2023年02月12日

山田兼士さんへの手紙




 「日本現代詩人会会報」169号(2023年1月)で、高階杞一さんによる故・山田兼士さんの追悼文を読んで、山田さんが昨年12月6日に亡くなったこと(享年69)を知った。
 山田さんとはお互いに詩集を贈り合っただけで、お会いしたこともメールや電話でのやり取りをしたこともなかったが、山田さんの詩集についていつかは何か書かなければと、ずっと気になっていた。病気から回復されたと聞いていたので、こんなに早く逝ってしまわれるとは思ってもみなかった。

 山田さんは細見和之さんと季刊詩誌『びーぐる―詩の海へ』に連載していた「対論・この詩集を読め」で、高啓の『女のいない七月』を取り上げてくれた。(2012年4月の第15号掲載。のち、単行本『対論Ⅱ・この詩集を読め・2012~2015』(澪標・2016年3月刊)に収録)
 この「対論」で、山田さんは「(前略)一般にはなかなか知られにくいでしょう。今こういう骨太の詩を書いている人―今日はちょっと、これをどう批評・評価するかというよりも、どういう紹介の仕方をすれば『びーぐる』の読者に対してプラスのものがより多く伝えられるか考えたい。(後略)」と述べ、細見さんと一緒に『女のいない七月』以前に上梓した第2詩集『母を消す日』、第3詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』を紹介することも含めて、高啓の詩の魅力を伝えようとしてくださっていた。これを読んでとても有難いと思った。

 山田さんは2019年10月にウイルス性脳髄膜炎による高熱を発症したが、2か月間もの意識不明から覚醒し、7か月間の入院生活とその後のリハビリテーションを経て、コロナ禍による大学(大阪芸術大学)のリモート授業への復帰を果たしていた。
 この、まさに死の淵から帰還した体験は、詩集『冥府の朝』(澪標・2022年1月刊)に収められた作品に率直に描かれている。

  あまり遠くない方向に入り江があって
  その奥には深緑の森がある
  その入江の奥へ奥へと ベッドは運ばれていく
  まるで死の島へと運ばれる小舟のように

  ベッドは水を分けて進んでいく
  冥府船
  にしては
  ただひとりなのが寂しい

  まあいいさ
  死ぬときはだれでもひとりだから
  ということは
  いま僕は死にかけているのだろうか

  小舟のように揺れる
  ベッド舟に運ばれて
  もうすぐあの島に打ち上げられる
  その瞬間がありありと感じられる

   (中略)
 
  予想していた衝撃もなく 
  冥府船は軟着陸のように
  岸辺に乗り上げた
  緑に見えていた森は実は紅葉だった

  森は窓外のビル街で
  岸辺はもとのベッドのままだった。
  手足に力は入らないが
  目と耳は生きている信号をとらえていた

  あれは人を冥府に運ぶ船ではなく
  冥府からこの世へ運ぶ船だった
  優しく美しいナースたちが
  生還した命を祝ってくれた

  もう少し生きていたい
  強く
  激しく
  思ったのだった なぜか

                          詩「冥府船」から(部分)

 「冥府からこの世へ運ぶ船」だった「冥府船」は、しかし、このあと1年もしないうちに「人を冥府に運ぶ船」となってしまった。山田さんは詩のなかで確か44歳くらいで胃癌の手術をしたと書いていたが、終にかれを冥府に運んでしまったその「船」は、やはり癌(発見時にステージⅣの食道癌)だったという。

 正直に言うと、山田さんから『孫の手詩集』(澪標・2019年6月)という詩集をいただいて目を通し、〝これはいただけない。おれは絶対にこういう詩は書かない。〟という感想を抱いていた。
 じぶんは、<孫>という存在をどう捉えるか、ということは結構難しい課題、大袈裟に言えばひとつの思想的課題であり人生における試金石のひとつであると考えてきた。そこからみると、この詩集の作品群は、ただひたすら孫の可愛さ、その命の掛けがえのなさに惑溺し、その放恣(もっとひどい言い方をすれば感情失禁)に任せて作詩しているように思われたのである。
 だが、今回山田さんの訃報に接して、詩集『家族の昭和』(2012年)、『羽曳野』(2013年)、『月光の背中』(2016年)、『羽の音が告げたこと』(2019年)、『冥府の朝』(2022年)を通読してみると、山田さんが<先験的家族>、すなわち自分を形成してきた家族や身近なひとへの関係意識とそれを対自的に生きる時間性に、ふかくふかく表現の根拠をもっていたことに改めて気づかされた。

  「兄ちゃん車で父ちゃんと榊原温泉行くで、あんたは留守番しといてね」
  母にいわれてひとり夜を過ごしたのは十四の冬
  あれから四十年経ったが
  三人とも帰ってこない  
                             詩「ななくり」第一連

 作者が11歳のときに脳卒中で半身不随となり、それから20年苦悩の時間を生きて享年61で亡くなった父、生命保険会社の「モーレツ社員」として働き、子宮癌によって享年51という若さで亡くなった母、そして享年46で亡くなった兄、さらには同じく享年46で亡くなった無二の親友・・・。そうしたひとびとへの追憶がこの詩人自身の時間意識と一体的に表出されているのだった。
 また、作者が自ら形成した家族(妻、息子、娘との4人家族)を想う心情やともに暮らす日々の時間意識も、引っ越しを重ねたいくつかの土地の風景や過去に住んでいた家の構造への追想と一体化して、作品群の基調となっている。
 こう考えてみると、『孫の手詩集』の「親ばか」ならぬ「爺ばか」ぶりは、『家族の昭和』から『羽の音が告げたこと』までの創作意識へのある種の無意識的な反動であり、孫への惑溺を表現として放恣することによって、過去(つまり自分がそこに産まれた先験的家族)への追想(それは最早切なさすぎるから)を忘却する試みか、あるいは上塗りによって包み隠してしまおうとする試みなのかもしれないと思われてくる。

 高階さんの追悼文には、最後の闘病のなかで紡がれた山田さんの詩集『ヒル・トップ・ホスピタル』から、山田さんが自分の詩を「人生詩」だといっている部分が引用されている。
 ところで、前出の「対論」には、こんなやり取りが出てくる。

 細見:今これぐらいの世代で詩を書いている人で、実際に会って話をしてみたい、どういうふうに詩を考えていますか、といったことを聞きたいと思う、そういう人の一人。特徴のある書き方で、全部がある意味同じような作品世界の中で、出てきた連中に次の詩集では何かが起こっていて、それをまた詩に書いて、これは何か不思議で面白いと思います。
 山田:それは十年二十年前のことを書くのとは違うからね。でもこういう人が逆に、もっと若い頃何をしていたのか、学生時代どうだったのか、昭和レトロの小学生の頃にどういうことを感じていたのか、そういうこともまた書いてほしい。

 山田さん。
 高啓はこれまで「人生詩」などというものを書いたつもりはありませんし、これからも書こうとは思いません。・・・と言いたいところですが、これからじぶんの詩がどうなるのか自信がありません。
 そういえば、詩集『二十歳できみと出会ったら』に所収の詩「喪姉論」はどう読まれましたか。あれは「人生詩」ということになるのでしょうか。(なりませんよね。)
 高啓が「冥府船」でそちらへ運ばれていったら、〝ああ、これでじぶんの作品も所詮は「人生詩」と括られてしまうんだろうなぁ・・・〟などと落ち込んだ顔をしているかもしれません。そのときは、「人生詩で結構じゃないか」などと言ってちょっかいをかけてきてください。「あんな孫の詩を書くなんてどうにかしてますよ。」と言い返しますから。

 では、それまで暫し初対面のお預けです。  合掌。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:09Comments(0)作品評

2023年01月26日

1957年の城南陸橋(山形市)




 高 啓が山形新聞の連載企画「ふるさとを詠う~山形の現代詩~」に寄稿した詩「濃霧論」(2022年12月8日号掲載)を読んだ読者から、手紙をいただきました。差出人は、山形市七日町にお住まいのHさんという方です。
 「濃霧論」は山形駅西口の一画について、そこが再開発される前の記憶を描いたものです。作者のコメントが記載されており、そこに「架け替えられる前の城南陸橋から北西方向、すぐ下に1軒の〝連れ込み宿〟があった。線路の東側から遮断機のない小さな(モグリの?)踏切を渡ってこの安宿にたどり着いた記憶がある。」と書かれていたので、Hさんが昭和32年(1957年)11月の「城南陸橋」の写真の紙コピーを同封して、この一画に関する彼の思い出を書き送ってくれたのでした。
 上の写真は「城南陸橋」から西側を写したもののようです。

 Hさんは昭和32年に17歳の高校生。学校からの帰りに霞城公園南門の付近によくたむろしていたそうです。南門には東側から遮断機のない小さな、あのモグリの踏切を渡って行ったとのこと。
 これに加えて、Hさんが山形大学の学生だった頃、花小路北の居酒屋「安愚楽」によく通って、昨年亡くなった女将の「せっちゃん」にとても世話になったという思い出も記されていました。
 「安愚楽」については、やはり「ふるさとを詠う~山形の現代詩~」に、詩「小路論」を寄稿しています。(2019年2月28日号掲載・この作品は詩集『二十歳できみと出会ったら』に所収。)

 Hさんは、昭和32年に17歳だったとおっしゃるので、今は82歳前後でしょうか。
 高 啓は昭和32年生まれです。
 この写真に写っている女性の髪形、なんと言うのか忘れてしまいましたが、じぶんの母(大正7年生・昭和59年没)もこんな髪型をしていました。
 そしてこのようによく割烹着を着ていました。




 この写真は「城南陸橋」の下から、山形駅方向を写したもののようです。
 線路がこの通りの右を通っているのか、左を通っているのか私にはわかりません。たぶん右かな。

 ついでに「安愚楽」について、忘れないうちにここに記しておきます。
 朝日新聞だったか山形新聞だったか忘れましたが、記者が書いた「せっちゃん」の追悼記事に、「安愚楽」という店の名前は学生たちが口にしていた「アングラ」から付けた、というようなことが書かれていましたが、高 啓は直接「せっちゃん」の口から、「安愚楽をかいて寛いで飲める店にしたかったから」というような話を聞いたことがあります。
 「安愚楽」を「アングラ」と言うようになったのは、高 啓もその一人であった「山大劇研」の学生たちが通うようになってからかもしれません。
 「アンダーグラウンド演劇」にひっかけて、「アングラ」と呼ぶようになったのかも。

 Hさんのご健勝を祈念します。


 



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:14Comments(0)作品評

2023年01月20日

「現代詩トークショー」上山市立図書館





 昨年(2022年)の10月22日に上山市立図書館の読書週間のイベント「ポエムの時間 現代詩ってな~に?」に出演したときの動画が、同図書館のサイトにアップされていますので、ご案内します。
 鶴岡市在住の詩人・万里小路譲さん、山形市在住の詩人・いとう柚子さんと高 啓の三人がパネリストで、司会は同館館長の岩井哲さんです。

 高 啓は岩井館長の要望に応じて、詩集『二十歳できみと出会ったら』から表題詩「二十歳できみと出会ったら」を朗読し、この詩の構造と作意について解説しています。
 話題のなかに「R40」という言葉が出てきますが、これは映画などで「R15」とか「R18」とかいう鑑賞者の年齢制限のことを意味しています。
 つまり、詩「二十歳できみと出会ったら」はしげきてきなので40歳未満の方は読まないでくださいという意味です。(もちろんそれは戯言ですが。)

 現代詩トークショー 【市立図書館】 - YouTube
   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:22Comments(0)活動・足跡

2023年01月04日

2023年になりました・・・





 「明けましておめでとうございます。」と新年の挨拶を申し上げるところですが、昨年からの世情の動きを見ていると、いよいよ日本は奈落への道を歩み出したようで、新年を寿ぐ気持ちがこれほど生じてこない年明けは初めてです。
 しかし、まぁ、筆者はオプティミズムの立場もペシミズムの立場も、まして宮台真司さんのような「加速主義」の立場もとらないので、チマチマと当面じぶんのすべきことをしていくだけです。

 2023年は、昨年に立ち上げた個人出版社「高安書房」から、高啓文学思想論集『切実なる批評』(仮題)を出版する予定です。
 じつは、この論集は昨年中に上梓すべく、これまで高啓の詩集を5冊刊行してきた書肆山田に原稿を送り、出版をご検討いただいていたのでした。
 しかし、昨年の5月に編集・装本を担当されていた大泉史世さんがお亡くなりになられ、文学思想論集の出版計画は宙に浮いたまま時間が経過しました。(大泉史世さんがどのように素晴らしい編集者であられたかについては、毎日新聞2022年7月13日夕刊掲載の池澤夏樹さんによる大泉史世さん追悼の寄稿「ある編集者の仕事」を参照していただきたいと思います。)

 高啓は大泉さんの訃報に接していっとき放心状態となり、それから気を取り直してどこか他の出版社に発行を依頼することも検討しました。
 しかしその一方、文学思想論集と別に、けれども時期的には並行して刊行を考えていたところの職業的自分史『非出世系県庁マンのブルース』が山形県行政の裏面やその組織の人間像を極めて赤裸々に描いたものであるために、これをどこかの出版社から発行した場合、万が一にもその出版社に迷惑がかかることになってはいけない、いっそのことこれを機に自分で出版・販売事業を起してしまえっ・・・と「高安書房」を立ち上げたことから、文学思想論集も高安書房から刊行することにしたものです。
 刊行の計画では文学思想論集が先で、次に職業的自分史という思惑でしたが、以上のような経緯によって、順序が逆になりました。ぜひ、この二冊を併せてお読みいただきたいと思います。

 肝心の詩作の方ですが、2022年は山形新聞の連載企画「ふるさとを詠う―山形の現代詩―」に、「山塊論」(2月3日号)、「デッキ論」(7月7日号)、「濃霧論」(12月8日号)の3作品を発表しました。
 また、山形県詩人会発行の『山形の詩―anthology2022―』(11月1日)に「失語論」を、土曜美術社出版販売発行の詩誌『詩と思想』6月号に「内腔論」を発表しました。2022年は1年間にこの5作品しか詩を書きませんでした。
 2023年は何篇の詩を書けるかわかりませんが、上記の山形新聞の連載企画には5月18日と11月16日の2回(=2篇)は発表するつもりです。

追記:『非出世系県庁マンのブルース』について、内容紹介のため小見出しを記載しましたので高安書房のサイトをご覧ください。

 高安書房のサイトにはこちらからどうぞ。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:31Comments(0)作品情報徒然に

2022年12月11日

高橋さんへの返信





 高橋さん、本ブログの「オーナーへメッセージ」からいただいたメールにお返事を差し上げましたが、ご覧いただけましたか?
 plala のアドレスとdocomoのアドレスの両方にメールで返信しましたが、当方のアカウントがフリーメールだったせいか、docomoからは拒絶されました。

 plalaでもご覧いただけていない場合、ここに返信を記載することもできますが、どうしましょうか。


 (註)高啓著『非出世系県庁マンのブルース』、とくにそのなかの「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」を読んで、就職のため、高啓に山形県内の地域性を質問されたものです。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:06Comments(0)徒然に

2022年11月24日

鈴木志郎康さんの思い出





 2022年9月、詩人で映像作家の鈴木志朗康さんが亡くなった。87歳だった。
 ぼくが志郎康さんに会ったのは二度。一度目は、たしか「山形国際ドキュメンタリー映画祭2005」の開催期間中だったと思う。場所はかつて山形市役所の近くにあった「香味庵」という蔵屋敷の料理屋(それは漬物屋「マルハチやたら漬け」の店舗兼工場でもあった)の座敷だった。
 この年の映画祭の企画の一つ「私映画から見えるもの―スイスと日本の一人称ドキュメンタリー―」で志郎康さんの作品『極私的に遂に古希』(After All , I’m 70 Years old)が上映されるのを機に、志郎康さんが来形し、「書肆山田」の鈴木一民さん、詩人で上山市在住の木村迪夫さんが酒席を共にすることになった。その際に鈴木さんか木村さんにお声掛けをいただき、高啓が同席させていただいた。この前年の4月に高啓は書肆山田から詩集『母を消す日』を上梓していたことから、お呼びがかかったわけである。
 このときどんな話をしたか記憶はないが、ただ志郎康さんとの別れ際に、「もしよろしければ帰りの新幹線ででもお読みください。」と言って、この詩集を手渡したことだけは覚えている。
 驚いたのはその二、三日後、志郎康さんから連絡が来て、「あなたの詩集を帰りの新幹線で読んで、あなたにお会いしたくなった。ついてはすぐにでも山形に行きたい。」というのだ。そして香味庵での初対面から一週間もしないうち、ぼくは志郎康さんを山形駅で出迎えることになったのだった。

 その夜は、山形市七日町の古びた飲み屋街「花小路」にある割烹「浜なす分店」に部屋を取って、盃を交わしながら詩にまつわる話をした。志郎康さんは、ぼくの詩集『母を消す日』を丁寧に読んでいくつもの感想とサジェスチョンとをくれた。ぼくはそれを、酒を飲み飲みノートを取りながら聴いた。でも、このときの話で今も記憶に残っているのは、志郎康さんが語ったご自身の内心のことだ。
 志郎康さんはしばらく前から、他者が書いた詩をまったく読めなくなっていた。一切受け付けなくなっていた。・・・というのである。この時、志郎康さんは映像作家として多摩美術大学の教員の職についていたので、かつてのように他人の詩を選考したり論評したりする経済的な必要性からは解き放たれていたが、それにしても他人の詩を全く受け付けられないというのは深刻な悩みだったのだという。
 そしてそれに続けて、こんなふうに話した。・・・しかし、あるときふとしたことから、その詩を書いた作者本人に直接対面して話をすると、その人の詩も受け付けられることに気がついた。そこで詩人に会いに行くことにした。あなた(高啓)はそのようにして会いに来た二番目の人だ・・・と。いわば、ぼくに会いにきたのは志郎康さんにとって〝詩のリハビリテーション〟のためのものだったのである。
 さらに続けて、志郎康さんは「あなたのこの詩集の作品に出てくる場所に連れて行ってほしい」と言うのだ。それで是非もなく、ぼくは翌日志郎康さんを車で「詩に出てくる場所」のいくつかに案内すると約束してしまったのだった。

 翌日、自家用車でホテルから志朗康さんを載せ、最初に向かったのは山形駅東口のペデストリアンデッキだった。これは前掲詩集収録の作品「ペディストリアン・デッキのドッペルゲンガー」の中に出てくる〝場所〟だ。そして次に向かったのは山形駅からほど近い五日町踏切だった。これは同じく作品「五日町踏切を越えて」の〝現場〟である。
 この二つの場所を回って、まぁこれぐらいだろうと思っていたら、志郎康さんは「そういえばザリガニが出てくる詩があったね。その沼にも連れて行ってほしい。」と言う。その作品は「インポオ・テンツウになる日」、その沼とは蔵王温泉地内のため池「鷸の谷地沼」(しぎのやちぬま)のことだ。山形駅から車で40~50分かかる。

 蔵王温泉への道すがら、志郎康さんの問いかけに応える形で自分のことを話した。
 山形大学4年生の後期に突然国立大学法学部の大学院受験を思い立ったこと。学生時代の専攻は日本政治思想史で、指導教官から論文をかけと言われて山形県出身の高山樗牛について書こうとしたが、構想が長大になり途中までしか仕上げられなかったこと。卒業要件になっていないこの論文に取り組んだことで、外国語の勉強が全然できなかったこと。北海道大学の大学院受験に失敗し、帰りの青函連絡船から厳冬の津軽海峡に身を投げようとしたこと。それでも指導教官から進められて静岡大学の専攻科に入学して翌年の大学院受験を目指したこと。ところがその年から大学院入試の期日が大幅に前倒しになっていたことを知らずにいて、受験機会を逃すという大失態を演じたこと。いろいろあって山形に帰り、公務員試験を受けたこと。そして山形県職員となったこと。・・・等々である。(この間の経緯は近著『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅳ章「要領の悪い歩行について」に少し詳しく書いてある。)
 鷸の谷地沼に着くと、志郎康さんは車から降りてビデオカメラで風景を撮り始めた。ふと振り向くと、ぼくの後ろからぼくの姿も撮っていた。内心、このシーンは絶対に作品で使わないでほしいと思ったものだ。
 蔵王温泉から下る車中でも、またぼくの話になった。県庁職員としてどんな仕事をしたのかと問われ、「そうですねぇ、こんなことをしましたと人に話せるのは、米沢に『伝国の杜』という山形県の文化ホールと米沢市の博物館を合築した文化施設を造ったことですかね・・・」と話すと、じゃあそこに連れて行ってくれというのである。それでここからまた1時間以上、志郎康さんと車中の話が続いたのだった。
 志郎康さんもご自分の身の上話をした。NHKのカメラマンを辞職して詩や映像で飯を食っていこうと決断したのは、(ぼくの不確かな記憶では)親の遺産で都内に一戸建てのマイホームを手に入れることができたからだとのことだった。それから奥さんのことでいろいろと気を使っていることも話してくれた。(ここはこれ以上明らかにはできないが。)
 ぼくは志郎康さんがかなりプライベートなことまで話してくれるのに少し驚いていた。もっとも、そういう自分はベロベロと饒舌に個人的な事情を話していたのだったが。
 
 志郎康さんは、「伝国の杜」のプロジェクトを巡って、県と市が激しく対立したことや、ぼくが県の内部でひどく孤立したこと、そしてどんな問題にどのように対応してきたかの話にずいぶん興味をもって耳を傾けてくれた。(この話も『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅲ章「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するか」に詳しく書いた。)
 結局、「伝国の杜」や上杉神社の一帯を見物しながら、志郎康さんは米沢市企画調整部=上杉藩精鋭部隊とたった一騎で対峙した佐竹藩脱藩士のぼくの恨み節に全部付き合ってくれたのだった。米沢駅近くの喫茶店で一休みして、同駅から新幹線で帰京するまで、おそらく二日間で10時間以上一緒にいた計算になる。志郎康さんは70歳、ぼくは48歳だったが、お互いにずいぶんと疲れたはずである。

 この2年後も映画祭で志郎康さんの作品が上映されることになったので、来形の折はぼくがアッシー役を買ってでますと伝えたのだが、東北芸術工科大学の教員になっている教え子や知り合いが接遇してくれる、もっぱらそちらと時間を共有するので、という理由で断られた。そしてこのあと、ぼくは二度と志郎康さんと会うことがなかった。
 志郎康さんは内心、ぼくと過ごした時間に辟易していたのではないだろうか。それでも、ぼくにとって志郎康さんと過ごした濃密な時間は一生の思い出になっている。

 志郎康さん、あの世でまた話したいです。そのときは断らないでくださいね。合掌。
                                                                                                                        
                                                                                           

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:46Comments(0)活動・足跡徒然に

2022年11月13日

久しぶりにジャズ喫茶「オクテット」へ




 【注】 以下の内容は「高安書房」のブログに記載した内容と被っています。

 山形名物(?)の濃霧の季節が来ました。
 今日は午後から天気が崩れ、また一段と気温が下がるようです。
 街に降りてきた紅葉もそろそろ終わりが近付いている・・・・。

 ちょっと山形駅前をぶらつく時間ができたので、ほんとうに久しぶり、たぶん10年以上ぶりに山形駅前のジャズ喫茶「オクテット」に行ってきました。マスターの相澤さんが高齢になり、継承者を探しているがその専門性ゆえになかなか見つからないという新聞記事を見て、〝ああ、相澤さんがまだ店に出ているんだ〟と思い、懐かしくなったからです。
 というのも、だいぶ以前ですが、店を訪れたり覗いたりしたとき別の方が店をやっていたので、相澤さんはあまり店に出ていないのかなと思っていたのです。
 珈琲の味は相変わらずで私の口には合いませんが、雰囲気は変わらず、私が知る限り40年くらい前のままです。この日はミルト・ジャクソンのビブラフォンの演奏曲が流れていました。久しぶりにレコードの音色を聴きました。レコードはいいですね~。

 この日は長い髪の女性店員に相澤さんがいろいろ説明していました。品出しのことだけでなく、レコードやアーティストの説明もしているようだったので、この人を後継者にするのかな・・・と思いました。
 「いつもまでもあると思うな店と街」という一行を詩に入れたことがありますが、まさにそのとおり。時は残酷です。駅前の飲み屋街の見慣れた店も無くなっていました。「修ちゃんラーメン」「焼肉大雅」それに「クワイエット・カフェ」など、私はあまり入ったことはなかったのですが、寂しいです。

 ところで、山形駅周辺で観光客の姿を見かけるようになりました。
 非アジア系の外国人の観光客姿もちらほら。
 紅葉最後期の霞城公園も美しいです。

 さて、高安書房のブログで、『非出世系県庁マンのブルース』へのコメント(その4)を紹介しています。
 そちらもご覧になってください。

 おかげさまで山形県内の書店で少しずつ売れているようです。
 八文字屋書店各店舗、小松書店本店、くまざわ書店さんなど、2回目の配本になりました。八文字屋北店さんでは、最初の配本のときは郷土図書の棚でしたが、今度は文芸・教養新刊書のコーナーに平積みされていました。
 また、県外の公共図書館や県内の高校の図書館からの注文もぽつぽつ来ています。
 図書館の方には個人の方と同じように直接高安書房に注文いただきたいのですが(直接購入だと消費税がかかりません)、支払い手続きが面倒な場合は取引のある書店に取寄せ依頼してください。
 山形県内の学校の場合は「山形教育用品株式会社」さんをご利用されてると思いますので、そちらでも対応してくださるようです。
 山形県内の書店の方は、もし「山形県教科書供給所」さんと取引がありましたら、そちらへ発注してください。もちろん、高安書房へ直接注文いただけます。
 先日、TOHANさんから注文が来ましたが、返事の電話で「大手取次との取引は今のところしていなので、どのようにお付き合いしたらいいかわからないのですが・・・」と申し上げたら、「じゃあいいです」で終わってしまいました。
 本当は取引していただきたいのですが、たぶん、小社のようなミニマム出版社と1冊ごとの取引はしていただけないと思います。

 高安書房への発注方法はこちらをご覧ください。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:09Comments(0)徒然に