2013年01月26日

映画「LOOPER」 感想


                                                                                                                              





 山形市の映画館「ソラリス」で、ライアン・ジョンソン監督作品『LOOPER』を観た。
 その感想を記す。いわゆる〝ネタバレ〟となるので、以下を読む場合はその点を踏まえていただきたい。

 これはいわゆる〝タイムマシンもの〟の作品である。
 <未来>で暗躍している犯罪組織が、抹殺したい人間をタイムマシンで<現在>に送ってくる。それが転送されてきた瞬間にショットガンで撃ち殺すのが主人公ジョセフ・シモンズ(ジョセフ・ゴードン=レヴット)の仕事である。しかし、ある日、30年後の彼自身(ブルース・ウイルス)が送られてくる。そして、30年後の自分は主人公の一瞬の逡巡に乗じて逃亡し、<現在>の主人公の追跡が始まる・・・・と、ここまでが予告編の内容である。

 記憶に頼って筋だけ簡単に述べてしまうと、・・・

 さあ、ここからがネタバレで、このあとを読むと映画がつまらなくなってしまう。まだ観ていない人は読まないように。

 ・・・主人公は30年後の自分を殺害しようとして追う。彼を殺害しなければ、<現在>においてタイムマシンで送られてくる人間を殺すのを請け負っている組織から自分が殺されてしまうからだ。
 30年後の彼は、<未来>で彼が愛した女が組織に殺されてしまったため、最愛のその女の命を救おうとして、殺されるべく送られた過去すなわち<現在>において生き延び、将来その犯罪組織のボスになるところの、今は子どもである人間を探し出して殺そうとする。(同じ誕生日の男児が3人いて、ブルース・ウイルスは一人ずつ命を狙っていく。)
 ところで、このボスは、いくつもの犯罪組織を短期間に統合支配するようになったとされており、並外れた能力の持ち主であるらしいことが登場人物たちの会話によって事前に示されている。
 主人公は、その子どもと想われるある男児とその母親が暮らす家を見つけ、そこに30年後の自分が現れるのを待つ。しかし、主人公はその母子の生活を見張るうち当該男児がどこか異常なことに気づきはじめる。
 ここにも伏線があって、この<現在>では、一部の人間に突然変異でサイコキネシス(念力)の能力が備わっているという設定があり、しかもこの母親と主人公が一夜をともにした後、この女がベッドでタバコのライターを手のひらの上で浮かせているシーンが挿入される。さらには、この家の中で、母親の指示に男児が逆らい、ヒステリックな叫び声を上げるシーンが挿入されているのだが、ここで母親たる女は、男児が叫び始めると青ざめて鋼鉄製の金庫のなかに逃げ込むのである。この叫びの異常さから、つまりは母子関係の異常さから、観客はこの男児がまさに将来の犯罪組織のボスであるとの心証を得るのだが、クライマックスに向かって物語が急転するのはそこからである。

 主人公と30年後の彼を捜して、組織から別の男がこの家にやってくる。この男は男児の怒りの叫びに触れ、恐らくは八つ裂きに(その様相は画面には現れないが)される。ここで観客は、その現場を目撃した主人公とともに、くだんの犯罪組織のボスというのが強力なサイコキネシスの持ち主であることを知らされる。
 30年後の自分がこの男児の命を狙っていたことの重みに気づいて、主人公の脳裏にはこの場でこの子を殺害すべきではないかという想いが去来するが、母親が〝私がしっかり育てるから殺さないで!〟と哀願するのにほだされる。
 そこに銃を持った30年後の主人公が現れ、とうきび畑に逃げ込もうとする男児を追う。すると男児は、竜巻のような風を起こすサイコキネシスの能力を使い、30年後の主人公と母親を中空に吊り上げて今にも八つ裂きにしようとする。だが、男児は、必死に宥め賺す母親のことばに呼応して、あと少しのところでその力を収める。・・・(ここに主人公の想像のシーンが挿入される。それは30年後の自分の襲撃から逃げ延びた男児が、大人たちへの憎悪をたぎらせ、復習を誓うような顔つきで貨物列車に揺られて現場から遠ざかる様子である。)
 男児に銃の照準を合わせる30年後の自分を、その後方から見ていた主人公は、〝未来を変えるために〟自らの腹に向けてショットガンをぶっ放す。・・・すると30年後の主人公であるブルース・ウイルスが突如として消失し、母子が抱き合って無事をかみ締めるところで物語は終わる。

 さて、この物語ですぐに連想するのは〝タイムマシンもの〟映画作品の嚆矢とも言うべき「ターミネーター」である。
 この作品も、<未来>で大きな役割を果たす人物の存在を<過去>において消去することで歴史を書き換えるため、子ども時代の当人(「ターミネーター2」)や、やがてその人物の母親となる女(「ターミネーター」)の命を狙って殺し屋がやってくる話である。
 これに加えて、<未来>の悲劇を知ったキーパーソンが、最後に自己を抹殺すること(つまりは自己犠牲)によって自己に関わる因果を断ち切り、それによって<未来>を変えよう試みるという設定でも、「ルーパー」は「ターミネーター2」を踏襲している。
 だが、両作品には決定的な相違点がある。
 「ターミネーター」や「ターミネーター2」においては、あくまでも<過去>に存在する原因者の抹殺が至上命題であり、その原因者の〝改心〟は想定されていなかった。つまり因果が決定論的だったのに対して、「ルーパー」では、人間の愛ある養育による変化、つまりは善に向かう経験主義的・環境主義的な可変性が信じられている(正確には〝信じられている〟とまでは言えないが少なくとも否定されてはいない)という点である。
 ストーリー展開のなかで、この男児の母親は田舎暮らしに堪えられず男児を実家の姉に押し付けて家出したこと。そして、その姉が亡くなったために実家に戻って、息子とやり直そうとしていること。さらには、姉はどうもこの男児の怒りのサイコキネシスによって命を奪われたらしいということなどが語られている。
 子どもの養育を放棄した結果、あるいは子どもと命がけで向き合うことから逃げた結果、その生育環境が子どもの心を蝕み、冷酷な犯罪者を生み出し、社会の荒廃を深刻なものにしていく。だが、それを食い止めることが可能なはずだ。・・・貧困と荒廃のループは善意と信頼によって断ち切れるはずだ。・・・そんな思想がこの作品のなかに流れている。まさに〝We Can Change〟というオバマ政権の時代に制作された作品だからこそ、と視ることもできるだろう。
 おっと、こういう言い方は安直か。・・・もう少し正確に言えば、そのような思想が〝信じられている〟のではなく、〝そのような可能性に賭けるほかない〟という冷たい痛みのような認知、あるいは希望のようなニヒリズムが流れていると言うべきかもしれない。

 全体としては、設定の凝らしすぎ、あるいは伏線の張りすぎで、がちゃがちゃした印象の作品だが、主演のジョセフ・ゴードン=レヴットとエミリー・ブラントの存在感がそれを帳消しにしており、まずまず鑑賞に堪える作品だと思う。
 蛇足だが、30年後の主人公にブルース・ウイルスを起用したのはミスキャスト。彼は灰汁が強すぎて、物語の雰囲気をスポイルしている。マシンガンをぶっ放して犯罪組織を殲滅するシーンがあるが、そんなものは「ダイハード」だけでたくさんだ。(了)


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:13Comments(0)映画について