2011年08月31日

愚か者の帰省



 毎年一度は故郷に帰省するようにしている。
 親はもういないが、その街の商店街にじぶんの生家があって、兄が店を継いでいる。
 車で150分ほどの距離にある故郷に帰るのは、だが、じぶんにとっては少しばかりつらいことである。
 その湯沢という街の人々は一見恙なく暮らしているように視え、親類や知人たちはいつもじぶんを暖かく迎えてくれる。だが、じぶんがこの街を出てから時代は大きく変わり、規制緩和と農業の衰退と少子化と高齢化との抗いがたい流れのなかで、この中心街の空洞化は目を覆いたくなるほどに進んだ。
 この街から活気が失われていくゆくさまを見聞きすると、いつも堪え難い悲嘆に襲われる。その感情は、幾許かはこの街を捨てたじぶんの後ろめたさからくるものでもある。

 帰省したのは、毎年恒例の祭りである「愛宕神社祭典・湯沢大名行列」の行われる日の前日だった。http://aios.city-yuzawa.jp/kanko/event04.htm
 毎年8月の第4土曜日と日曜日に、中心街を練り歩く大名行列が執り行われる。8月の5〜7日に行われる「七夕絵灯籠祭り」、そして2月に行われる「犬っこまつり」が、“湯沢三大まつり”と言われ、その華やかさやメルヘンチックな趣きが多くの見物客を集めていたのは、まだ“昭和”と言われていた時代のことだったような気がする。
 これらの祭りは現在でも受け継がれているが、その実施主体である中心商店街の空洞化と住民の減少に伴って(そしておそらくは平成の合併後の新湯沢市の取組み姿勢の変化にもよって)、その規模を縮小せざるを得なくなっている。
 振り返ってみれば、この小さな中心商店街がこれまで営々と、8月のひと月の間にお盆を挟んで「七夕絵灯籠祭り」と「大名行列」との二つの祭礼を担ってきたこと自体が少しく驚嘆すべきことでもあるのだ。・・・酒造と宝石の研磨工場くらいしか製造業のないこの小都市(旧湯沢市)が、かつては如何に豊かで賑やかな商店街を持っていたかを語っても、今の寂れた姿しか知らない者に往時を想像させることは難しい。

 この街は、城下町であり、商業都市であった。それは周辺に深い郡部をもつ地域の中心都市であったからであり、つまりかつては豊かだった稲作地帯に支えられていたからなのであった。
 そのことを逆に言うと、この地域は“豊かな郷土”という幻想の上に胡坐をかいてきたために、そこからの転換が決定的に遅れた。(これは秋田県全般についても言えることである。)
 農業の面では稲作中心から園芸や畜産への転換が、そしてそれ以上に農業と商業中心の産業構造から電気・電子・機械などの製造業への転換が図られなければならなかったのである。
 なぜ、それは果たされなかったのか。その理由がじぶんには手に取るようにわかる。なぜなら、その理由であるところのこの地域の気風が、じぶんがこの土地を捨てた理由のひとつでもあるからである。

 実家に帰ってみると、兄の息子は、家の代表として大名行列の準備に追われていた。しかし、その忙しさの様子がこれまでとは異なっているのだという。
 この街では、5つの町内会が年毎に順番で祭りの当番を担ってきていた。だが、不況と商店街の空洞化による寄付金の減少や住民とくに行列を組む子どもたちの減少による出演者不足が深刻になり、ついに2つの町内会が運営からの離脱を宣言したというのである。
 これまで祭りを担ってきた町内の衆は、これらの状況を受けて大名行列の運営の根本的な改革を目指したという。
 いつから、またどんな由来によるかは不明だが、大名行列は旧市街の南端にある愛宕神社の祭典として行われてきた。神社の神輿を神主に率いられた氏子が担いで周り、大名行列も奴振りもいわば神輿行列の余興のような構成になっていた。実際には、佐竹南家の格式ある大名行列とそれに続く稚児の花車や子どもたちの引く山車の行列がメインなのだが、この祭りの開催自体が神社の所管下にあるために、祭りの運営当番の町内会は神社に毎年50万円もの寄進をしてきたのだという。それをなんとか減額しつつ、運営主体を神社と分離し、各町内持ち回りの過重な負担をなくすために「湯沢大名行列保存会」を組織しようとしたのだという。
 しかし、話し合いはうまくまとまらなかったようだ。そして、この調整に時間を要したために今年の大名行列の準備が遅延し、祭りの2日目の本番を前にして行うことが慣例になっている1日目の“笠揃え”といわれる行列の予行の実施はままならないこととなり、今年は日曜日1日限りの行列となったというのである。
 なお、兄嫁によれば、明治生まれのじぶんの父親が、生前に大名行列に関してこんなことを言っていたと言う。
 ・・・この大名行列は、湯沢の殿様(佐竹南家)が、年に一度くらいは町人も大名行列の真似をして奴振りなどで楽しんでもいいと言って始まったのだ、と。


 昔はじぶんも三度ほど行列に出た。いちばん幼いときは乳母車をもとに装飾した花車に乗った稚児で、次が小学校のとき、鷹匠の持つ鷹の餌の山鳩を模した作り物を竹竿の上に刺したものを持ってあるく下級武士か足軽風の姿。中学時代には裃(かみしも)を着た神輿警護の武士の役だったような気がする。
 行列を組んで歩く子どもたちには親や使用人などの付添人がついて、炎天下を歩く子どもを団扇で扇いだり、行く先々の店や個人宅から差し出されるノートや鉛筆など学用品の祝い物を子どもに代わって受け取り、それらでいっぱいになった袋を抱えて一緒に歩いていたものである。祝いの品は、親戚や町内の家々から自宅にも届けられた。じぶんが幼かったころには、学用品やジュースやカルピスの詰め合わせが、仏壇の前に山のようになった記憶がある。

 大名行列には殿様役の子どもが2人選ばれて、それぞれが立派な紋付姿で騎乗し、付き人に引かれて行進していた。
 息子たちの思い出にと殿様役に応募しようかと考えたことがあった。殿様になるには、馬の借上げ費用や遠方からの運送費用、それに祭り当日だけでも付き人たち延べ10人分の謝礼や飲食の振舞い費用、祭りへの寄進やら何やらで、乗馬の練習期間も含めて1騎あたり150万円は必要になるはずだと言ったら、女房が目を剥いて反対したので話は立ち消えになったが、いまや殿様役は1人に減って、その費用負担は300万円になっているのだという。
 その殿様役を、すでに中心商店街の家々から出すことは叶わなくなっており、今年は、平成の大合併で同じ湯沢市となった旧稲川町の「稲庭うどん」の製造元のある名家が担うということだった。
 この故郷を捨てて久しいじぶんには、いまやこの祭りについて口を挟む資格はない。だから甥に祭りのあり方をめぐる改革の試みとその不調の経緯を詳しく聴き質すことはしなかった。



 話は前後するが、今回の帰省の目的は、墓参りがてらいつものように高校時代の友人たちと盃を交わすためでもあった。
 とくに気になっていたのは、「薄情者の大阪行」で触れた、腎臓の進行がんで闘病中の友人のことだった。昨年の夏に彼の家に顔を出して、なんとか自宅で日常生活を送っている様子を見、それから1〜2度、携帯メールの交換をしていたのだったが、3月の大震災があって、その後じぶんが仕事に忙殺されてしまってから、その忙しさが一段落しても連絡を取っていなかったのである。
 気になりながらもなぜ連絡を取っていなかったかといえば、こちらから連絡を取るということはすなわち彼に“まだ生きているか”と問うことに他ならず、そのように問うことの前にじぶんが尻込みしていたというのがほんとうのところなのである。
 お前はまだ生きているか・・・そう問うことにどんな意味があるのか。それは彼のためではなくじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないか・・・。そんな逡巡のなかでこの半年を過ごしてきた。
 だが、幸いなことに、別の友人にまた飲もうと連絡をとったら、その友人がじぶんの気持ちを察して当の友人に電話を入れてくれた。すると、その進行がんの友人も宴席に顔を出すというのだった。
 こうして、また高校時代の友人たちと4人で飲んだ。宴席に4人そろうのは18ヶ月ぶりだった。

 腎臓がんの友人は、気づいたときはすでに手遅れの状態で、原発巣は切除したが、いまや肺や骨にたくさんの転移があるのだった。
 だが、ネクサバールという抗がん剤が効いているのか、転移したがんの増殖スピードは押さえられており、痛みや副作用の症状に襲われながらも、痛み止めのパッチをして自宅生活を続けることができている。
 彼が言うには、ネクサバールがこんなに長く奏効しているのは、日本では自分の症例くらいのものだろうということだった。
 けれどもこのときの彼の様子は比較的良好で、顔色もよかった。思ったより痩せ具合はすくなく、頭髪も復活していた。
 彼は刺身には手をつけなかったが、旬の焼き秋刀魚の片側を平らげていた。

 農業をやっている別の友人は、今年はじめの大雪で、さくらんぼの雨よけハウスとリンゴに甚大な被害が出たと頭を抱えていた。とくにリンゴは、あまりの大雪に枝の除雪がままならず、枝が折れたり幹が裂けたりして深刻な状態になり、高齢者で後継者のいない農家ではリンゴ栽培を諦めるという者も出ているという。
 彼の家も、さくらんぼの雨よけハウスの鉄パイプに貼り付いた雪で骨組みが潰れそうになり、その雪を払うのに精一杯で、リンゴの木をその丈がすっぽりと雪に埋もれた状態から掘り出して救うところまでは、体力の限界でとてもできなかったと言うのだった。
 農業共済の補償金は出るのかと訪ねると、雪害では対象にならないのだという。
 さくらんぼも全て護りきれた訳ではなく、しかも山形が豊作だったのに湯沢では雪害の影響もあって、今年は出来が悪かったという。彼は、損害の大きさに、いったんはお先真っ暗でどうしたらいいかわからなくなったというが、“もともとアタマが莫迦なもんだからクヨクヨ考えない”と苦笑しつつ、なんとか日々の蔬菜類の出荷で立ち直ろうとしている、と語った。

 がんの友人を見送ってから3人で二次会に行き、店を出たのは午前2時を過ぎていた。4時間近くも何を話していたのか覚えていない。そのスナックのママさんが、国の災害対応のまずさを批判したので、「政府への批判はもっともだが、皆が国の仕事だと思っていることの大方は県や市町村が担当している。県や市町村が機能停止すれば、行政サービス提供の実施機関としての国なんて、そもそもが無いに等しいのさ・・・」酔っ払って、そんなことを偉そうに語ったような気がする。相変わらず愚か者だ・・・(--;
 女性にズケズケ歳を訊くのは失礼だと思ったが、帰り際にそれでもまっすぐ歳を訊いたら、64歳だとの答え。男気のある魅力的な人だった。秋田の女はやっぱりいい・・・。

 こんなに飲んだのは何年ぶりだろう。莫迦さ加減が、まるで、酔い越し金はもたねぇ〜とばかりに飲み歩いた20〜30代のころのようだった。
 だが、身体は確実に歳相応だと思い知る。痛飲のダメージから開放されるのに2日もかかったのだった。                                                                                                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:50Comments(0)歩く、歩く、歩く、