あの長屋街の入り口のところにあったタバコ屋が消えていた。
 そのむかし上京するたびによく通った「トウトウベ」もとっくに看板は架け替えられているので、その長屋の二階のどこだったのか、もはや正確な場所の判別が覚束なくなった。

 だが、相変わらずこの入り口近くの、あるスナック風の店の前には、やはり背丈より少し高い観葉植物の鉢が置いてある。これは20年数年前から変わらない光景だ。あの頃はその陰の暗がりに女装した人物が立っていて、通りかかるいい男に声をかけるのだった。

 やがてバブルの時代がやってきて、ゴールデン街は次第に往時の賑わいを失っていく。そして地上げ屋が入り、長屋の店々は文字通り櫛の歯が抜けるように減っていったのだった。
 私はそれまで一度もこの暗がりから声をかけられたことがなかったが、この時期になるとその人物はもはや選好みしていられなかったのかこの私にも声をかけてきた。
 そこまできているのか・・・と、一抹の寂しさを覚えたことを思い出す。


 「トウトウベ」は詩人の安田有さんがやっていた店だ。
 そこに通うようになったのは、当時私が山形で参加していた詩と批評の同人誌『異貌』に、20代で自死した詩人・立中潤の作品に関する批評を掲載したことが機縁だった。(1982年7月の創刊号から「先験的自立者の憂鬱―立中潤ノオト―」を連載。)

 新宿5丁目あたりだったと思うが、伊藤聖子さんが「詩歌句」というスナックをやっていて、山形県出身のつながりである人に教えられてその店を訪れた。
 そこで今度は伊藤さんから、早稲田大学で立中潤と親しかった安田さんがゴールデン街で店をやっていると教えられ、「トウトウベ」を訪ねたのだった。

 なお、立中潤の作品は、死後、弓立社から『闇の産卵』『叛乱する夢』の2冊にまとめられ発行されている。

 余談だが、伊藤聖子さんといえば、そのころ『新宿物語』という本を出版していて、「詩歌句」は文学者(いわゆる「新宿文化人」?)の間では有名な店だったようだ。
 まだケツの青い田舎の若造だった私が訪ねて行ったときも、伊藤さんは親切に応対してくれた。
 そして、文学青年に見えた?私に気を使ってくれたのか、店の常連だという埴谷雄高や井上光晴が草野球のチームをやっている写真を見せてくれたのを憶えている。
 
 余談の余談だが、それまでに一度だけ埴谷雄高の講演を聴いたことがあった。
 きりりとした輪郭で、あの文体そのままに語る埴谷からはオーラが立ち昇っているように見えたものだ。
 <自同律の不快>を語る埴谷が草野球チームのメンバーと笑顔で記念撮影している俗物的な写真など見たくないと思ったほろ苦い記憶が蘇る・・・。

 ところで、安田有さんが「トウトウベ」を閉めて故郷の奈良県に引き上げてからも、関西出張の折に彼の始めた古本屋を訪ねて行ったことがあった。もう20年も前のことだ。
 安田さんは自宅へ案内してくれ、たまに来店する客の一人に過ぎなかった若い私を、旧い友人のようにもてなしてくれたのだった。
 
 その後、安田さんと私は、年賀状やそれぞれの作品が掲載された詩誌を送り合うだけの関係で推移してきたが、昨年、その安田さんから、彼の主宰する雑誌『coto』へ詩作品寄稿の依頼が舞い込んだ。
 私はよろこんでこれをお受けし、2007年1月発行の13号に「骨髄ドナーは呻き呟く」という作品を発表した。次の号にも依頼されたので、また作品を寄稿させていただきたいと思う。

 さて、新宿では、3丁目の、その昔、クリスマス・ツリー爆弾で爆破されたポリス・ボックスの近くのビルの8階にある「御八」という居酒屋チェーン店で窓際に座り、夜の街を見ながらしこたま飲んだ。
 真向かいの三菱東京UFJ銀行は、休日のために全館消灯のままだった。
 
 ・・・なぜか急に、新宿がつまらない街に見えた。新宿がつまらない街に思えたら、東京全体がつまらない街になってしまうのに・・・。

 
 
 歌舞伎町の新宿プリンスホテルでは、夜明けにカラスたちの声で目が覚めた。

 ビルの海に真っ赤な朝陽が昇る・・・・。夜の新宿は人間の欲望が渦巻く世界だが、夜明けから昼前まではカラスたちの嬌声が覆いつくす世界なのだ。  

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2007年03月28日

乃木坂から歩きはじめて


 3月24日、ちょっと用があって東京に行ってきた。
 ついでに、足の向くまま気の向くまま、地下鉄千代田線の乃木坂駅で降りて、国立新美術館(写真)のアトリウムを通り、六本木を歩いた。
 先日、開館記念展の「20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―」というのを観に来ていたので今回はこの美術館は素通りして、東京ミッドタウンを見てみようと思ったのだった。

 手元の1985年の地図では、いま国立新美術館と政策研究大学院大学のある場所には東大の生産技術研究所があり、東京ミッドタウンのある場所には防衛庁があった。
 私は、べつに都市開発や建築の関係者ではないが、東京の中心部の再開発地は基本的に全部見ておこうと思い、これまで上京の折に、新宿西口、恵比寿、丸ビル、汐留、品川、六本木ヒルズ、表参道ヒルズなどをぶらりと訪れてきた。

 東京ミッドタウンは、これから通りに面した周辺部の歩道も整備するらしいが、しかし都営大江戸線六本木駅の出口辺りから外見を見ただけでは、猥雑な地区に突然高層ビルがそそり立っているという感じ。道路(外苑東通り)と超高層ビルの間の距離があまり取られていないので、やや圧迫感を覚える。ビルの外観自体は気配りされたデザインなのだろうが、周囲の盛り場とマッチしていない。
 生憎、東京ミッドタウンは3月30日がグランド・オープンということで、まだ工事中。一部はオープンしているのかと思ったが、ぜんぜん中に入れなかった。

 そこでしょうがなく、高速道路の下の六本木通りを渋谷に向けて歩き出した。地図で見るとたいした距離でないように見えたが、六本木ヒルズを過ぎると、西麻布、南青山を経由して渋谷駅隣接の渋谷警察署まで、つまらない通りを延々と歩くことになる。高級住宅街なのだろうが、この高架道路周辺の環境はけっしてよいものではない。
 天気のよい春の午後、日差しを正面から浴びて汗ばみながら、排気ガスの充満した歩道を歩く。そういえば、昨年の夏には強い日差しの中を汗だくで、同じ千代田線の根津から谷中、そして西日暮里まで歩いたことを思い出した。
 この調子だと、東京をあてどなく歩くのが趣味(?)になりそうだ。

 この30年ほどで、もう150回近く上京しているだろう。いつも大きな書店を回るのが中心だから、それほどあちこち歩いているわけではないが、昔から東京の街が好きだ。
 しかし、と同時に、上京するたびに次第に東京はつまらない街になっていくような気がしている。私にとっては、東京がつまらなくなるということは日本がつまらなくなるということと半ば同義だ。
 そういえば、かつては何かを探して東京を歩いていた。だが、いまは“あてどなく”という言葉のほかに適当な表現が見つからない・・・そんな歩き方なのだ。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:28Comments(0)歩く、歩く、歩く、