2012年08月17日

「具体」回顧展(新国立美術館)






 「具体~ニッポンの前衛18年の記録~」(GUTAI~The Sprit Of an Era~ 2012年7月4日~9月10日・東京・新国立美術館)を観た。その感想を記す。

 まず、「具体」という美術運動の集団について、展覧会のパンフから拾い読みしておく。

 「具体美術協会」は1954年に吉原治良(よしはらじろう 1905~1972)と彼に私淑する阪神在住の若手美術家17人で結成された。
 この「具体」という名称は、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」という想いからつけられたもの。メンバーは、吉原の「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という厳しい指示のもと、奇想天外でユニークな作品を次々と生み出した。当時、国内ではほとんど評価されなかったが、1957年に来日したフランスの美術批評家で、抽象美術の新しい美学“アンフォルメル”を提唱していたミシェル・タピエが高く評価。1950年代の終わりから60年代にかけてフランスなど海外に紹介され、アメリカ、イタリア、オランダ、フランス、ドイツ、オーストリアなどの美術展に出品された。
 1955年機関誌「具体」を創刊し、以後14号まで不定期に発行。55年に東京で第1回具体美術展を開催し、翌56年には野外での美術展を開催。57年には、大阪と東京で、ホールの舞台を使用した、今でいうところのアート・パフォーマンスの作品発表会を開催している。
 1962年に、大阪中之島に吉原治良所有の土蔵を改装し、活動拠点として作品展示館「グタイピナコテカ」を開設。
 1970年の大阪万博では、万博美術館で野外展示、みどり館で作品展示、お祭り広場で「具体美術まつり」のパフォーマンスを行うなどの活動を展開したが、1972年に吉原治良が急逝し、それを機に解散した。








 さて、ここからはじぶんの感想。

 この回顧展は、時間的な経過に沿って章を立て、日本の高度経済成長時代と重なる「具体」グループの足跡を辿りながら、この時代(era)の精神のひとつの姿を浮かび上がらせるものになっている。
 展示室に足を踏み入れると、まずは抽象的なオブジェの野外展示作品(一部作品については当時の実物写真)にちょっと驚く。ただし、その作品群の迫力にではない。あくまで“今から見て”の感想なのだが、その作品たちの“素朴さ”というか、衒(てら)いのなさ、みたいなものに対してである。
 オブジェ作品はお世辞にも面白いとはいえない。いまなら出来の悪い美術学生でもこの程度の作品は創りそうだ。・・・この想いは、古い8ミリフィルムで上映されている57、58年のパフォーマンスについても感じるものだ。(たとえば、1930年代のドイツ、バウハウスのパフォーマンスに比べたときのレベルの違いは歴然としている。)
 しかし、“いまから視て”という観点や“舞台芸術”としてのレベルの問題をカッコにくくって視れば、1958年の「舞台を使用する具体美術第2回発表会」の映像などはとても面白く思えてくる。この時代の良さは、いまなら“芸術表現”とは看做されそうにないパフォーマンス(いまなら“お笑い”や“受け狙い”の余興とでも看做されかねない表現)も、“前衛芸術”として存立しえたということだ。
 この時代の状況を考えれば、これらの表現が「産経会館」や「朝日会館」などにおいて大勢の観客の前で堂々となされたということは、まさに革新的なことだったはずだ。フィルムに映っている観客の服装を見ればその時代の雰囲気がわかる。・・・「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、ここで確かに新しい時代の扉をこじ開けようと果敢な挑戦を繰り広げている・・・そう見てもいいような気がする。(1957年の「GUTAI ON THE STAGE」というフィルムが上映されているが、これは必見。)

 このグループの活動の興味深いところのひとつは、まず機関誌から活動を開始したところにある。当時の機関誌(印刷物)はまだ粗末で薄っぺらなものだったが、じぶんたちの表現思想や作品の画像を機関誌として記録し、それをもってPRするという点に戦略性を感じる。機関誌ならとにかく海外でもどこでも簡単に送れる。
 また、リーダーの私有不動産(土蔵)を改装して大阪の中之島に活動拠点を開設しているが、これも戦略として有効だ。海外からの視察者に対していつでもじぶんたちの表現を紹介できる。

 リーダーである吉原は、1905年生まれ。白樺派などの人道主義、生命主義に影響を受け、また制作の点では西欧の表現主義にも影響を受けたといわれる。
 吉原は、戦前の1940年にすでに抽象絵画を展覧会に出品している。同盟国のドイツなら抽象絵画は「退廃芸術」として排斥されていた時代だと思うが、地元の芦屋(兵庫県の高級住宅地)が西欧文化に馴染んだ土地柄だったこともあり、その才能と背景が戦後(1950年代)の前衛美術の開花を準備していたのだと見ることができるだろう。







 なお、この回顧展で掲示されている解説によれば、ミシェル・タピエは、具体グループの作品を海外に売るために、運びやすい絵画など平面の作品の制作に集中するよう仕向けたという。たしかに、グループ全体としてみれば、60年代に入ると平面作品は洗練され、レベルは明らかに向上しているという印象を受ける。
 しかし、すこし皮肉な見方をしてみれば、この平面作品への一元化によって、「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、逆に桎梏となってきたのではないだろうか。抽象画の場合、平面構成のアイデアは次第に限られてくるからである。
 もちろん、この回顧展には様々な新しい表現への試みの軌跡が展示されている。しかし、その試みの広がりは、「具体」としての活動を逆説的に隘路へと導いていくようにも思われる。極端に言うと、60年代が進むに従って、様々なバリエーションの平面作品が制作され、その質は向上しているのが見て取れるが、一方で、年次が下るほど、次第に作者名と作品名をシャッフルしてもかまわないような作品群に見えてきてしまうのだ。
 その隘路に気づいたのか、吉原らは、それまでの「熱い抽象」とは異なる「冷たい抽象」の作品の作家たちをグループに加えていく。「冷たい抽象」とは、幾何学化すなわちテクノロジー化された世界観を作品化するもののようであるが、同時にポップ化の要素を胚胎しているようにも見える。

 1970年の大阪万博お祭り広場における「具体美術まつり」のフィルムには、このグループのポップ化が明確に見て取れる。
 スパンコールに覆われた袋を被った登場人物たちが煌きながらニョロニョロ歩き回る「スパンコール人間」、赤い衣装で大きな翼をつけた宇宙人みたいな登場人物たちがバルタン星人のように現れる「赤人間」、纏った毛糸のワンピースを、糸を引っ張られてくるくる回りながら剥がされていく女性の「毛糸人間」、箱のなかから次々に電動で歩く犬の玩具が這い出してくる「101ピキ」、ロボットやボディがプラスチックでできた自動車が登場する「親子ロボットとプラスチックカー」など、“芸術表現としてこんなことでいいのか?”という疑問を蹴飛ばしてくれる上でのみまさに「前衛的」であり、“このパフォーマンスのどこに既存感覚を脅かすものがあるのだ?”という点ではまさに「ポップ化」された表現行為が展開されている。


 1972年に吉原が急逝したとき、具体グループはあっさりと解散を決議した。それはそうだろう。
「政治の季節」が通り過ぎ、すでに日本社会は高度な消費社会へ向かって邁進していた。言い換えれば、日本社会がすさまじいスピードで“具体化”しつつあったのである。

 「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という姿勢を持ち続けるとすれば、時間を経るごとに抽象画の表現思想や手法にとっての“未開の土地”は少なくなり、新たな表現の領野を開拓することの困難性は高まっていく。
 しかし、それゆえにこそ、新しい感動を与えてくれる未知の抽象絵画に向き合いたいという願望が昂じている。  (了)                                                                                                                                                                          





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 15:25Comments(0)美術展