山形市民会館設計案 「平田設計案」の批判

高 啓(こうひらく)

2025年03月15日 20:50


(画像1)

 何度も言っているが、筆者は建築の素人である。それが大学教授が責任をもって設計した案を批判している。誠に恐れ多いことである。
 ただ、筆者は文化ホール整備事業を担当した経験はもっている。平田晃久建築設計事務所には、同社のHPで見る限りどうもその経験がないようだ。
 したがって、平田設計案を批判する根拠は若干なりともあると思っている。

 また、これも前述しているが、筆者はまともな設計士(「建築家」)をリスペクトする気持ちを持っている。まともな設計案についてもリスペクトし、それを支持し実現すべく動いてきた。「伝国の杜」の主担当者として設計者の意図を実現するため、それを変更しろと迫る米沢市(山形県とともに施主であった)と厳しく対峙することも辞さなかった。
 その経緯は拙著『非出世系県庁マンのブルース』(「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」)に記してある。お読みいただければ幸いである。(Amazonほかネット書店で購入可。県立及び市立図書館に収蔵あり。)
 加えて述べると、この平田設計案の設計チームの方々についても、この設計思想を前提としなければならなかったことを考慮すると、狭い敷地のなかで各機能(をもった空間)をどのように配置するか、その取り合いに知恵を絞ってくれた点で優秀さ(WISC-ⅤのVSIの高さ?)は感じ取っている。
 そのうえで、素人の分際であることを百も承知で、平田設計案を批評的に論じてみる。

(1)大ホールがいびつになる理由

 筆者は、この市民会館の建て替え整備にあたって最も大切なことは「大ホール」を如何に快適で使い勝手の良いものにするか(そしてその上で品格の高いものにするか)だと考える。
 比喩的に言えば、「大ホール」は「ご本尊」である。「ご本尊」を安置するために、まずはその「お堂」として建物の躯体があるべきだと考える。
 しかし、平田設計案では、「ご本尊」より「お堂」の形状(とくに外観)が優先されている。まさに本末転倒である。これが、筆者がこの設計案を「芸術文化ホールへのリスペクトがない」と批判している点である。
 「シンポジウム」で平田氏は、大ホールがこのような形状になっている理由が「4つある」と言いかけたが、すぐに「ホワイエ」を広くとるためだという理由のみを述べることにとどめ、ほかの3つの理由については口を噤んでいる。これ以上の理由を言うとまずいと思った様子が窺える。
 ただし、4つの理由のうち「ホワイエ」以外のもうひとつの理由はすぐに明らかになる。ホールの舞台と同じ階について「楽屋」と「スタッフ控室」をホールの脇(図面でいうとホールの上)に配置し、ホールの2階部分についてはこの「楽屋」の上に位置するところに「トイレ」を配置しているからである。








 ということで、「大ホール」が歪む理由は「ホワイエ」と「楽屋」等をこのように配置するからだということが分かる。
 ・・・・信じられる? 「ホワイエ」と「楽屋」が「大ホール」に優先するんだぜ、この人の設計では。
 たしかに、こんな欠陥ホールは間違いなく「ほかにない」(平田氏の発言)。

 では、どうして「ホワイエ」や「楽屋」がホールに優先してしまうのか。
 すべてはこの設計が施設全体を「BIG-TREE」というコンセプトで形成するというところから生じている。これはこの設計案の核心的な思想である。
 この設計思想は、分かりやすく言い換えれば「イデオロギー」ということになる。平田氏が「シンポジウム」で語り、そして図示した関係者の繋がりは、「ビッグツリー・イデオロギー」のもとで、設計・施工・運用、そして市民による利用までが統一されるという思想である。
 そしてこの設計案は細部まで、すべてこの「イデオロギー」に基づいて決定されている。

 「シンポジウム」という名の自画自賛の場で、平田氏は「ビッグツリー・イデオロギー」を次のように説明している。
 「ホールはどうしても閉じた大きな箱」になってしまうので、この印象を少なくするため「客席や楽屋などの枝がニョキニョキ伸びてツリーになる。そこにロビー、ホワイエなどフローが絡むというアイデア」だと。この部分をキャプチャーした画像(1)~(4)を見ていただきたい。


          (画像2)


          (画像3)


         (画像4)

 筆者はこのアイデアを理解するし、どこかで聞いたような一般的発想の範疇に入るものだとも思う。しかし、この狭い敷地でこれをやってはいけない。これをやると大ホールが必然的に歪むのだ。
 さらに言うと、これをやると構造に負荷がかかって建築費や維持修繕費が掛かり増しする。

 画像1をよく見てほしい。ここに存在するボックスが「フライタワー」である。これは舞台とその上部の舞台機構の格納空間を囲む区画である。
 画像2で、そこに客席の空間がボックスとして加えられている。
 画像3では、その周りに「枝」(と平田氏が言う楽屋その他の各室)が配置される。
 そして画像4では、そのまた外周に「フロー」と設計者が読んでいるところの「ロビー」や「ホワイエ」、そして「階段」が配置されている。
 ようするにホール本体がその外側に相撲のマワシを巻くように構造物を付加していく発想である。
 一件優れた設計コンセプトに見えるが、このコンセプトにこそ問題がある。敷地が広ければまだこれでもいいが、敷地が限られているため、この画像3の「枝」、画像4の「フロー」の空間を取ったことによって、肝心の画像2の空間、つまり大ホールが影響を受け、客席が歪んでしまうのだ。
 そしてよくみると、客席は「中心線から左右非対称であること」と「後方客席が調整室によって半分潰されていること」のみならず、2階客席も歪んでおり、さらに席数の足りないところを埋め合わせるかのように舞台に向かって左側の壁面にも付け足しの席が造られている。
 このように建物全体の設計のしわ寄せを大ホールに及ぼす設計はゆるされない。
 この劇場設計者の罪は重い。もしこれをほんとうにわれわれ山形市民に押し付けるなら、筆者はその人物を許さない。
 よくよく考えてみろ。「唯一のホール」を「50年間以上使用」する地元の人間のことを。

(2)建築費が掛かり増しすると予想される理由

 「ご本尊」たる大ホールが歪むことに加えて、この「BIG-TREE」には構造上の問題もある。下記の断面図を見てほしい。
 建物内部における外周部分(設計者が「フロー」と呼んでいるロビーやホワイエの部分)が比較的大きな空間を占めている。そしてその外壁は多くが全面ガラス張りである。




 上記の模型の断面で、建物の左側に注目してほしい。建物の「外壁」がガラス張りになるため、左側に張り出しているロビーや階段の荷重を支えるべき外延部の支柱及び外壁がない。
 しかも画像3で出てくる「枝」と画像4で出てくる「フロー」の空間が相対的に大きいが、内側の躯体がこの張り出した部分を支える頑丈な「腕」(つまり梁)を差し出し、これらの部分の床面を持ち上げていなければならない。
 画像3のボックス、つまり「楽屋その他の部屋」の部分でさえ、どれほど荷重を支えることがきるか不安だ。さらには筆者が「キューブ状の出っ張り」と言っている、植栽桝を乗せる構造も含めて、かなりの部分を躯体の骨組みから梁を出す形で支えなければならない構造に見える。
 建築技術的にはこういう構造も強度に問題なく建築できるのだろうが、それには躯体(図面でいうと中央及び右側の部分)の構造強化が必要になり、建設費用が掛かり増しすることが予見される。
 この「BIG-TREE」と山形市が作成した「基本構想モデルプラン」(シンプルな箱型で外壁には構造を支える機能がある)を比べると、前者の方が格段に高額になりそうだ。
 山形市が準備している140億円の建設費は「基本構想モデルプラン」を前提にしているのではないか。いや、最近のホール建設事例をいくつか集め、その建設費の平均値から予算額を算出しているのかもしれない。
 とすれば、この設計では維持管理費云々の以前に建設費用の膨張が危惧される。山形市当局は、どこにどういうストッパーを付けようというのか。

 さて、結論である。
 「どこにもない」ゆがんだ欠陥ホールを、より高い値段で売りつけられることは目に見えている。
 どんな美辞麗句(筆者が言う「設計士文学」)で語られようと、自称「一流」の専門家や「大学教授」らが仲間褒めしようと、平田設計案すなわち「ビッグツリー・イデオロギー」は、山形市民とりわけ我々の子孫にとって「災厄」となり、対外的には「汚点」となる。。





関連記事