2012年08月04日

十和田市現代美術館






 猛暑の夏、3日ほど夏休みを取って、十和田~弘前~盛岡と、車で巡る旅に出かけた。
 青森県十和田市を訪れた目的は、十和田市現代美術館を見物することだった。

 だいぶ以前に十和田湖や奥入瀬を訪れたことはあったが、現在の十和田市の中心部である旧十和田市(その前は三本木市)の辺りを訪れたのは今回が初めてである。
 観光ガイドブックで下調べしていると、どう見てもそれほどの人口があるとも、地域の中核都市とも思えないこの街に、「官庁街通り」という立派な名称(?)の大通りがあり、それが1キロ以上も続いているということにちょっと奇異な感じを受けていたのだったが、実際に訪れてみて、その通りの広さと立派さに、まずは驚いた。
 片側二車線の大通りの両側には、幅4~5mほどの歩道があり、両側の歩道にそれぞれ二列ずつ並木がある。車道側にあるのが松の並木、歩道の外側にあるのが桜の並木である。この並木の松も桜も立派なもので、この通りが歴史を重ねていることを想わせる。
 昔、陸軍が軍馬局出張所を置いていたことから、この通りは「駒街道」と呼ばれたという。
 今は、銀行、警察署、消防署、商工会館、県の合同庁舎、国の合同庁舎、保健所、裁判所、市役所、中央病院、図書館、公民館、市の保健センター、社会福祉協議会、農協、東北電力、教育会館などの建物がずらりと並び、その中心部に現代美術館がある。
 美術館の収蔵品の一部が通りに面した同館の敷地に野外展示されているほか、美術館と対面するように大通りの反対側には「アート広場」があり、巨大な野外展示作品が数箇所に配置されている。
 ちょうど日曜日だったので、美術館の向こうの広場では、家族連れなどが集まるちょっとしたイベントが開催されていた。まったりとした野外ライブの音も聞こえてくる。
 この広々とした通りだけを見ていれば、立派な通りだなぁ・・・とか、現代美術の作品それもポップ系の作品を思い切って街づくりに導入したものだなぁ・・・などという感想を抱くに止まるところだが、この通りがタッチしている国道102号の商店街の寂れ具合を見ると、しかし、複雑な想いを抱いてしまうのでもある。

 十和田市は、2005年に隣接する十和田湖町と合併して今の十和田市(人口6万5千人)となった。
 この十和田市の中心街となっている国道102号沿線の商店街でも、もはや東北の地方都市のどこでも見られるようになってしまった「“シャッター通り”化」が進行しているのだった。とくに両側の歩道の上にかかるアーケードの塗装が剥げ、錆が目立つのが“寂れ感”をなおさら演出してしまっているのが気にかかる。
 このあとで訪れた十和田湖畔で、たまたま話を交わすことになった十和田市民から聴いた話では、この「官庁街通り」には随分と市の財政支出が行われているとのことだった。「官庁街通りに1億円もするトイレを設置するなら、寂れる一方の十和田湖畔にも金をかけて欲しい」・・そう彼は言っていた。・・・じぶんが市長なら、まずはこのアーケードの錆をなんとかするだろうなと思ったものである。
 もっとも、寂れた商店街に梃入れするのはなかなか容易なことではない。効果的な振興策の創出が難しいのはもちろんだが、単純な施策であっても公費を支出する手法や支援する理由の適切さという点で難しさがあるだろう。
 “行政は、とにかく「一点豪華主義」で、観る者をあっと言わせる現代美術館と周辺空間を作る。それで人を呼び込むから、あとは地元住民と民間が努力して客を獲得してくれ”・・・たしかにこういう考え方もあるだろう。その点からみれば、この現代美術館は奏効している。しかし、東北の小都市の商店街や観光地に“自力更生”の力がどれほど残っているか、それもまた疑問である。
 ガイドブックにも、美術館などのパンフレットコーナーにも、レストランやカフェなど美術館のイメージに釣り合う飲食店の情報がない。現代美術館周辺で昼食の場所を探したが、猛暑ゆえ街をあちこち歩き回ることを避け、結局は近くのチェーン店っぽいラーメン屋に入ることになった。
 肉が欲しくない客も少なくない。B級グルメの「十和田バラ焼き」だけで地元の店に客を招き入れることはできないだろう。




 さて、「十和田市現代美術館」について。
 まずはWikipediaから引用してみる。

(引用ここから)
 Arts Towada(アーツ・トワダ)の拠点施設として2008年4月26日に開館した現代美術館。十和田市官庁街通り(別名:駒街道)に位置する。十和田市企画調整課が計画を行い、プロジェクトの全体監修をナンジョウアンドアソシエイツが行った。
ひとつの作品に対して、独立したひとつの展示室が与えられ、これらをガラスの通路で繋ぐという構成により、美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出しており、来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができるというユニークなものとなっている。また、一部の展示室には大きなガラスの開口が設けられ、アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持ち、まちづくりプロジェクトの拠点施設としてつくられた特徴ある美術館となっている。
(引用ここまで)

 Wikipediaの内容について言及しながらこの美術館の印象を述べると、まずその規模から「美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出して」いるとまでは言えない。だから、「来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができる」というよりも、来館者はハコからハコへと移るように展示室を巡るという感じである。通路が狭いので、この「ハコからハコ」という感じが増幅されてしまう。
 しかし、以下の2点から、「アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持」っているという点はそのとおりであると言っていい。
 ①美術館内のカフェが大きなガラスの開口部によって、「官庁街通り」から丸見えになっており、そこに人影やデザインされた空間が覗えること。
 ②コスタリカの熱帯雨林に生息するハキリアリを巨大化させた真っ赤な作品「アッタ」(椿昇)や花で飾られ形象化された巨大な馬の作品「フラワー・ホース」(チェ・ジョンファ)、建物の外面にリンゴの木を描いた壁画作品「オクリア」(ポール・モリソン)などが「官庁街通り」に面して野外展示されていること。
 また、これらの「開放的な空間構成」と、「官庁街通り」を挟んで美術館の向かい側にある「アート広場」に展示されている作品群が一体的なオブジェ空間を形成している。
 「アート広場」には、水玉模様の巨大なカボチャやキノコの作品「愛はとこしえ十和田でうたう」(草間彌生)、アメリカの子供向けコミックに出てきそうな「ファット・ハウス/ファット・カー」(エルヴィン・ヴルム)、巨大な白い布を被ったお化け(出来損ないのオバQみたいな)「ゴースト/アンノウン・マス」(インゲス・イデー)などの作品が並び、子どもにとっての“巨大な野外おもちゃ箱”風の空間を創出している。
 「Arts Towadaの拠点施設」とやらを、よくここまで糞切って造り切ったものだと行政的な感心をするとともに、「まちづくりプロジェクト」としての野外オブジェの試みは、結局ここに極まるしかないのかという嘆息みたいなものがやってきた。
 じぶんの感覚としては、どうしても、このような巨大なオブジェ群(“戦艦大和型アート”とでも評しておくか)については、「老朽化したらどうするのか」とか「飽きられたらどうするのか」などという姑息な想いが先立つ。現に、じぶんとしては“こういうポップ系オブジェは一度見ればたくさん”という印象であった。・・・そもそも公共空間における美術とは時間とともに変幻する運動ではないのか・・・などという古風なイデオロギーも捨てがたく心中に存在する。


 さて、十和田市現代美術館の常設展示作品で印象に残ったものについての感想を記す。

 まず、入館して最初の展示室に立つ巨大な白人老女の像に目を奪われるのが、作品「スタンディング・ウーマン」(ロン・ミュエク)。巨大であるということは、それだけで芸術的に受け止められるという優位さがあるが、それを差し引いても、どこかしらこの老女があまり性質のいい女ではないなと、いわば文学的想像を掻きたてる点で、これは優れた作品に仕上がっている。
 インスタレーションでは、非常に巧妙に幻影空間を創出しているのが、ハンス・オプ・デ・ビークの「ロケーション(5)」である。真っ暗な空間にやっと眼が慣れると、その部屋はアメリカ風カフェの造りになっている。このカフェはどうも階上に位置するらしく、テーブル席に隣接する窓の下に高速道路が走っている。この道路が夜の闇の向こうに伸びる風景が、作り物のようでいて奇妙なリアリティをもって迫ってくる。
 キム・チャンギョムの「メモリー・イン・ザ・ミラー」は映像作品。鏡のフレーム内に様々な人間が登場しては、鏡に向かって様々な身体の表情を映し、やがて消えていく。これらの登場人物たちがサマになっているという意味で完成度は高いが、それゆえ、登場人物たちが言ってみれば“セミプロ”の役者のように見えてきてしまうと、急にこの作品自体への興味が失われていくというジレンマを抱えている。
 夜の針葉樹林の地上の風景を、黒を基調として再現したリール・ノイデッガー「闇というもの」も巨大なオブジェ。効果的な照明のラインで、夜の闇の不気味さと魔性を演出している点では秀逸だが、その造形に用いた素材か塗料かが、化学薬品みたいな強烈な臭気を放っている。この作品は、この臭気もその一部なのだろうか、それとも作者の臭覚が麻痺していたのか、とにかく臭覚の敏感な鑑賞者を拒絶する作品ではある。
 オノ・ヨーコの「念願の木、三途の川、平和の鐘」については、これを酷評しておく。もし作者がこれをアート作品だと強弁するなら、有名性に持たれかかった醜悪さ以外に感じ取れるものはない。

 最後に蛇足かもしれないが、ひとつ気になったことを述べてこの項を閉じる。
 この美術館では、一般に展示作品ごとに設置してある当該作品の作者名や題名を記載したプレートが存在しない。だから、鑑賞者は入口でもらったパンフレットの写真でいま眼前にある作品を特定し、そのパンフの記載内容から題名と作者と作者の生年及び国籍を知るほかない。また、パンフには当該作品の制作年については一切記載がない。
 パンフに全作品の写真が掲載され簡単な解説が付されているのは好ましいが、作品の付近に当該作品についての表示がないのはいただけない。




 美術館を出て、どこかで一息つこうと、車で通りかかった際に偶然見つけた商店街のカフェ「ミルマウンテン」に入った。まさにエコなカフェと言うべきか、かなり古い木造家屋を改修した店内で、外気温35度でも冷房が入っていない。そもそもエアコンらしきものが見当たらない。二階の席では、首を振る1台の旧式扇風機と、客ひとりに一柄ずつ渡されるウチワが救いだった。(この項、了。)

                                                                                                                                                     


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:44Comments(0)美術展