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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2009年02月18日

映画「チェ28歳の革命」「チェ39歳別れの手紙」




 山形フォーラムで、スティーヴン・ソダーバーグ監督作品「チェ 28歳の革命」(CHE: PART ONE THE ARGENTINE)と「チェ39歳別れの手紙」(CHE: PART TWO GUERRILLA)を、それぞれ別の日に観た。

 カストロと知り合いキューバ革命を成し遂げるまでを描くパート1。そして、ボリビア革命のために再び山岳でのゲリラ戦を闘い、敵に殺害されるまでを描くパート2。
 ゲバラの内面が語られることも、観客を殊更主人公ゲバラの主観への同一化に誘い込むこともなく、淡々と時系列的に物語が進行し、そして登場人物たちと距離感をもったカメラワークが展開していく。
 スペイン語なのだから、観客はたしかにこれがハリウッド映画ではないということを識る。しかし、この映画の“質感”は、製作者たちの目指した映像と、音声がスペイン語によるものだということ(言い換えれば“スペイン語が流れる時間の質”)との、相乗効果からきているような印象を受ける。
 この質感をうまく言い表すことができるか心もとないが、いつものように“異和”を感じた点から記していく。

 まず、最初に観たパート1「チェ 28歳の革命」は、ドキュメンタリー・タッチで、主人公からずいぶんとカメラが“引かれている”という印象である。
 つまり、つねにゲバラの姿が画面に登場しているのに、誰がゲバラなのか、あるいはだれが主人公なのか、ちょっとわからなくなるような時間がある。ここには、映画の宣伝文句にあるような「ヒーロー」も「アイコン」も登場していない。
 ただ、やや気になったのは、カストロやゲバラに率いられた部隊が、山岳のゲリラ戦で交戦して重傷を負った同志をけっして見捨てないかのように描かれているところ(山岳で歩けない重傷者を連れて歩くということは部隊の行動力や戦闘能力を格段に落とし、部隊全員を危険にさらすのだが)や、これから厳しい闘いに向かうという段で、ゲリラ部隊から逃げ出したい者はここで去れと行って、逃げ出す人間を寛大に許容することころなどである。
 ひとつだけ、転戦の過程で、農民から略奪し、娘を強姦した仲間を処刑するシーンが出てくるが、これも淡々としたもので、この質感は面白いといえば面白いが、これを斜に視れば、革命のためのゲリラ戦と党派性にまつわる問題を等閑に付させる効果をあげているとも言える。
 もっとも、革命戦争の勝利にいたる過程を描くパート1では、この淡々とした感じは、革命的ロマン主義とも革命的昂揚感とも無縁な分だけ、むしろ評価すべきなのかもしれない。
 また、ゲバラがキューバの代表として国連で演説するシーンは、この二作品全体の質感からすると異質なところであるが、それはそれで、場面の意味上の盛り上がりとは逆に、むしろゲバラを“カストロみたいに俗な人間”と印象付け、英雄視させない狙いがあるような気さえしてくる。
 このパート1が、劇映画的な自己主張をするのは、最後のシーンである。
 革命の成就が間近に迫り、革命軍の車列が首都ハバナへ進攻している。革命軍のある兵士が、直前に陥落させた都市で失敬したアメ車に乗っているのを見つけたゲバラが、兵士にその車を返して来いと命じて、戻らせる。革命家ゲバラのエチカみたいなものが描かれ、希望に満ちた行く手を想像させて終わる。観客は、このパート1に続くパート2で、ボリビアにおける死の道行きが描かれることを既に知っているのだから、この明るさはすぐにやってくる陰惨さと対照されるべきものだと思い至るが、まさにそう思わせるところが映画的仕掛けでもあるのだろう。


 さて、ボリビアの山岳地帯で掃討部隊と苛烈なゲリラ戦を闘いながら、惨めな敗北へと追い詰められていくパート2「チェ39歳別れの手紙」の映像の質感は、パート1と共通のものではあるが、しかし、こちらはやはりゲバラと同志たちが死に至る過程を描いていて、陰鬱なドラマ性を避けては通れない。このドラマ性は次のような理由によって、観客の脳裏にいくつかの暗い印象を刻む。
 パート2で、脚本家や監督は、“二匹目のドジョウ”を狙ったゲバラが、いわばキューバ革命での成功体験に縛られ、山岳ベースからのゲリラ戦に拘泥する姿を描いている。
 また、パート1に描かれたキューバでのゲリラ部隊の転戦と勢力拡大のシーンと対照させるかのように、ボリビアでのゲリラ部隊が新規の加入者を確保できず、農民の支持も得られず、やがて疲弊し、イラついて仲違いするシーンを設けている。
 要するに、成功体験に縛られて状況に合わせた方針転換ができない姿である。
 公安に都市のアジトを襲われて、そのアジトに残されていた手がかりから地下組織の情報が公安の手に渡ったことを知ったゲバラが、手がかりを残してきていた担当の女性同士に「これで5年間の工作の努力が無駄になった!」と苛立ちをぶつけるシーンも印象的である。
 また、山岳地帯における行軍(というよりも逃避行)の厳しさから、くじけそうになる同志をゲバラが説得する場面が何度か出てくる。展望が開けないゲリラ戦の過酷さとゲバラの自身や同志に対する厳しさが、結果として相乗的に描き出してしまうのは、革命戦士としてのゲバラとその他の者たちのレベルの差である。ここでゲバラは優れた指導者であると同時に、その位相としては同志から乖離した存在であるようにも見える。
 山岳での移動中に、ゲバラが持病の喘息で苦しむシーンのカメラワークも、明らかにパート1とは違っている。
 
 このように、実際のゲバラの道行きからして悲劇的に終わるしかない物語が、まさにそのとおりに描かれるのだが、それでもなお、二編の映画全体を通じたときの作品の質感は、“淡々としている”というような種類のものだ。
 なぜなら、ここには人間の<観念>が描かれていない。言い換えれば、ゲバラの“勝利か、死か”という言葉のリアリティが描かれていない。それは、革命運動が孕む狂気が描かれていないということだ。

 この作品に描かれるゲバラは、格別にヒロイックでもなく、エキセントリックでもない。
 ひとまずそれは支持しよう。しかし、そのことは裏返せば、毒にも薬にもならない水で薄められたような作品だということを意味する。
 もっとも、もし、この映画を観てゲバラを(この映画の宣伝文句にあるように)ヒーローだと看做す若者がいるとしたら、それは目出度いことである。

 ヒーローは水で薄められている・・・それは衷心から歓迎すべきことだからである。

 ヒーローは、Tシャツのロゴとして(のみ)存在せよ・・・とマルクスは言った(?)。


 
 ところで、ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 20:32Comments(0)映画について