2015年03月12日

東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その2

 東北芸術工科大学卒業・修了展(2015年2月10日~15日)の感想記。
 その2は、版画、彫刻、工芸、テキスタイルの作品について。

 まずは、版画から。






  村上悠太「ぱじゃまんはしろたんがすき! しろたんはぱじゃまんがすき!」
  奥行きある構図と事物の立体的な描写が、ひとつの自立した仮構世界を産みだしている。
 アニメやSFに影響を受けた子ども時代をあからさまに保存しつつ、成長して初めて感受する世界の奥行き、それがもつエロス的魅力、そしてその世界を遠くまで歩いていこうとする者が抱く途方もない行路(=人生)への想い・・・、それらの錯綜した感懐が繊細に描き込まれている。








 秋庭麻里「石ヶ戸」
 どちらも水性木版で描かれた「イシゲド」という題の作品とこの「石ヶ戸」という題の作品が並べて展示されている。ここに掲げたのは「石ヶ戸」という作品の方である。
 作者は、多色刷り木版は大木や巨石との「会話」だという。グレーが基調の「大木」(倒木?)や「巨石」らしき物体に淡い紅系や橙系の模様が重ねられることで、それら「大木や巨石」が立体的な存在感を高め、まるで水底を移動する魚のようにも見えてくる。
 後ろの灰色系と手前の紅色・橙色系の重ね刷りが、描かれた物体に奥行きを与え、しかもアダジェットほどの速度で移動しているかのような気配を感じさせる。


 次は彫刻、工芸、テキスタイルの作品から・・・







 山本雄大「たとえ」
 木章(クスノキ)、木品(シナノキ)の木彫作品。
 巨大な角のある型動物の頭蓋骨を、上顎の部分から頭部の部分を中心に描いたかのような作品である。これを動物の骨格だと思って観察すると、細部までデザインが行き届いていてこのような未知の生物が存在したかのようなリアリティを感じるのだが、しかしその一方で、このように立てて展示されていると、角の部分が足のようにも見えて、じつに奇妙な生物(あるいは静物)に見えてくる。
 作者は彫刻において仮構されたリアリティに拘りつつも、そのリアリティを否定するような、というかこの作品が抽象的なオブジェであるかのような見せ方をしている。








 沼澤早紀「Cell」
 墓石に使われる黒御影の浮金石(うきがねいし)=福島県産の斑レイ岩の彫刻。
 頭部の大きな人間が複数くっついて(融合して)いるように見える。まるでシャム双生児の妊娠初期の胎児みたいな姿である。
 くぐもった姿勢あるいは異形の胎児のような形態と、この素材がもつ密度感=重力感、そしてこの素材の表面の荒削りさからくる非人工感が、内部生命の力動を感じさせる。
 このように地味で解釈の難しい作品をあえて卒業制作展に出品するというのは、なかなかのチャレンジだと思う。












 高木しず花「お食事こうでねえと土鍋」
 工芸コースの作品。・・・ユニークな形と彩色の土鍋たちである。
 蓋に江戸期の古地図を描いたもの、同心円の的を描いたもの、蓋の取手の部分が水道の蛇口になっているものなど、面白いデザインの土鍋たちが並んでいる。上の写真の手前から2つ目は、大きさの異なる4つの土鍋が並べて置いてあるようにみえるが、この4つはくっついているのである。
 日常で使用する土鍋としていちばんいいかなと思うのは、古地図を描いた土鍋。古地図のデザインがそのまま土鍋のデザインとして活かされていて、そこからなんとなく温かみを感じる。









 東海林緑「溶けるの、まって」
 器の中に凍って浮かんでいた植物をずっと見ていたくて、その形状をガラスで作成したという作品である。いくつか展示されていた作品のなかから、いちばん氷漬けっぽく見えるものの写真を上げた。
 凍った植物は、その氷が溶けるとしんなりする。凍結によって一時はなにか芯のようなものが通ったかのように凛とした美しさを発するのだが、実は凍ることですでに自らの核心部を台無しにされてしまっている。
 ガラス工芸の修得過程の実習作としてみればほほえましいものだが、これを自立した作品だとして見せられると意外にもけっこう複雑な障りに襲われる。













 高橋さとみ「スリップウェア大皿」
 「スリップウェア」とは、イギリスの日用雑貨に用いられる技法で、成型した器にクリーム状にした粘土で模様を描くものだという。
 これらの作品は、遠目からは一見民芸調の落ち着いたデザインの器にみえるが、近づいてよく紋様をみると、3作品ともこれがなかなか毒々しい。
 作者は、これを日用品または民芸品として製作したのか、それともオブジェとして製作したのか・・・と想いを巡らせてしまう。









 遠藤綾「Breath」
 「再生と循環」がテーマだというオブジェ。
 発想と形状は単純なのだが、ドラム缶から蔓のような触手が伸びる異様な形状に目をとめると、ついつい引き込まれてしまう。この黒色の触手が妙にリアリティをもって迫ってくる。
 この作者にとって、「再生」や「循環」は、物質の分子の変化という物理化学的な概念と、なにか力動的な同一性が形状や弾性をかえて生き延びていくという観念的な概念が接続されたものなのである。













 高橋由衣「糸世」
 “きづな”という題のオブジェ。
 半分くらいに割った卵の殻を、ヘビの鱗のように繋ぎ合わせて作られている。
 「食べられる命の存在を忘れずに尊び、また自身の生命の在り方を考えるきっかけになるよう制作した」とコメントが付されている。
 そこには、この大量の卵の殻をどこからもらったかの記載もあるが、実物としての質感は作品に活かしつつも、卵の殻はあくまでも「生命」それ自体ではなく、「生命」の“比喩”まで高められなければならないはずだ。(なぜなら、私たちが食べている卵は無精卵であって、独自の「生命」にはなりえないものだから。)
 なんとなく既視感はあるものの、それでもこの作品はそのボリュームも相俟って展示物としての存在感を放っている。










 永山実沙希「パーソナルスペース」
 洋式便器が置かれた狭い箱の空間。箱の内側には様々な画像の断片が貼り付けられ、便器の上の天井にはアニメーションが映写されている。パーソナルスペースとは「心理学の概念で、具体的には前後1mくらい、(中略)この空間は自分の縄張りのようなもので、この範囲に他人が入ってくると、緊張したり、不快感を覚えます」とのこと。
 個室の内側に写真やイラストなどの画像をびっしり貼り付けるインスタレーションやオブジェはしばしば見かける。言い換えれば、作品としてのオリジナリティがないということになる。
 しかし、この作品は、なぜか、既成の画像やイメージで埋め尽くされた個室の便器に座っている作者(または鑑賞者)の存在を(座ってみろと掲示があるにもかかわらず)想像させはしない。
 このオリジナリティなき「パーソナルスペース」は、それ自体が「パーソナルスペース」の不在を表現している。おそらく作者は無意識のうちに、「パーソナル」なスペースを離脱して、どこかに行ってしまっているのである。だから、観客に“ここに座ってみて”と呼びかけているのだ。

                                                                                                                                      




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Posted by 高 啓(こうひらく) at 20:06│Comments(0)美術展
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