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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2011年03月26日

映画『冷たい熱帯魚』感想



 3月の初めに上京した折、新宿の「テアトル新宿」という映画館で、園子温監督の『冷たい熱帯魚』を観た。その感想を記す。筋書きに関する記述を含むので、いわゆる「ネタバレ」となることに留意のうえ、以下の文を読むかどうかを決めていただきたい。

 映画が始まってすぐ抱いた感想は、「あ、これ1970年代の終わりから80年代前半くらいまでの『日活ロマンポルノ』の雰囲気だなぁ」というものだった。それもそのはず、製作会社は日活なのだった。
 「ポルノ映画」や「ピンク映画」はもう20年以上も観ていないから、今はどんな作品が作られているのか全く知らない。そして園子温監督の作品もこれが初めて観る作品だった。それでもなんとなく、園監督はあの時代の質感とあの時代のパワーみたいなものを継承しているようであり、さらには世代的なこだわりがあるような印象も受けた。

 話は実話に基づいているというが、こういう事件(1995年に発覚した埼玉愛犬家連続殺人事件)は自分の記憶にはなかった。ただし、1984年頃の大阪愛犬家連続殺人事件なら記憶にある。埼玉の事件の方は、阪神淡路大震災やオウム真理教事件の陰に隠れて報道の扱いが小さかったらしい。なお、大阪の事件と埼玉の事件はまったく無関係とのこと。)

 大きな熱帯魚ショップを経営している村田(でんでん)は、口の上手さとドス効いた迫力で投資を持ちかけ、何人もの人間から金を騙し取り、犯罪が発覚しないよう妻・愛子(黒沢あすか)と共謀して、それらの人間を「透明にしてしまう」極アク人である。
 主人公・社本(吹越満)は、村田に目を着けられ犯罪に引き摺り込まれる気の弱い同業のしがない個人商店主である。
 このふたりに絡む女優陣がまた“ロマンポルノチック”な雰囲気を醸し出している。
 ワルで精力に満ちた村田の妻役に相応しい黒沢のエろくて狂気じみた演技、そして主人公・社本の妻・妙子役の神楽坂恵、娘役の梶原ひかり、村田の熱帯魚ショップのレズビアンの店員役の女優などのいかにも“B級!”という感じの演技っぷりが、絶妙な味を生んでいる。
 
 物語のクライマックスは次のようなものである。
 村田と愛子は、騙した相手を殺し、その証拠を抹消するために、山の中の家で死体を解体し、肉と骨に分ける。肉は細切れにして山中の川に捨て、骨はドラム缶で灰になるまで焼いてこれも山中に捨てる。
 社本は無理やりこの手伝いをさせられるのだが、やがて村田にその弱腰を激しくなじられ、殴られ、お前もこうやって精力的に金を稼ぎ、女房を満足させてみろと挑発される。
 そして、愛子を犯せと命じられ、無理やり行為をさせられるのだが、その最中に人が変わったように攻撃的になり、村田をボールペンでメッタ刺しにして瀕死の状態にする。
 社本は村田を倒したことで村田の地位を奪ったかのように居丈高になり、愛子に命令して村田の息の根を止めさせ、その死体を解体させる。そして自宅に帰り、反抗的になっている娘を殴り倒して、その横で妻を無理やり犯す。ここで社本は支配者に変身を遂げたかのように見える。しかし、すぐに自分がそのような存在になりきれないことを悟り、警察に通報する。
 最後の場面、社本は、山中のアジトに戻り、そこで村田の死体を解体していた愛子を包丁で刺し、さらには警察と一緒に駆けつけた自分の妻を刺す。そして娘に歩み寄って彼女を軽く刺し、人生は痛いものだと説教を垂れてから、今度は自分の頚動脈を斬って娘の目の前で自害する。娘は、だがその父の死体を蹴っ飛ばして哄笑する・・・


 さて、この映画の終幕の展開は、何を伝えてくるだろうか。
 主人公・社本は、一人目の妻と死に別れ若い後妻を迎えているが、これが年頃の娘の反感を買っている。後妻もうだつの上がらない夫との暮らしに疲れ、自分の境遇に苛ついている。そこに現れたマッチョで快活で極アクな村田の存在感に、社本は有無を言わせず手下のような境遇に引き込まれていく。そしてある時点で、支配者=教育者のように振舞う村田から、いわば“教育的侮蔑”を受け、それにキレて下克上を遂げたかのように見える。
 しかし、社本は、すぐにそれが虚しいことに気づく。いや、作中では、そもそも彼は心底ではそういうものを欲していなかったという印象を与える風にさえ描かれている。
 じぶんのイメージの中にある1970年代の終わりから80年代前半くらいの日活ロマンポルノやピンク映画作品では、この下克上が遂げられたところで物語が終わるか、あるいはこの作品で社本が最後に自害するように、その下克上の結果を自己否定して主人公が破滅し、“観客に衝撃を与え”物語が大団円を迎えるというふうに構成されていたような気がする。もっとも、これはあの時代ならそんな筋書きになるだろうなとじぶんが想うだけのことであり、証拠を挙げられるほどの裏づけはない。

 しかし、この作品にはもう一捻りがある。それは、社本の娘が、“教育的自害”とでも言うかのように頚動脈をかき切って死んだ父親の骸を足蹴にして、哄笑するラストシーンである。
 ここにはカタストロフィもなければ、じつは衝撃性さえもがない。
 この娘の前では、父親は、死のうが失踪しようがただいなくなってくれればいい存在でしかない。捨て身のメッセージ、もしくは自虐の逆説に賭けた自己投企は、なんの意味もないものとして宙吊りにされる。
 作者が、意識的あるいは無意識的に表象してしまっていることは、このディスコミュニケーションの風景、そしてその絶望性である。
 
 このひねくれ批評の蛇足として、もうひとつの感想を付け加えれば、園監督は、いわば“あの時代”を作品に体現させつつ、この暴力とセッ○スとスプ○ッタに塗れた作品をもって、ラストシーンで哄笑する娘の世代に報復を図ろうとしているように見える。
 もちろん、この作品のラストシーンがそうであるように、それは娘たちの世代には通用しない。この作品は、彼らから「問題作」とみなされ、観客の一部に嫌悪感を与えるものの、同時に映画通の一部からヘラヘラとそれなりの評価を得て流通するだろう。
 いや、それこそが園監督の“報復”が目指すところであるかもしれないのではあるが・・・。

 おっと、最後にやはりこれは付言しておかなければならない。
 村田役のでんでんの怪演である。これまでの、下町の八百屋のオヤジみたいな庶民的役柄から脱し、マシンガントークで精力絶倫の極アク人を演じている。これが成功しているのは、彼の活舌がちょうどいい具合にまずいからである。
 台詞に演技的な抑揚を込めきれないイマイチの活舌で繰り出すマシンガントークが、ワルなのにケロリとした快活な役柄に嵌り、逆に“ああ、こういうイカガワしい奴っているなぁ”というリアルさをもたらしている。
 なお、最近のテレビドラマ「冬のサクラ」では、山形のガラス工芸工房のオヤジ役をやっていたが、ここでは良い意味でまったく存在感が薄かった。この薄さを醸しだす持ち味も合わせてこの人を評価すべきだろう。
 

 この作品は近日中に、山形ほか「ファーラム」各館で上映される予定。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:59Comments(0)映画について