2015年02月06日

和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会






和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会in 寒河江

 去る2015年1月31日(土)、寒河江市立図書館において、「和合亮一福島を語る『詩の礫』朗読会」が開催された。
 東日本大震災と福島原発事故を題材に、詩と詩以外の多くの言葉を発している和合亮一という詩人の肉声に触れてみたいと思い、山形からJR左沢線で出かけた。山形に暮らしてだいぶ長くなるが、左沢線に乗るのはこれが初めてだったかもしれない。中高年を中心に80人ほどの聴衆がいた。

 
 和合氏の話の過半は、以下のような山形との関わりについてだった。
 震災のとき、同氏は奥さんと息子さんの3人で福島市内の県教職員アパートに住んでいた。
2011年3月14日の福島原発3号機爆発による放射線量の上昇を受け、16日に奥さんが息子さんを連れて避難することを決断。山形県中山町(寒河江市に隣接)にある実家を目指して、「自家用車の日産マーチにはガソリンが1目盛り分しかなかったが、妻はそれで栗子峠を越えて山形に避難した」という。
 和合氏自身は、同アパートからほど近い自身の実家(造り酒屋)に住むご両親が、父上が足が不自由なため避難しないという判断を下したことから、ご両親に付き添う形で福島市に留まる。
 同アパートには警察職員の居住棟と教員の居住棟があったが、教員棟の住人は和合氏を除いて全員が避難し、同氏は空き家同然と化したアパートで孤独と恐怖に向き合うことになる。
 そして、妻子が無事に山形の実家に着いたという連絡を受けてから書きはじめた(ツイッターに投稿しはじめた)のが「詩の礫」だという。

 同氏は次のような内容を語った。そして、「詩の礫」その他の作品を朗読した。

 「息子の置き手紙には『父さん、また会えるよね?』とあった。・・・こうして誰もいなくなったアパートにいると『孤独』というものには『本質』があると思われた。3月16日の夕方、あまりにも辛く、孤独で、何かを書くしかないという気持ちになった。ツイッターで言葉を発していったが、最初は自分のことを心配してくれている人に自分の安否を知らせるために書いたものだ。・・・しかし、震災から6日目には、泣きながらそれ(「詩の礫」にまとめられた言葉)を書いていた。」

 「3か月の間、毎日書いた。この間、余震が1,000回もあった。地震がまるで人格をもっているように感じられた。」

 また、和合氏自身の祖母は、山形市小立の出身であるという。
 妻の実家や祖母の生家があるということで、「もっと大きな事故が起こったら、山形に避難しようと思っていた。・・・いざとなればぼくには山形があるという想いに支えられていた」、「福島からの多くの避難者を受け入れてくれた、そして今も受け入れている山形に感謝している」とも語った。

 さらに、テレビ番組の企画で、三陸の被災現場に立ち、中継で繋がれた東京のオーケストラに合わせて詩を朗読した際の経験も話した。

  「津波にさらわれて海に運ばれ、救助の手を差し伸べる人に『立派な故郷を創ってくれ』と言い残して海に沈んでいった人のことを聞いた。その想いを子どもたちに伝えることで革命がおきると思う。そうでなければ水平線の向こうに消えていった人たちの想いが報われない。」

 和合氏は話の途中で涙を流した。その話と朗読を聴いて抱いたのは、“ああ、この人は如何にも素直でマトモなひとなんだなぁ”という感想である。・・・そして、改めて、こういう普通の人の言葉こそが他者に感動を与えるのだ、とも思った。
 ・・・それに比べて、このじぶんはじつにひねくれている・・・これはそもそもの人柄によるところでもあるが、あの震災と原子力災害をどのように経験したかによる面もあるのだと思う。
 じぶんが経験したのは、次のようなことである。


 3月11日の午後2時ころ、じぶんは山形市西部の産業団地にいた。激しい揺れを感じたのは、その団地内の建物で開かれていた介護関係の講習会の主催者代表として挨拶し、県庁に帰ろうとしていたときだった。
 この場所は山形市の西部を流れる須川(齋藤茂吉の句集「赤光」に詠われた川である)の近くに位置し、過去の氾濫による土砂の堆積地であるためか、いつも地震の揺れが比較的大きく体感される地区である。
 揺れは激しく、しかも長く続き、駐車場の路面が波打っていた。地割れが起きてそれに呑み込まれるのではないかという恐怖に襲われた。
 停電で夕闇せまる県庁舎に帰ると、それからは災害対策本部の一員として位置付けられて、非常事態に対応する日々が始まった。
 当時、じぶんは長寿社会課という職場で、山形県の介護保険制度運用の実務の元締めみたいな役を務める課長補佐のポストにあったが、おかげでそこからの2週間ほどは電話の前で針のムシロに座らされているような想いで過ごすことになった。
というのも、介護関係の施設や事業者から、物資が途絶えて人命が危機に晒されている、なんとか助けてほしい、という悲痛な声の電話を受けながらも、それにほとんど応えることができなかったからである。
 山形県は内陸部のかなりの地域がすでに仙台の物流圏に組み込まれており、石油製品をはじめ多くの物資が仙台及びその周辺の流通拠点を経由または当該拠点の差配によって供給されているのだった。
 宮城県内の物流拠点がことごとく機能を停止したため山形への物流は途絶えたが、山形県は被災県ではなく被災県を支援する側だったため、被災県に全国からの支援物資が届くのを尻目に、燃料と食糧の不足に堪えねばならなかったのである。
 特別養護老人ホームなどの入所施設からは、暖房用の燃料が切れていつまで入所者を受け入れていられるか分からない、経口用及び胃瘻用の流動食も底をついている、との声が寄せられ、デイサービス施設はそれに先だってほとんどが受け入れを停止したと報告を寄こした。
 訪問看護ステーションからは、ガソリンがなくて訪問看護がまわらない、このままでは亡くなる在宅の患者もでてしまう、と悲痛な訴えが上ってくる。認知症のグループホームからは、スーパーに食料品を買い出しに行っても客ひとりに牛乳1本しか売ってもらえない。店員と言い争いになった。県はちゃんと協力要請しているのか、なんとか事情を話して人数分を買えるようにしてくれ、という怒りの声が浴びせられた。
 毎日のように災害対策本部の上から命じられ、どこでどんなものが不足していうかという聞きとり調査をさせられて、多くの介護関係者に期待を抱かせながら、ろくな供給の手配もできないまま時間が経過していく。
 悲痛な声を受けていると、災害対策本部で油の確保や分配を担当している課の無能ぶり(個々の職員が無能とは言わないが実質的な結果としては無能だったと言わざるを得ない)が我慢ならなかった。

 3月21日だったと思うが、山形県は何事もなかったかのように例年通り4月1日付の人事異動を内示した。(非常事態に人事異動などしている場合か!?と思われるかもしれないが、震災発生時点で異動作業はすでに殆ど終わっていたはずだから、異動を中止すればむしろ混乱を大きくしたことだろう。)
 じぶんは県庁内の県土整備部建築住宅課の総括課長補佐に異動を内示され、異例なことだが、その内示の日から県土整備部に呼び出された。そして、福島県などからの避難者受け入れの仮設住宅(民間賃貸住宅の借り上げによる)の供給準備に追われることになる。
 県南部の米沢市にある県の保健所にはたくさんの避難者が押し寄せ、ガイガーカウンターで放射線を計測する窓口に列ができているという知らせを聞いて、“悪夢”ということばを想起した。
 山形県への避難者は、当初は南相馬や相馬などの沿岸部から着の身着のままで来た人々が多かったが、時間の経過とともに福島、伊達、郡山など内陸各市からも続々とやってきた。避難者(借り上げ住宅などへの申込者)は2011年の夏から秋にかけてさらに増え、やがて15,000人を超えた。
 これに対して建築住宅課は大急ぎで受け入れスキームを構築し、県内各地の避難所で避難者に対する住宅の斡旋説明会を開催。そして、毎日毎日電話応対に追われた。
 精神的に追い詰められて錯乱する避難者もいたし、地元住民とのトラブルを起こす避難者もいた。まさに「栗子峠を越えて」押し寄せる避難者に対応することに必死だった。不動産業界との調整やマスコミ対応にも追われ、なによりこれまた庁内調整に消耗する日々が続いて、じぶんの神経と「言葉」はすべてそれらに費やされていた。
 こんなふうに震災と原子力災害を経験した者には、人間のザッハリッヒでザラザラした面の記憶だけが刻まれていて、ようするにつまらない散文的感懐しか浮かんでこないのである。

 しかし、ひねくれもののじぶんにも、和合氏が震災後にツイッターに言葉を発しなければならなかった想いとその切実さはわかる。同じように「孤独」な状況であればじぶんもそうしたかもしれない。・・・原子力災害に見舞われ、放射能を含んだ雨が降りそそぐという、映画でなければ悪夢としかいいようのない恐怖と孤独とに襲われて。
 ただ、いっそなら、その言葉はタルコフスキーの「サクリファイス」くらいの“マトモでない”ものであってほしかった。







 おっと、話が余計な方向に進んでしまった。
 ついでだが、この日はこの会場で、高橋英司、いとう柚子の両氏と落ち合い、河北町の高橋英司氏宅へちょっとお邪魔した。
 二人は、この日の昼まで山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』」の審査委員として会合に出てきた帰りだった。
 高橋氏宅を訪問したのは、同氏が全国の詩人から贈呈された詩集をほとんど捨てずに取っており、自宅の物置に専用書棚を造って、いわば現代詩集文庫のようなものを設けたと聞いたからである。(なお、これは非公開のものである。)
 上の写真がそれで、この物置の二階だけで約4,000冊の文学関係の本と雑誌があり、そのうち2,000~2,500冊ほどが現代詩人から寄贈された詩集とのことである。(なお、同氏は高校の日本史の教諭だったので、母屋の方にはさらにその方面の蔵書がある。)
 かつて雑誌「詩と思想」で月評を担当していたこともあり、同氏には全国から多くの詩集が送られてくる。同氏は、ほとんど全てに(少なくても前から2~3編と詩集の表題になった作品くらいには)目を通すそうである。
 詩集の寄贈を受けてもろくに読まないで、すぐにブックオフ送りにする詩人が少なくないようだから、ここまで大事にするのは殊勝なこと。もっとも、自宅が農家で宅地内にそういうスペースがあるから、ということもあるだろう。

それから寒河江駅前に戻って、3人して居酒屋で飲み、左沢線で山形に帰った。(了)                                                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:27Comments(0)見物録

2015年01月05日

2014年のモンテディオ山形を振り返る




 2014年のモンテディオ山形を振り返っておきたい。

 2014年シーズン、個人的ないくつかの事情で、前シーズンに比べてスタジアムで観戦する機会は減ったが、それでもホームゲームは6回ほど観戦した。
 とくに、7月の第22節・第23節のホーム2連敗(+第24節のアウェイ1敗)、10月26日の第節の横浜FC戦(2-4で負け)、そして11月23日の最終節の東京V戦(1-2で負け)の印象が強い。
 だから、じぶんにとって、モンテディオ山形2014年シーズンの結果は、「思いがけないJ1昇格」そして「思いがけない天皇杯準優勝」ということになった。・・・すべてはこの“思いがけない”の一言に尽きる。

 もちろん、マスメディアや巷間で語られるように、終盤戦で発揮された粘り強さは石崎信弘監督の指導が徐々に効果を現してきた結果だとみることができるし、後半戦から採用した3バック(すなわち5バック)のシステムとメンバー出し入れの采配が奏功したことは確からしく思われる。
浦和から獲得したGK山岸やガンバから獲得した川西らの働き、ディエゴや松岡の存在感、3バックシステムのキモとなる両SBの山田とキムの進歩などに、補強と指導・采配の成果を見てとることができたし、石川、石井、山崎、宮坂、伊東らの踏ん張りも印象に残った。
 しかし、依然として “点を取られそうな時間帯だな・・・”というときに、しっかり点を取られてしまう守備の乱れやイージーミスが発生するという事態が目立った。
 プレーオフと天皇杯準決勝はさすがに別だったが、リーグ戦ではしばしば、私のような素人の目にもはっきりと分かる程、緊張感が途切れる時間が見られたのである。(もっともこの緊張感が途切れる時間の長さと回数は、昨シーズンまでより減少しているようには思われた。)
 また、ゴール前に攻め込んでシュートまでいくのに、それが得点につながらない。いわゆる“決定力不足”も目立っていた。
 いい流れがきて波状攻撃ができている時間帯に得点(または追加得点)しきれないことで、その後に逆襲されて失点する・・・じぶんが観戦に行ったゲームは、ほとんどがそんな印象だったのである。
 だから、リーグ戦終了時の「J2の6位」というのは実力に見合った位置であるように思われた。
 
 では、なぜ「プレーオフ優勝=J1昇格」と「天皇杯準優勝」が可能になったのか。
 ここをちゃんと押さえておかないと、2015年シーズンに対するヴィスタが開けない。
 11月26日の天皇杯準決勝の千葉戦、11月30日のプレーオフ準決勝の磐田戦、12月7日のプレーオフ決勝の千葉戦、12月13日の天皇杯決勝のG大阪戦と、この4連戦の経緯には、いくつかの幸運が与していた。
 まず、天皇杯準決勝の千葉戦を想い出してみる。
 モンテは「ヤンマースタジアム長居」のゲームで千葉に3-2と、しぶとく勝利した。このゲームが、実はJ1昇格をめぐる天王山だったのである。
 モンテはこの3日前に、「J2の6位」というギリギリの位置でリーグ戦最終節の東京V戦に臨んでいたのだったが、「勝てば自力でプレーオフ出場決定、負ければ他チームの結果次第」という肝心のゲームで敗北を喫する。ところがプレーオフ進出を狙う7位以下のチームも敗れたため、“幸運”にも6位でリーグ戦を終えることができたのだった。
 リーグ戦最終節終了後(シーズン終了後)のセレモニーは、敗戦でのプレーオフ出場決定という事実の前に、スタジアム全体がいまひとつ盛り上がりを欠いていた。
 しかし、今にして思うと、この最終節(第42節)の東京V戦の敗北こそが、モンテに“切り替え”の機会を与え、新規巻き直しを可能にさせたように思われる。
 ここまでモンテはプレーオフ出場権をめぐるリーグ戦終盤の迫り合いで第39節から3連勝していた。プレーオフに優勝して昇格を決め、しかも天皇杯決勝に進出するためには、第39節から数えて、なんと7連勝もしなければならなかったのである。
 申し訳ないが、今シーズンのモンテに、このようなきわどい状況下で7連勝もする実力があるとは考えられなかった。ようするに第42節の東京V戦は、「勝たなければいけない試合」でありながら、同時に「できるならここら辺りで一度減速しておきたい試合」でもあった。
 ここでモンテが<幸運>だったというのは、第一に、最終節で敗れたにも拘わらず他チームの敗戦によってプレーオフ出場権を得たということ、そして第二に、その先に進むにあたっていいタイミングで敗戦し、仕切り直しの機会を得られたという意味である。

 さて、11月26日(水曜日)の天皇杯準決勝は、モンテと千葉と、どちらが勝ってもおかしくないゲームのはずだった。(平日なのでじぶんは仕事中。テレビ観戦さえできなかった。)
 モンテのHPのゲーム解説や山形新聞の記事によれば、勝因として、同点に追い付かれた石崎監督がシャドーの山崎をMFのロメロ・フランクに換え、トリプル・ボランチ気味に守備を固めさせたことが、3点目に繋がったと評価されている。
 リーグ戦3位の千葉は、プレーオフ決勝で磐田と対戦することを想定し、今季リーグ戦で千葉が1勝1分で勝ち越している山形を少し舐めてかかり、当面の全精力をぶつける相手とは看做していなかったのではないか。これと反対に、山形は天皇杯準決勝をプレーオフ決勝戦の前哨戦(あるいは同決勝戦の一部)として位置付け、必勝を期していたはずである。
 ここで、プレーオフ決勝で“必ず千葉と当たる”と考えて天皇杯準決勝に臨んだモンテと、プレーオフ決勝で“どちらかと言えば磐田と当たるだろう”と考えて天皇杯準決勝に臨んだ千葉の差が出た。この差は、モンテと千葉が置かれた状況の違いからきている。
 天皇杯準決勝だけを見れば、ここでモンテが勝てたのはここで言う<幸運>ではないが、この結果はプレーオフ決勝戦における次の<幸運>の伏線となっていく。この勝利が次の勝利の伏線となっていく状況に置かれていたこと、そのことが第三の<幸運>である。

 モンテは大阪で行われたこの天皇杯準決勝の僅か4日後に、今度は磐田のホームでプレーオフの準決勝を戦う。
 磐田には、リーグ戦最終節から1週間の余裕があり、しかもホーム。さらには同点でも決勝に進めるという三重のアドバンテージがあった。
 しかし、その磐田はモンテとは対照的に、リーグ戦終盤で勝ちきれないという状態の継続に悩まされていた。上昇機運のモンテと、1年でのJ1復帰が当然のように期待されていながら終盤戦の停滞でいやな雰囲気が漂う磐田の対戦・・・タレントの差はあっても、ここは面白い戦いができそうだと思われた。
 というのも、2009年に小林伸二監督率いるモンテがリーグ開幕戦で磐田に大勝して鮮烈なJ1デビューを飾って以来、モンテにとって磐田は相性の悪い相手ではなかったからである。
 そして、ゲームでは、まず勢いに乗るモンテが先制する。この先制点が大きかった。磐田のアドバンテージがこの1点で消えた。
 しかしこれで磐田のスイッチが入り、モンテは同点に追い付かれる。同点に追い付かれたということは、プレーオフのルールでは磐田にリードを許したということに他ならないが、もしモンテが先に追加の1点を取れば、今度は立場が再度逆転する。ここにプレーオフの醍醐味があるのだが、この同点という状況下では、当該時点でのチーム力に大きな開きがない限り、ゲームの終盤ではほぼ下位チームに押せ押せの流れが来る。
 そして、後半アディショナル・タイム・・・コーナーキックからあのGK山岸の劇的な(もっといえば奇跡的な)ヘディングのゴールが生まれる。“サッカーの神様”がモンテに味方した・・・これが言うまでもなく第四の<幸運>である。

 さて、問題のプレーオフ決勝戦(12月7日・味の素スタジアム)である。
 千葉は11月26日の天皇杯準決勝での敗北を踏まえて、モンテ攻略法を徹底して準備してきたはずである。モンテはプレーオフ準決勝のゲームで主軸のディエゴが負傷し、このゲームではベンチスタートになるという不運に見舞われていたが、代わりに出場したFW林が健闘する。
 前半、モンテが宮阪のコーナーキックに山崎がヘッドで合わせて先制点を取る。いつも精力的に動き回る山崎らしい位置取りだったが、これも背後斜め方向に流すヘディング・シュートで、飛んだコースが絶妙だった。この先制ゴールもまたラッキー(第五の<幸運>)だったと言わなければならない。
 後半の半ばから、モンテの選手たちは勝利を意識して硬くなったように見えた。(石崎監督は、後のインタビューで自身も選手たちも冷静だったと語っているが、選手たちは硬くなっているようだった。)
 というのも、攻め込んでくる千葉からボールを奪っても味方にパスを通すことができず、遠くへ蹴るだけ。そしてセカンドボールを殆ど千葉に奪われていた。コーナーでボールのキープを始めた時間帯も早すぎるように思われた。
 しかし、このように泥臭く闘うことがモンテらしいゲームだった。追加点を取って相手に止めを刺すという選択肢を捨てて、1点を守り切ることに集中する戦いができたことが勝利を呼び込んだということだろう。


 こうして、一般に言われる「プレーオフでは下剋上が起きやすい」という枠組み・ルール上の傾向と、モンテをめぐる天皇杯とプレーオフの対戦組合せとが絶妙に絡み合い、いくつもの<幸運>が重なった結果が、「J2で6位」の実力だったモンテをJ1に昇格させたのだという事情が見えてくる。
 一方で、リーグ戦までのモンテの動員力はどうだったのか。
 J2降格後の一年目、奥野僚右監督の指揮の下で2012年のリーグ戦の前半を首位で折り返したときまではよかったものの、それ以後、ホームの観客動員数は低迷してきていた。
 これは2014年シーズンから「株式会社化」されたにも拘わらず改善されずにきた。
 ホーム・スタジアムの客層を観察していると、たしかに5,000人ほどはコアなサポーター層がいて、この部分は定着しているように思われる。 しかし、プレーオフ出場がかかったリーグ戦終盤でのホーム観客数は、思うほど伸びなかった。リーグ戦最終節の東京V戦こそ13,344人が詰めかけたが、10月26日の横浜FC戦は天候に恵まれたにも拘わらず7,414人、11月9日の福岡戦は5,897人に止まっていたのである。

 個人的な印象としては、コアなサポーター層が一定程度定着した一方で、モンテに興味を示さない県民もまた“定着”しているように思われる。劇的な勝利を重ねて“思いがけないJ1昇格”を果たした割には、県民全体の盛り上がりに関する印象は、前回2008年のみならず、2001年(J2第3位)、2004年(同第4位)のときほどにも感じられなかった。
 2009年にJ1に昇格した際には、J1効果があって観客数が伸びた。今回も、J2時代より伸びはすることだろう。・・・しかし、シーズンを通じてモンテに関心を寄せ、スタジアムに足を運ぶ県民をどのようにして増やしていくのか、その中・長期的な戦略は見えないままである。

 以前、モンテディオ山形が目指すべきは、プロビンチア(地方の経営規模の小さなクラブ)として、“エレベーター・クラブ”を目指すことだと書いた。エレベーターとは、J1とJ2を行ったり来たりするということである。
 モンテの経営規模では、いくら頑張ってもJ1の平均の半分も選手の人件費を確保できない。ようするに、<幸運>の重なりがなければJ1残留もできないし、J1昇格もできない。今回も残留はなかなかに厳しいだろう。
 だから、“人事を尽くして、天命ならぬ<幸運>が重なるのを待つ”というスタンスが、クラブにもチームにもサポーターにも必要である。
 この場合の“尽くすべき人事”とは何か。
 これまでのところ、それは、ひとつには監督に経験豊かで渋い人材(小林伸二氏、石崎信弘氏など)を迎えてきたところに現れている。この点に関しては、GM(現在は常務取締役)の中井川茂敏氏の果たした役割が大きいだろう。(小林氏については、九州の人で東北・山形の“水に合った”という感があり、石崎氏については、同氏の監督スタートがモンテの前身のNEC山形だったという経歴によってフィットしている部分があるように思われる。)
 ただし、これは「戦術」ではあるかもしれないが、「戦略」ということにはならない。

 そして、重要なことは、J1にいる時期はもちろんのこと、J2にいる間の、この“待つ”という時期を、クラブにとてもサポーターにとっても、そして県民全体にとっても、如何に意味深いものにできるか、という視点を繰り込むことが大切に思われる。
 以下のことが「戦略」と呼ぶに値するかどうか自信はないが、この点に関して戦略的な発言や提案をしている関係者やモンテ・サポをじぶんは見たことがないので、あえて記述してみる。

 第一は、これは以前にも書いたことだが、意識的に「地元」出身の選手を入れる、または補強するということである。この場合、「地元」は山形県内であれば好ましいが、県内出身者がいなければ隣県でもいいし、東北各県でもいい。そしてその選手を意識的に“スター”に育てていく。
 たとえば、鹿島アントラーズの土居聖真(山形県出身)みたいな選手が少しでも出場機会に恵まれないようなことがあったら、熱心にオファーする。もちろん、もっとも基本的なスタンスとして、地元出身の若手を根気強く育成していくことは言うまでもない。
 これはモンテのサポーターを「サッカーファン」から「山形ファン」に広げるための戦略である。

 第二の戦略は、県民以外の(つまり「地元」に関わりのなかった)モンテ・サポを獲得することだ。
 たとえば今回のプレーオフ決勝戦では、味の素スタジアムの観客約35,000人のうち10,000人程度がモンテ側だったと、現場に駆け付けたサポーターから聞いた。
 また、その1週間後に日産スタジアムで行われた天皇杯決勝戦(対ガンバ大阪)では約47,000人のうち15,000人程度はモンテ側だったのではないかと、これも現場に駆け付けたサポーターから聞いた。
 これらのゲームに山形から多くのサポが駆け付けたことに間違いはないが、地元でも精々13,000人のサポのうち、当日東京や横浜に行くことができたサポは、この日スタジアムにいたモンテ側観客の何割だろうか。・・・こう考えると、モンテを応援する観客の中に山形県民以外の人間がかなりいたはずなのである。
 その観客の中には、当然、山形県出身の東京在住者や関東各県在住者がいたであろうし、それらに同行した者(家族、恋人、友人など)がいたであろう。
 なかには、山形に関わりがなかったが、モンテディオ山形というチームやプロビンチアとしてのクラブのあり方に興味や共感をもってスタジアムに足を運んでみた観客もいたかもしれない。
 天童市のホーム・スタジアムの駐車場でも、東北各県のナンバーを見かける。その多くは山形県に所縁のある人ではあるのだろうが、そうでないモンテ・サポもいるはずである。
 こういう人々に魅力あるチームを作ることが第二の戦略である。
 これはプロビンチアとしての物語化やイメージ化の戦略ということになる。たとえば松本山雅などは、物語性やイメージをうまく形成しているように見える。


 最後に、「株式会社化」されたクラブについて蛇足を述べておく。
 巷間言われるように、「株式会社化」された効果は見えていない。
 2007年シーズン後に「フル・モデルチェンジ」が論議されたが、議論の結論も議論自体の効果も見えないうちに2008年シーズンでモンテはJ1昇格を決め、この問題提起自体が翳んでしまった。
 「株式会社化」は「フル・モデルチェンジ」より遥かに大きな変化なのだが、県民やサポーターの議論はまったくないまま実施され、しかも今回のJ1昇格で当面はその検証さえなされないことになりそうな雲行きである。
 2015年1月5日付け山形新聞によれば、高橋節社長は、経営規模拡大に向けて収益事業を積極的に展開するかのような発言をしているが、例のレプリカ・ユニフォームの3ケタ背番号販売などのエグいグッズを次々に投入したり、スタジアムに来た観客から小銭を巻き上げるようなセコい商売をしすぎると、県内各地の募金活動(山形県民は株式会社にせっせと寄付する奇特な県民である!)の担い手たちが白けてしまうだろう。収益事業の拡大はそれほど簡単なものではない。
 高橋社長は、県副知事時代、部下たちにPDCAサイクルの実践を命じてきたのだから、きっとモンテの社長としての己にもこれを課していくことだろうが、モンテの「株式会社化」は知事にクビにされた元副知事に「社長」という実権とそれなりの収入を手にできる地位を与えることが主目的だったのでは?・・・などという巷の疑念を払拭するため、できるだけオープンな経営をしてほしいものである。
(なお、先に述べた第二の戦略にとって、「株式会社化」はマイナスの効果を持つと考えるから、じぶんはこれに反対である。・・・と言ってももう遅い訳だが・・・。)


 長く書き過ぎたので、この辺で閉じる。
 「このままでは2014シーズンの徳島ヴォルテスの二の舞いになるのではないか・・・」という心配の方が大きいが、かく言うじぶんもJ1モンテの2015シーズンを心待ちにしている。
 今年はなんとか時間を作って、アウェイ・ゲームにも駆け付けたいと思う。  (了)                                                                                                                                                   



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 23:36Comments(0)サッカー&モンテディオ山形

2014年09月01日

ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その2)








 「ヨコハマ・トリエンナーレ2014~華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある~」(2014年8月1日~11月3日)の感想記の後半である。

 埠頭に建てられた展示会場「新港ピア」には、第10話と第11話が展示されている。

 第10話は「洪水のあと」と題されている。
 この章について、キュレーターは「アジアの美術はいかなる視点でとらえるべきなのだろうか」と自問しつつも、「過去の陰惨な光景をどうしても払拭できないから」、ヨコハマ・トリエンナーレ独自にこの問いに応えることを避け、「熟慮の末に見出した」ことが、「十全な配慮と調査を経てもたらされた、アジアへの真摯なまなざしに信頼を寄せ、福岡アジア美術トリエンナーレによるヨコハマ・トリエンナーレへの乗り入れを企画」することだったと語る。正直といえば正直、正解と言えば正解だが、観方を変えればやはり唖然とせざるを得ない体たらくである。
 「過去の陰惨な光景をどうしても払拭できない」なら、この国に蔓延する歴史修正主義の小児病にビビることなく、たとえそれが「過去の陰惨な光景」を思い起こさせる作品であろうとも、そこから「反日」プロパガンダ表現を見分け選り分ける労を惜しまず、改めてアジアの表現が問うてくることを正視して、「われわれはアジアの芸術をこういう視点でとらえる」という企画を観客に堂々と提示してみるべきなのではないか。・・・それをやる度量がないというなら、そもそも「アジアの美術」などという枠組みを云々すべきではない。
 もっとも、「国際的企画美術展の相互乗り入れ」はとても興味深い試みであり、ここに展示された福岡アジア美術トリエンナーレ出品作品にも惹きつけられるものがあった。
 
 では、この章の「福岡アジア美術トリエンナーレ」からの乗り入れ作品を観ていこう。
 キリ・ダレナ(Kiri DALENA 1975~ フィリピン)「流失」(2012)は、2011年のフィリピン台風の記憶を描いたとされる映像作品。部屋には二つのスクリーンがあり、一方には木造住居だったらしい廃屋とその窓に掛かった布が風に揺れる様子がずっと映し出され、もう一方には海上をピッチングしながら漂流する樹木の姿が映し出されている。これに「抗いがたい自然の猛威による喪失感を示す」という意味付けがなされるのも分からないではないが、それ以上にそこを流れている時間のビビッドな手ごたえに捕らわれて、思わず長く見入ってしまう。
 同「Mのためのレクイエム」(2010)は、車で町を訪れる場面や誰かに案内されるようにして町外れの荒野へ歩いて行く場面を記録したフィルムを逆回した映像作品。目的地(=映像の冒頭に映し出されたはずの場所)は「M」が殺害された場所なのか・・・。
同「フィリピンのジャーナリストたちを偲んで」(1996-2011)は多数の墓名碑を一つずつ延々と映していく映像作品。中には墓が掘り起こされて墓石が無くなっているものもある。2009年11月23日の地方選挙をめぐって多数の市民が虐殺され、そのなかに多くのジャーナリストが含まれていたとの説明である。
 ヤスミン・コビール(Yasumine KABIR 1953~ バングラデシュ)「葬儀」(2008)は、油に塗れてタンカ―らしき廃船を解体する人々の重労働を記録する映像作品。重労働であるうえ、普段着のまま働いているところをみると非常に劣悪な条件で働かされている様子。
 チェン・ジエレン(陳界仁 CHEN Chieh-jen 1960~ 台湾)「工場」(2003)は、演出が気になるといえば気になるが、操業停止された工場の内部(とくに各工員の作業台の間)をゆっくりと浚(さら)っていくような視点が印象的だ。
 ハァ・ユンチャン(何雲昌 HE Yunchang 1967~ 中国)「相撲 1対100」(2001)では、屋外(どこかの構内らしい)の、土俵みたいな形はないが地面の一部に砂を敷き詰めた場所で、ある男(作家自身のようだ)に多数の男が一人ずつ次々に相撲を挑んでいくところを記録した映像作品。柔道で行われるシゴキ稽古みたいな対戦だが、男は幾度も幾度も転ばされてヘロヘロになりながらも、自分より弱そうな相手がくるとその相手を負かそうと頑張る。音声はない。

 そしてもっとも気になったのが、ディン・キュー・レ(Dinh Q.LE 1968~ ベトナム)の「南シナ海ビシュクン」(2009)である。米国製のような軍用ヘリコプター(イロコイスなど)が上空から次々に海に落下してくるというCG作品。これには「サイゴン陥落により、ベトナムから脱出しようとする米軍ヘリコプターが次々に海に墜落する」作品だとの解説が付いているのだが、もうひと捻りされているように感じた。
 じぶんの記憶(ニュース映像についての記憶)によれば、サイゴン陥落後に海中に落ちたヘリコプターは、その多くが艦船の甲板から海に投棄されたものだったような気がする。あるいは、南ベトナムから脱出する艦船に着艦しようとして順番を待っているうちに燃料切れで海中に墜落したり、大勢の避難者がしがみ付いたために落下したヘリもあったかもしれないが、無人のヘリが画面の外側からボタボタと落下してくるこの作品の映像は、過去に起こったことの描写としてではなくむしろテレビゲームのような虚構として受け止めたほうがいいような気がする。
 というのも、ヘリの窓には人影が一切描かれておらず、ヘリのボディにも国籍や所属を示すロゴが描かれていない。いわば「ヘリの墜落」を二重に非人称化しているのだ。ここに描かれているのは、「忘却」でも反忘却としての「記録」でもなく、「夢」と呼ぶべきものに近い。サイゴン陥落はたしか1975年だったと思う。勝利した側であるはずの北ベトナムに住む7歳の子どもだった作者がみた(?)墜落の幻影が、41歳になった彼の夢に未だ繰り返し現れてくる・・・そう考える方が面白いし、またぞっとするのでもある。


 最終の第11話は「忘却の海に漂う」と題されている。
 この章で最初に目を引くのは、派手な装飾の大型トラック(やなぎみわ「演劇公演『日輪の翼』のための移動舞台車」2014)ではなく、むしろかなり地味な土田ヒロミ(1939~ 福井県)のシリーズ写真「ヒロシマ1945-1979/2005」である。これは被爆者(「原爆の子」という文集に載った文章の作者たちなど)を追いかけて、1979年と2005年にかれらをスナップ写真風に定着し、その二つの写真を並べて展示した作品だ。 1979年に「撮影拒否」した人の半分くらいは、2005年には何かしら原爆に対するコメントを寄せて土田のカメラに収まっている。1979年には、まだ被爆者への差別を恐れていたのかもしれない。その恐れが如何様にして、被写体となりこのような形で公開されることを受忍する意識へと変化していったのだろう。一部の人のコメントとして、被爆者が少なくなっていく時間の経過の中で、自分もあの体験を伝えようと思うようになったという趣旨のことが紹介されてはいるのだが・・・。
 同じことが「フクシマ」の被爆者にも起こるのだろうか。・・・いや、そもそも「フクシマの被爆者」とはどんな体験をした者のことか。・・・被爆者と被爆者でない者を分ける区分線はどこに引けるのか。・・・東京に住んでいる人間も山形に住んでいる人間も、ひょっとしたら「フクシマの被爆者」なのじゃないか。(あの事故以来、新宿区と山形市の放射線量はほぼ等しく推移してきた。)・・・写真に映った人たちの表情を観ながら、そんな取りとめのないことを考えていた。

 アナ・メンディエータ(Ana MENDIETA 1948~1985 キューバ~アメリカ)「浜に打ち上げられた海鳥」(1974)は、女がたくさんの羽根のようなものを裸体につけて波打ち際に浮いているところを記録したパフォーマンスの映像作品。羽根が白い三角形のトゲのように見えて、〝トゲ女〟が波打ち際で、寄せては返して・・・みたいに見えてくる。「懐かしき70年代!」と言うほかない作品だ。
 バス・ヤン・アデル(Bas Jan ADER 1942~1975 オランダ)の「落下」シリーズ(1970)は、木にぶら下がっている男が腕の限界に達して下の川に落ちるところ、男が屋根から転がり落ちるところ、自転車で川に突っ込む(運河の縁から下に落下する)ところなどが記録されたパフォーマンスの映像作品。これも「懐かしき70年代!」という感じの作品だ。
 そして、ジャック・ゴールドスタイン(Jack GOLDSTEIN 1954~2003 カナダ~アメリカ)「コップ1杯のミルク」(1972)は、テーブルの上を拳でど~んど~んと叩いて、ミルクの入ったガラスのコップを揺らし、ミルクが零れていくところを記録したパフォーマンスの映像作品で、これまた「懐かしき70年代!」の作品だ。

 〝70年代前衛芸術回顧〟の極め付きは、「宇宙的視野と人間の根源的なありようという、気宇壮大なビジョンを以て表現活動を展開した」という松澤宥(1922~2006 長野)のミニ回顧展のような展示である。大がかりな「私の死」をめぐるインスタレーション、パフォーマンスの記録映像、額縁に入れられた想念の書き付けなどのほか、スケッチブックまで展示されている。しかし、「気宇壮大」というよりは〝粗放自大〟といった印象が強い。
 これらの展示で、キュレーターはまさに「1970年代のパフォーマンス芸術を忘却するな!」あるいは「あれを思い出せ!」と観客に迫っているかのようだ。70年代に郷愁をもつじぶんなどは涙流して感謝しなければいけないところだろうが、しかしこれらの作品は、コンテンポラリーな(つまり2014年を生きる今じぶんたちが求める作品の)展覧会である(はずの)「ヨコハマ・トリエンナーレ」においては、〝名脇役〟にはなりえても〝主役〟にはなりえない。












 そんなことを考えながら展示スペース最後の場所に差し掛かった時、そこで出会ったのが大竹伸朗(1955~ 東京生まれ)のインスタレーション「網膜屋/記憶濾過小屋」(2014)だった。
 車輪と動力(燃料タンク)を装備したこの「小屋」の内部には、夥しい数の写真(多くは肖像写真)が貼り付けられている。それらの写真は、懐かしくもひどく忌まわしい過去の記憶で満たされた小宇宙なのだが、これを内蔵する「小屋」は記憶濾過装置でもあるかのようだ。なぜなら、何枚もの縦板が並んだ小屋の後面(あるいは前面か?)の形状は濾過用フィルターの束にも見え、ここで濾過された記憶が前面(あるいは後面か?)に装着されたタンクの中で溶解され、パイプから気体となって排出される・・・そんな機構を思わせる構造になっているのだ。しかも、この小屋自体が車輪を装備していて、移動可能であるかのようだ。あの懐かしくも忌まわしい記憶の小宇宙は〝移動する見世物小屋〟として構築され、その分だけ対象化される。
 ここにあるのが「忘却」でないことだけは確かだ。記憶を集め、いやというほどそれらにこだわり、そしてそれを濾過するために苦闘する意志・・・そしてその意志をもまた移動する客体として外部に晒す仕掛け・・・。観客はここで初めて「世界の中心にある忘却の海」という観念を裏切る作品に出合う。


 さて、この感想記の初めに「ここからじぶんはこの〝上げ底化〟感がどこから来ているのかを探りながら展示を観ていくことになった」と記した。
 横浜美術館と新港ピアというたった2会場の展示を、しかも駆け足で観ただけで分かったような口をきくことはできないが、〝上げ底化〟感はやはりこの時代のありようからくるのだと思わざるをえなかった。
 今回のヨコハマ・トリエンナーレには、キュレーターの、社会的なあるいは政治的な情況に対する問題意識がかなり直截的に反映されている。それは、白井聡が近著『永続敗戦論』で述べているように、戦後の「平和と繁栄」から「戦後のおわり」そして「戦争と衰退」に向かいつつあるこの国の現在から規定されているようにみえる。「華氏451度」及び「忘却の海」とは、歴史修正主義小児病の感染拡大と「秘密保護」という名の放恣によって記憶の焚書や秘匿が堂々と行われ、一方では日々の情報が急流となって頭蓋を貫流するためにひとびとがその脳ミソを麻痺させられていく〝この現在〟を暗喩しているかのようだ。
 この幼稚でくだらない(しかし現実的には大きな影響を受けるであろう)退化に見舞われつつあるわれわれは、こちらの世界に土足で踏み込んで来るものたちに対して、そのものたちと同じくだらない土俵で対処しなければならないというジレンマに囚われている。バカを相手にすると自分もバカになってしまう・・・この腹立たしい摂理から逃れるためにはどうすればいいのか。・・・もちろん、やってくるものたちを、その「ありのままの姿」ではなく、こちら側の想像力によって〝豊饒なる対立者〟として措定するのだ。・・・それができるのが芸術である。

 「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」を観て一番に述べなければならない感想は、20世紀(!)に制作された作品の展示が多く〝新鮮な〟作品が少ないということだった。これは、ここに展示された作品から新しさを感受できないじぶんにも原因があるが、斯界に詳しいはずのキュレーターたちも、有名無名の作家たちによって日々産出されている膨大な数の作品から、〝新鮮な〟作品を発見することができないということを意味している。
 まさに〝新しい企画者よ 目覚めよ〟というのが、この感想記のオチである。(了)


(注)「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」に展示された作品には写真撮影を許可しているものと禁止しているものとがあり、それは個々の展示場所のマークで示されています。

                  





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:26Comments(0)美術展

2014年08月29日

ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その1)









 「ヨコハマ・トリエンナーレ2014~華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある~」(2014年8月1日~11月3日)を駆け足で(正味4時間ほど)観た。その感想を記す。

 この展覧会は、アーティスティック・ディレクターの森村泰昌氏によって、2つの「序章」と11の「挿話」からなる「忘却めぐり」だと定義されている。
 序章1では、横浜美術館の前庭に置かれたヴィム・デルボア(Wim DELVOYE 1965~ ベルギー)の作品「低床トレーラー」(2007)が存在感を放っている。これは錆びたゴシック風の鉄製門扉(?)の部分みたいなものを素材にして大型のセミトレーラーを模したオブジェ。
 同美術館の玄関ホールに入ると、そこでは巨大なゴミ箱が来館者を迎えているが、これが序章2のマイケル・ランディ(Michale LANDY 1963~ イギリス)の「アート・ビン」(Art Bin 2010)である。この中のゴミたちは創作活動における失敗であり、このゴミ箱作品は「創造的失敗のモニュメント」とされているが、どう見てもこれは〝昔の〟ゴミ箱だ。われわれの時代においては分別されないゴミは「不法投棄」とされる。このようなゴミ箱の存在が許されるのは、今や牧歌的なゲージツ家のアタマの中だけである。そのことに自覚的なのか。







 いかにも現代アートといった(しかしながらだいぶ退屈な「序章」たる)この種の作品に迎えられて第1話「沈黙とささやきに耳を傾ける」の展示室に入るのだが、まずは展示された作品たちに(というかキュレーターによるその選択に)唖然とさせられる。
 最初に展示されているのは、カジミール・マレーヴィチ(Kazimir MALEVICH 1879~1935)の「シュプレマティズム 34枚の素描」の断片であり、ジョン・ケージ(John CAGE 1912~1992 アメリカ)の何も書かれていないピアノ独奏の楽譜(演奏者が何も演奏しない無音の楽曲)であり、スタンリー・ブラウン(Stanley BROUWN)の「こちらですよ、ブラウンさん」(1964)、同「一歩」(1970)やカルメオ・ベルメホ(Karmelo BERMEJO 1979~ スペイン)「目に見えないインクで書かれた透明シート」、「白い絵の具の塊でできた空白のカンヴァス」という、ざっくり言うと形象が何も描かれていないまたは空白が描かれている紙(!)なのである。
 これらは、キュレーターのコメントにある「『沈黙』とは『美』や『悲』や『怒』について語られた何万語より、もっとずっとずっと重く深くそれらを語る、声なき声である」という観点が呼び寄せた作品群なのだ。唖然とするのは、このように「何も描かれていないこと」が「沈黙」であり、それが「ずっとずっと重く」美や悲や怒を語ることであるという実に凡庸な見解が、初手から臆面もなく啓蒙的に観客に教示されていることだ。そして、その啓蒙的な教示が展示者側における一種の退化現象であることに、おそらくはキュレーターらがほとんど無自覚であるらしいことだ。
 なお、この章で存在感を放っていた作品は、イザ・ゲンツゲン(Isa GNZGEN 1948~ ドイツ)の「世界受信機」(World Receiver 2011)という、ラジオやテレビをコンクリートなどの異質な素材で作ったオブジェ群だった。








 この対自的な無自覚がもっとわかりやすい形で露呈されているのが「第2話 漂流する教室にであう」である。ここでは、日雇い労働者の町・大阪市西成区釜ヶ崎における「釜ヶ崎芸術大学」(「NPO法人こえとこころとことばの部屋」主宰)の活動(講座やワークショップ)を紹介する展示(ビデオ上映を含む)とその参加者たちの作品(書・写真・詩・絵画・家電製品に彩色したオブジェなど)の展示が行われている。
 釜ヶ崎は日本の高度成長を支えた労働力を供給しつづけたが、その成長の停止とともに「置き去りにされた町」であり、したがって「忘却の町」なのだという。じぶんには「釜ヶ崎芸術大学」の取り組みそれ自体を批判する気は毛頭ないが、ここにこのようにして1つの章を設けて〝活動の紹介〟が展示されることになにか言い知れぬ異和を感じた。これらは第1話の「沈黙」と対照的な「表現」ではあり、したがって、第1話の名だたる現代芸術家たちの作品に看て取れる「沈黙」と無名の民の作品に現れる「表現」(非沈黙)との間の振幅を意識させるためには有効かもしれない。にもかかわらず、どうしようもなく啓蒙主義の匂いがして、この取り上げ方が、この作品展(ヨコハマトリエンナーレ)自身を〝上げ底化〟させてしまっているような印象を受けた。ついでに早くも肝心な感想を述べてしまえば、これまで3回ほど横浜トリエンナーレを観てきたが、今回ほど新たな発見や感動を得られない回はなかった。こちらの感性が鈍ってしまったのか、このつまらなさが時代そのものの変質からきているのか、おそらくはその両方からなのだろうが、ここからじぶんはこの〝上げ底化〟感がどこから来ているのかを探りながら展示を観ていくことになった。


 第3話は「華氏451はいかに芸術にあらわれたか」と題された章である。「華氏451度」はアメリカの小説家レイ・ブラッドベリが1953年に発表したSF小説。大衆が流れ過ぎる情報にのみ晒され、書物を持つことを禁じられた近未来社会を描いた作品。「ここに描かれた、本を燃やしつくす近未来社会とは、大切なものが忘れ去られていく世の中すべてに対する、予言に満ちた警告にほかならない」という認識の下で、「小説『華氏451度』のテーマを受け継ぐかのような」現代的表現を集めたのがこの章だとされている。
 印象的だったのは、タリン・サイモン(Tarin SIMON 1975~ アメリカ)の「死亡宣告された生者、ほか全18章の物語」(2013)。この作品は、各章が3つのパネルで構成されている。左側に実在する人物の肖像写真を何人分か(あるいは何十人分か)貼りつけたパネル。中央にその章の「物語」を解説する文章が書かれたパネル。そして右に、その「物語」に付随するイメージ、あるいは証拠の資料となる写真や絵などが貼り付けられたパネルが掲示されている。「物語」となっているのは、例えばウクライナの児童養護施設で育った少年少女の肖像写真と同国における子どもの人身売買・売春・児童ポルノなどの状況であり、あるいは作者の要請に応じてこの作品のために中国の情報当局が紹介したある家系の人々の肖像写真と中国情報局が少数民族問題を初めとして様々な表現を監視しているという解説であり、あるいはパレスチナ人で女性初のハイジャック犯およびその所縁の人物たちの肖像写真とハイジャックされ爆破された飛行機の残骸や交換された人質やアメリカの航空保安官の写真などの資料である。そしてどきりとさせられるのは、その中のある章が3枚のパネルすべてが黒く塗り潰された作品で構成されていることだ。これは作者が2013年に北京で個展を行った際に中国当局から展示を拒否されたものだという。(内容は韓国人の北朝鮮による拉致事件に関する「物語」)
 しかし、素朴な感想を言うなら、まずは右のパネルの資料(作者が「イメージの脚注」と呼ぶもの)が安易な採用だという印象を免れない。さらには、これら膨大な肖像写真の人々をこの程度の上っ面な「物語」の素材として美術展の観客に晒し続けることについて、作者がその畏れ多さと向き合った形跡が看て取れない。だからこの作品には芸術作品がもつ社会批評性とともに、むしろそれ以上にジャーナリズムがもつあの自己中心的なニヒリズムを感じてしまう。

 また、ドラ・ガルシア(Dora GARCIA 1965~ スペイン)のインスタレーション作品「『華氏451度』(1957年版)」(2002)は、一見ペーパーバックの同書をたくさん平積した書店の平台に過ぎないのだが、そこに積まれている本のページをめくってみると活字(アルファベット)1個1個がすべて左右逆転で(鏡に映ったように)印刷されていて、ひどく読みにくい。「焚書」をテーマとした小説をこのような形で形象化するという奇抜なアイデアにまずは唸ってしまうが、捻くれ者の半畳を入れるなら、左右逆転していようといまいと、そもそもアルファベットが読み取れない人間にとっては何の意味もない。(たとえば、これがアラビア語やヒンディー語で書かれた本だったら、じぶんには個々の活字が逆転していることが多分理解できない。)それを意味ありげに作品化していい気になっているというのは、非西欧的世界の忘却であり、西欧人の意識されざる傲慢さの裏返しの表現なのかもしれない。
 イラクのユダヤ系という出自をもつマイケル・ラコウィッツ(Michael RAKOWITZ 1974~ アメリカ )の「どんな塵が立ち上がるだろう?」(2012)は、1941年に英軍によって爆撃されて燃えてしまったドイツの図書館の本をアフガニスタンの古代遺跡バーミヤンの石を使って模った彫刻だが、そこに付されている解説が目を引く。世界が非難したバーミヤン仏教遺跡の爆破について、その実行者が語っている行(くだり)としてこんな説明書きが添えられていた。
 「私はバーミヤンの仏像など破壊したくなかった。実は数人の外国人が私のところへ来て、雨で少し傷んだバーミヤンの仏像を修理したいと申し出たことがあった。私はショックを受けた。こう思ったのだ。この冷たい人間たちは、生きている何千という人々、餓死しかけているアフガン人のことなど気にかけず、仏像のような無生物の心配をしている。極めて遺憾である。それで私は仏像破壊を命じた。」と。(報道では、イスラム原理主義者のタリバーンが、仏教の偶像崇拝を否定して破壊したとされていたかと思う。)
 作者は、爆撃で焼かれた図書館の貴重な(?)書籍をバーミヤン遺跡の石で造ることによって、この「忘却」に対する怒りと絶望を反復・定着しているかのようだ。

 そして、この章できわめて異和を感じたのは、日本における戦争賛美の詩集(高村光太郎、佐藤春夫、三好達治、北原白秋、草野心平などの詩集)を陳列するケースが出展されていたことだ。(これは「かんらん舎」という画廊を経営する大谷芳久という人物のコレクションだという。)
 オフィシャル・ガイドブックの解説は「そこから見えてくるのは、時代の流れに身を任せた芸術家の姿という、戦後になって隠され、忘れられた実像である」とこれまた単純化して語ってくれるが、文学者の戦争責任および戦後責任の問題を提示するなら、それを戦後文学者がどういうレベルで問うたか(たとえば吉本隆明)を踏まえた上でやるべきだ。少なくても吉本を読んできた世代は忘却などしていない。
 そして、さてその隣には、第二次世界大戦中に軍による芸術利用を批判したとされる画家の松本竣介(1912~1948)が妻子に宛てた3通の書簡が入った展示ケースが置かれている。ただし、こちらのケースは照明が暗すぎるうえ、中腰で側面から覗かなければならず、極めて視辛い。これについては「多くの人が体制に流され、翻弄された時代の転換点にあって、ある芸術家がどのような姿勢で世の中を見つめ、創造活動に臨んでいたのか。その精神のありようが見える」と解説されるが、容易に文面を読めないような展示では、観客が自らの眼でそれを確かめることができない。ほんとうに観客に手紙の文面を読ませる気があるのなら、せめて実物とは別にコピーを見やすいところに展示すべきだ。厳しい言い方になるが、キュレーターの一方的な教示主義がここでもその傲岸な顔をのぞかせている。


 第4話は「たった独りで世界と格闘する重労働」と題された章である。
 福岡道雄(1936~ 大阪)のオブジェ「飛ばねばよかった」(1966)では、大きな風船(に結び付けられた紐)を持つ人間が、通常とちょうど逆の関係になって、風船が重石になり人間の方が空に舞い上がっていこうとしている。また、「何もすることがない」(1999)では、黒のキャンバスが〝何もすることがない〟という細かな手書きの文章で埋め尽くされている。どちらもそれぞれの時代の雰囲気をうまくとらえた作品だと思った。だが、この種の表現がじぶんたちの今この現在にインパクトを与えてくるかと言えば、そうはとうてい想えない。
 毛利悠子(1980~ 東京)のインスタレーション「アイ・オー~ある作曲家の部屋~」(2014)では、平場にオルガン、ドラム、家具、ブラインドなどが配置されている。ブラインドが不規則に開き、そこからこれらが並べられた「部屋」を垣間見ていると、これも不規則に自動演奏でピアノやドラムが音を奏でる。そのときそこに立ち現われる〝何者かの不在〟の存在感が生々しい。この部屋の住人だった音楽家へのオマージュみたいな作品である。





 
 第5話は「非人称の漂流~Still Moving 」と題された章である。この章は「法と星座・Turn Coat/Turn Court」と題されたひとつの(一連の)インスタレーション作品のみで構成されている。
 この作品については、「ここに展示されているのは、京都アンデパンダン展における林剛と中塚裕子による10年間(1983~93年)の表現活動をもとに試みられた『創造的アーカイブ』である。」、「『創造的アーカイブ』とは、残された資料(アーカイブ)の創造的な活用法を模索する姿勢のことをいう。」、「大胆な解釈とダイナミックな読み替えによって、もはや誰のものともいえない、非人称のあらわれにまで展開させていく。」という解説がなされている。
 作品は、「法廷」と「テニスコート」と「監獄」の三つの部分から構成されている。「非人称」というくらいだから作者名も付されていない。展示室に入ると、まずそこには赤く塗られた部材で組み立てられた巨大な法廷があり、裁判長の机にある木槌(ガベル)が自動で打ちおろされ、ドーン、ドーンと大きな音をたてている。その仕切りに向こう側に回ってみるとそこはテニスコート(の半面)で、審判員の椅子やコートサイドのベンチは緑色に塗られた部材で造られている。この部屋を出ると、その左右に大きな鉄格子の区画が造られており、これが「監獄」とされているようだ。ただし、解説されなければ、この「監獄」と「法廷」・「テニスコート」が一連の作品だとは気づかない。
 「創造的アーカイブ」という発想及び手法とそれによって造られる「非人称」の作品というアイデアはなかなかに面白いのだが、観客の立場からすれば、オリジナル作品のイメージ(記録写真など)や現存する関連資料(本来のアーカイブ)が知らされないまま「創造的アーカイブ」とか「非人称のあらわれ」とか言われても、それをそのように判断する訳にはいかない・・・としか言いようがない。






 第6話は「おそるべき子供たちの独り芝居」と題された章である。
 まず、坂上チユキ(生年・出生地・住所地など不詳)の作品が目を引いた。詳密なドローイングでプレパラートにされた細胞のような図柄を描いた「博物誌」全32点や「鳥の写本」と題された絵画に目を凝らしていくと、「さがしもの」と題されたオブジェ(ミクストメディア)に突き当たる。粘土で造られた細い触手のようなものが無数に入り組んだ物体。その触手のすべてにさらに細かな無数の彩色が点として施されている。まさに「おそるべき子供」の黙々たる営為である。
 ピエール・モリニエ(Pierre MOLINIER 1900~1976 フランス)「シャーマンとその創造物たち」(1962~1967)はフォト・モンタージュ集。シュルレアリズムの影響下に、フェティシズムとエロティシズムを醸し出すエグい作品が並んでいる。また、全裸にタイツ姿で男根をそそり立たせたセルフ・ポートレイトのような作品もあり、これまた「おそるべき子供」ではある。











 この章でいちばん印象的だったのは、アリーナ・ジャポツニコフ(Alina SZAPOCZNIKOW 1926~1973 ポーランド)の彫刻作品たちだった。
 作品「尻ランプ」や「ランプ彫刻」(1970年頃)は、ポリエステルを成型して卓上ランブを模ったものだが、その傘や電球やスタンドの軸は、唇、尻、乳房、男根などの形態をしており、パステル調の彩色を施されている。これらはあっけらかんとして暗さはないのだが、人間の頭部がちょうど鼻の下から横に切り裂かれ、その断面が灰皿になっている姿のオブジェ「独身男の灰皿1」(1972)では、どこか生々しい加虐感と被虐感とを禁じえない。
 「写真彫刻」と題された作品は、作者が噛んだガムを被写体にした20点の組写真。ガムというよりもっと粘り気のある肉片みたいに見え、生き物のようなその形態に唸らされてしまう。





 アンディ・ウォーホル(Andy WARHOL 1928~1987 アメリカ)の作品は、「鎌と槌」というシリーズものの写真作品。ソビエト国旗のシンボルである鎌とハンマーのグラフィックを見て影響を受け、平面に鎌とハンマーあるいは他の物品を組み合わせて(重ねて)置いて、それを撮影した写真である。現物→グラフィック化という表現行為の逆を、文字通り〝手を変え品を変え〟して試しているといった風である。また、その隣には「絶頂絵画」(1978年)と題された精液で描かれた抽象画(萎みつつある風船のように見える)も展示されており、マリリン・モンローのグラフィックに代表される複製ポップ芸術家アンディ・ウォーホルの、すこし別の面を視ることができる。







 さて、順路表示に従いながらこの横浜美術館における展覧会を見て歩いて、その設定に感心したのは、グレゴール・シュナイダー(Gregor SCHNEIDER 1969~ ドイツ)のインスタレーション「ジャーマン・アングスト」(German Angust 2014 )だった。(じぶんなら邦題は「不安のドイツ的形態」とでもしたいところ。)
 これは横浜美術館の地階のある扉を開けて入る部屋=作品である。窓のない地下室のようで、コンクリートブロックの壁で囲まれており、床は下水の汚水のようなもので覆われている。目を凝らしてみると、汚泥の中にはふやけた固形物があり、中にはまるで糞便のように見えるものもある。その種の臭いがしないのが救いだ。近代的で清潔に見える美術館の一画に組み込まれたインスタレーションだから、作品が置かれた環境と対照的でありそれだけで刺激的に受け止められ得るという〝地の利〟があるわけだが、照明の暗さといい、造られてからの時間の経過を感じさせるコンクリート壁の風合いといい、なかなか手仕事の出来がいい。何か忌まわしい閉塞の記憶が蘇ってくるような不安を感じる。
 作者は、この美術館でここ、つまり地下駐車場がいちばん気に入って、ここにこの作品を製作しただという。


 第8話「漂流を招き入れる旅、漂流を映しこむ海」は、高山明(1969~ 埼玉)と彼が率いる「Port B」(ポルト・ビー)によるライブ・インスタレーション「横浜コミューン」及びトヨダヒトシ(1963~ 神奈川)の「映像日記/スライドショー」によって構成されている。じぶんは高山のパフォーマンスもトヨダのスライド上映も観ることができなかった。ただ、横浜美術館に展示されていた高山の「横浜コミューン」の一部(導入部?)であるビデオ上映を観ることはできた。
 このビデオは、日本に住む外国人が日本に住むことになった経緯を日本語で話す声が流れているだけのもの(画像はない)だが、不思議とその話に惹き込まれた。時間に余裕があればじっと耳を傾けていたかった。
 ライブ・インスタレーション「横浜コミューン」は10月30日から11月3日まで「nitehi works」という会場で行われる予定。「映像日記/スライドショー」は9月13日、22日、27日、10月4日、18日に、それぞれ別の会場で行われる予定。いずれもヨコハマトリエンナーレのHPで確認を。

 第10話と第11話は、会場が「新港ピア」。これらについては、次回掲載とする。                                                                                                                                                                                                                  
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:57Comments(0)美術展

2014年07月02日

「東電テレビ会議・49時間の記録」を観て

 なかなかブログを更新できないでいるので、別のところに寄稿した文章をここに再掲して、とりあえずお茶を濁しておく。
 以下の文章は、山形県職員連合労働組合発行の『山形県職員新聞』2014年4月25日号に掲載されたもの。紙面ではこの記事のタイトルに「特別投稿」と差し込みがあるが、編集部からの依頼に応えて寄稿したものである。
 「東電テレビ会議・49時間の記録」は、同年4月12・13日に「フォーラム山形」で上映された。

 






 東京電力は、2011年3月11日午後6時27分から継続して、本店(本社)、福島オフサイトセンター(関係機関による緊急対策の拠点)、福島第一原発(その指揮所である免震重要棟)、福島第二原発、柏崎刈羽原発の5箇所を繋いだテレビ会議を録画していた。事故原因の調査や対策の検証に当たってこのビデオの公開は必要不可欠なものとされたが、当初、東電はこれを職員のプライバシーを理由に拒否していた。これに対して朝日新聞などのマスコミがキャンペーンを張り、東電株主代表訴訟原告団が東京地裁に保全申請するなどして公開させた映像が、東電本社のHPにアップされている。この映画は、3月12日から15日までの49時間のうち、一般公開されている約10時間を、前・後編合わせて3時間26分に編集し、映像の余白に時刻や用語の解説などを挿入したものである。

 映画は、一号機が水素爆発し、避難指示が20キロ圏内に拡大された12日の夜、官邸から帰ってきた東電の武黒フェロー(副社長待遇)が政権幹部を批判するシーンから始まる。彼は、「民主党政権幹部は若くて溜めがない。6,7回もどやしつけられた。」とひどくプライドを傷つけられたような口調で愚痴る。三号機の燃料棒露出が判明する以前の13日までは、彼のみならず職員たちが交わす会話は如何にも東大や東工大卒の技術エリートのそれで、未曾有の大事故に立ち向かっているという切迫感が伝わってこない。それがとても印象的であり、そして象徴的である。

 映像から(というより固定カメラで人の動きはよく見えないから、音声から、だが)抱かされるのは、第一に、大量の放射能漏れ・水素爆発・メルトダウンなどは、ほんとうに津波による「全電源喪失」が原因なのか(地震による損傷や構造的欠陥もあったのではないか)という疑念である。というのも、非常電源が確保されても、計器や安全装置が(電源が不要な冷却装置でさえもが)想定どおり動かないからだ。そして、次にやってくるのは、現場の東電職員が過酷事故を想定した装置や機器の取扱いに習熟していなかったのではないかという疑念である。

 さて、だが本紙読者すなわち県職員がもっとも注目しなければならないのは、福島県庁の原発所管部長と知事の態度について東電社員が発言している内容だ。三号機の爆発が迫ってきた時点で、福島県が東電に対し、マスコミを入れた県の部長会議で現状を詳細に報告し事態悪化の可能性を説明するよう求めたのに対して、東電は“官邸が記者会見しないのだから県も事態を公表するな”という趣旨の説得にまわり、渉外者が会議で「担当部長と知事からしぶしぶですが納得いただきました」と報告しているのである。もし県当局が三号機爆発の急迫を理解した(想像できた)うえでその情報を県民から隠したのだとしたら、これは犯罪的な行為であるのだから、ことの真偽はしっかり突き詰められるべきであろう。また、この映像は第一次資料として極めて重要だが、そこにあるのはあくまで「東電職員の発言」であることを幾度も肝に銘じながら観る必要がある。

 14日の夜には免震重要棟でも職員の被ばく線量が基準値を超え、原子炉建屋内外での作業は決死の状況となる。そして、「もうここにいても何もできない」と東電は職員の撤退に傾く。 
 映画の最後に防災服姿で東電本社に乗り込み、激しく手を振りながら演説する菅首相の後姿が映し出される(音声はないとされている)が、ひょっとしたら菅直人の“イラ菅”ぶりこそが東電に撤退を思い止まらせ、結果的に日本を救ったのかもしれない。(ただし、この場合の<日本>とは殆ど<東京>と同義なのだが。)
                                                                                         
                                                                                                                 





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:19Comments(0)映画について

2014年06月22日

山大劇研・アングラの時代(一九七五/一九八一)





 八文字屋書店が発行している季刊の『やまがた街角』(編集・発行人大久保義彦)の第69号(2014年6月刊)が、「山形【演劇】図鑑」という特集を組んでいる。編集を担当している書肆犀の岩井哲氏に依頼され、山形大学演劇研究会について寄稿した。
 同誌に掲載された記事の文面を見ると、高啓の原稿のうち人名に関する部分が岩井氏の手で一部修正されていたが、ここにはもとのままの文章をアップする。



 山形大学演劇研究会の過去について書くようにと依頼されて、さて、と振り返ってみるが、手元に残されているその活動の資料はごく僅かで、ほとんどを記憶と伝聞で記すしかない。この無頓着さ、つまりは芝居の空間をがむしゃらに産出しそこでの時間を消費することのみにエネルギーを注いで、その記録・検証・回顧には一向に関心がなく、OB会的な集まりさえない・・・そんな姿勢こそが、良くも悪くも〝学生演劇〟の在りようということだろう。ようするに学生にとっては現在のみが重要で、過去は否定すべきもの、未来は濃霧の中だったのだ。
 じぶんが山形大学人文学部に入学したのは一九七六年。「連合赤軍事件」によって学生運動が急速に衰退し、追い詰められた党派は「成田闘争」に活路を見出そうと足掻いていたが、一般学生たちは只管〝お利口さん化〟していった時代である。「国立二期校」に「不本意入学」したことと、小白川キャンパスがあまりにつまらないこととによって、じぶんは深く深く五月病を病んだ。ある日、構内をふらふらと彷徨い、陸上競技グランド脇にあった木造2階建ての部室棟(通称「ハモニカ長屋」)の前を通りかかると、女たちのかしましい笑い声が聞こえてきた。その部室には石巻女子高出身の2年生三人組がいて、彼女らに誘われるままにぼんやりとそのサークルに加入した。いま、じぶんがこうして生きていられるのは、そしてこのように生きてきてしまったのは、芝居じみた言い方をすれば、まさに、一にかかってこのとき山大劇研に足を踏み入れたがゆえ、である。

 新入生のじぶんが劇研でいちばん影響を受けた先輩は、山形東高出身で理学部数学科の3年生だったT男である。当時聞いていたところでは、彼は七四年か七五年に、後に青森市役所に勤めながら舞踏家として活動することになる福士正一氏(オドラデク道路劇場主宰)らとつるんで、『ギヤマン回帰』というオリジナルの芝居を文理講堂で上演した。これが山大劇研における「アンダーグラウンド演劇」の始まりではないだろうか。文理講堂は旧山形高等学校時代の講堂で美しい洋風建築だったが、惜しまれながら七八年頃に取り壊された。普段は少林寺拳法部の練習場だったのを一時的に借りて稽古したことを、じぶんも微かに記憶している。

 当時は、唐十郎の「状況劇場」(紅テント)、佐藤信らの「68/71黒色テント」、そして鈴木忠志の「早稲田小劇場」がアングラ御三家として鳴らしていたが、T男が最も傾倒していたのは鈴木忠志だった。また、怪優・品川徹のいた太田省吾の「転形劇場」にも影響を受けていた。
じぶんの舞台デビューは、七六年にこのT男が演出した唐十郎の『ジョン・シルバー』だった。会場は山形市民会館大ホールで、二五〇人ほどの客を全部舞台に上げ、本来の客席の暗く広い空間を海に見立て、それを背に演戯した。照明は全部逆方向に向けなければならず、間誤付いていると「餡子屋さん」(後の山形綜合舞台サービス・安達俊章代表のこと)に「ちゃんとセッティングを考えて来い!」と迫られ、ビビッた記憶がある。役者はオリジナルの配役とは男女が全部逆で、李礼仙の役も長身でスラリとした福島出身の男子学生が演じた。

 山大劇研の良いところは、特定の路線に拘らないで自由に(というか自分勝手に)台本を選べたことだった。部員ごとに志向性が異なるから、もちろん芝居の傾向や上演台本をめぐって対立もあったが、そういうときはたとえば二つの演劇集団が部員の争奪戦をして、それでも決着しなければ二本同時に上演(まさに「競演」)してしまった。七八年頃には、清水邦夫の『逆光線ゲーム』と別役実の『象』を連続上演したのではなかったかと思う。このときの『象』はじぶんが初めて演出した作品だった。
 じぶんは役者としては大根で、七六年、1年生の終わりに主役に抜擢されてJ・P・サルトル『出口なし』のガルサン役をやったのが唯一の代表作である。この芝居は、官憲に脅されて仲間を売ったガルサンと恋人に捨てられた女・エステルそれにレズビアンのイネスの3人が密接に絡んで展開される死後の密室劇だが、チャーミングな先輩女性たちと頻繁に身体的な接触のある稽古には、毎日銭湯に行ってから高校時代の黒いスプリングコートを着て臨んだ。コートを脱がなかったのは、股間が盛り上がって仕方なかったからである。思い出すと今でも脂汗が出る。
 じぶんの台本・演出の代表作は、七八年に構成・演出した処女作『詩劇・自己幻想論序説』と八一年に構成・演出した『対幻想狂詩曲~あけみのツゴイネルワイゼン~』である。前者は、鮎川信夫、吉本隆明、黒田喜夫、北川透らの詩を自作の科白で繋いだコラージュ劇。後者は自作の科白を構成したコラージュ劇である。これらは大学会館2階の中会議室やホールで上演した。

 ところで、当時はプール脇に旧山高時代の木造校舎があり、サークル棟として利用されていた。この2階には固定の長机と跳ね上げ式の椅子が並んだ大きな階段教室があり、それまでは奇術愛好会が仮の物置にしていたのだったが、七八年頃から劇研がなし崩し的に占有し、翌年にはボルトで固定されていた机・椅子を勝手に撤去して、自前の〝小屋〟とするに至った。この階段劇場では、劇研がオリジナル劇やオスカー・ワイルド『サロメ』、唐十郎『少女仮面』などを上演したほか、書肆犀の岩井哲氏(当時は山大前通りにあった喫茶店「犀」の店主)らのハードロック・バンド「パパ・レモン」が参加したライブ・イベントが開催されたこともあった。
 じぶんが知る時代の山大劇研は、演劇未経験者ばかりで芝居は未熟なものだったが、その分、高校演劇や「死せる芸術=新劇」(菅孝行)の厭らしさとは無縁でもあった。そしてなにより、恥知らずで恐いもの知らず、だったような気がする。(了)


                                                                                              
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:29Comments(0)作品情報

2014年05月20日

「山形詩人」83~85号






 ずっとサボっていた作品情報を久しぶりにアップする。
 「山形詩人」第83号(2013年11月)に詩「バックスタンドの憂鬱」を、同第84号(2014年2月)に詩「次孫論」を、そして85号(2014年6月)に詩「春宵論」を発表した。

 負けが混むと投げやりに卑下するがそれでも選手たちには拍手を贈り
 たまに勝つとタオマフを翳してお決まりのスポーツ県民歌を合唱する
 (大衆的な、あまりに大衆的な)ぞっとするひとびとの群れ
 ぼくはあなたたちにとって永遠に余所者であり続けるのだから
 この土地からもあなたたちからも逃れられないわけはないのだ
 そう呟きながらつよい西陽に炙られてぼくは今日もここにいる
                      (「バックスタンドの憂鬱」より)







 また、土曜美術社出版販売発行の雑誌『詩と思想』(2014年6月号)の巻頭詩として「あなたたちが歳をとれるようにぼくが歳をとれる訳ではない」を発表した。

 幼い頃、何度も泣いて帰って来るじぶんに母が言った
 それはおまえが共苦する力を授かっているからなのだと
 面の皮が厚くなって共苦する力を去なす術は身に着けたのだが
 ほんとうに欲しいのは共苦する力に頓着せず日々を快楽する力
                (「あなたたちが歳をとれるように――」より)


 「山形詩人」の送付を希望される方は、このブログの「オーナーへメール」から注文を。1部500円(送料当方負担)また、『詩と思想』誌は全国の書店またはネットショップで求められたい。






 ちなみに、高啓の詩集『母を消す日』・『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』・『女のいない七月』(何れも書肆山田)はネットショップ及び山形市嶋の大規模書店『戸田書店』で購入可能。
 なお、『女のいない七月』は、ジュンク堂(池袋店)、丸善(仙台アエル店)の店頭にも在庫があるようである。
 こちらも「オーナーへメール」から注文をお受けする。(送料当方負担)                                                          

                                   


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:45Comments(0)作品情報