2015年09月11日

木村迪夫の詩を語るつどい





山形県詩人会からの告知です。

山形県詩人会は、山形県立図書館と共催で「木村迪夫の詩を語るつどい」を開催します。

「山形国際ドキュメンタリー映画祭2015」(10月8日~15日・山形市)において、原村政樹監督のドキュメンタリー映画「無音の叫び声~農民詩人 木村迪夫の牧野村物語」が上映されます。(10月12日10:00~ 山形市民会館)
 これと連動して、山形県立図書館では「詩人・木村迪夫著作展」(10月17日まで)を開催しています。
山形県詩人会は、これらに連動して、映画とは異なった視点から木村氏の詩の世界について論じ合うつどいを開催(図書館と共催)します。多くの皆さまのご来場をお待ち申し上げます。

【内 容】
(1) 木村迪夫氏による自作詩朗読
(2)話題提起
  ①「木村迪夫の詩の魅力について」詩人・近江正人氏
  ②「現代詩史における木村迪夫の位相について」詩人・高橋英司氏
(3)木村迪夫・近江正人・高橋英司の3氏によるパネルディスカッション
 (司会:高啓)

日 時 :平成27年10月11日(日)13時30分~15時30分
会 場 :山形市緑町「遊学館」3階 第1研修室
参加費 :無料
主 催 :山形県立図書館  共催:山形県詩人会

申込み :山形県立図書館  企画課(高橋・阿部)
電話023-631-2523 Fax 023-625-6520

※ この催しに参加する方が文翔館東側の県営立体駐車場をご利用の場合は、2時間まで無料になります。遊学館入口の受付で駐車券にチェックを受けてください。なお、当日は遊学館2階ホールで台湾のドキュメンタリー映画の上映と講演等が行われますので、駐車場の空きが少なくなることも予想されます。ご注意ください。
※ 当日の参加も可能ですが、資料等準備の関係上なるべく前日まで申し込みをお願いします。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:39Comments(0)山形県詩人会関係

2015年06月22日

山形の詩 朗読の夕べ





 山形県立図書館(山形市緑町「遊学館」内)で「山形の詩 朗読の夕べ」が開催された。(2015年6月14日)
 このイベントは、同図書館が開催した蔵書の企画展示「吉野弘と山形の詩人たち」(5月19日~6月20日)の一環として開催されたもの。
 日曜日の夜、閉館後の図書館の閲覧室内で行われるイベントはこの県立図書館ができてからおそらく初めてのことだろうという話だった。

 朗読の夕べには山形県詩人会が協力。7人の詩人が出演した。(写真はMCを務めた近江正人氏)
 プログラムは、下記のように三部構成。
 出演者(朗読者)は、自分が取り上げた詩人や作品について簡単な紹介や当該詩人に関する想い出などを語った。なお、今回取り上げられた詩人は、すべて物故者だった。
 ちなみに、この図書館にはイベントを実施する予算がまったくないため、出演者は交通費も自己負担で駆け付けた。

 ※イベントの模様(画像)は山形県立図書館のFacebookに掲載されている。


 【「山形の詩 朗読の夕べ」プログラム】

 【第一部】  吉野弘の詩を味わう
  「生命は」(朗読者)近江正人
  「奈々子に」「創世記」(朗読者) 松田達男
  「虹の足」「樹」 (朗読者)いとう 柚子

 【第二部】  井上ひさしの言の葉 ~劇中詩より~
  「ひょっこりひょうたん島」テーマソング(朗読者)井上達也
  「水の手紙」から(朗読者)遠藤敦子&井上達也
  「きらめく星座」から(朗読者)遠藤敦子

 【第三部】  多彩な山形の詩人たち
  土谷 麓「一升買い」(朗読者)久野雅幸
  加藤千晴「大木」(朗読者)いとう柚子 
  日塔貞子「私の墓は」(朗読者)いとう柚子
  日塔 聰「ソネット一」「哀歌二」(朗読者) 松田達男  
  長岡三夫「田舎の親父東京へ来るな」(朗読者)高橋英司
  大滝安吉「博物館にて」(朗読者)近江正人                  







 企画展示「吉野弘と山形の詩人たち」については、以下のとおり趣意書の文言を引用しておく。

【 名詩「I was born」や「生命は」等の作品が愛読され続けている吉野弘をはじめとして、戦後詩史に類例のない足跡を残した黒田喜夫、阿部岩夫ら、そして農民詩人として全国的に注目された真壁仁、木村迪夫など、山形県は優れた現代詩人たちを輩出しています。現在、「山形新聞」に、本県出身の物故詩人を取り上げた「やまがた名詩散歩」が連載されていますが(平成26年4月から隔週連載中)、山形県立図書館では、この連載記事と連関するかたちで、蔵書のなかから連載記事で紹介された物故詩人たちの詩集を展示するとともに、これに加えて「山形県詩人会賞」を受賞した詩集など、現在活躍中の県内詩人たちの詩書を展示します。物故詩人では、吉野弘、新藤マサ子、星川清躬、赤塚豊子、真壁仁、芳賀秀次郎、佐藤登起夫、神保光太郎、駒込毅、日塔貞子、日塔聰、森英介、永山一郎、土屋麓、阿部岩夫、加藤千晴、黒田喜夫、結城よしを、大滝安吉、佐藤總右、細野長年、竹村俊郎、蒲生直英、高橋兼吉、駒谷茂勝、佐藤十弥、長岡三夫らの貴重な詩書(「禁帯出」を含む)をご覧いただけます。また、現在も活躍中の詩人では、「現代詩人賞」受賞の木村迪夫、「H氏賞」受賞の佐々木安美、「丸山薫賞」受賞の菊地隆三ほか、注目される県内詩人たちの詩集を展示しています。どうぞ、多様で豊饒な山形県詩人たちの世界に触れてみてください。なお、展示中の蔵書は、一部の「禁帯出」本を除き、展示終了後、6月23日(火)より貸出します。】

























  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 08:31Comments(0)山形県詩人会関係

2015年04月25日

第14回山形県詩人会賞&秋亜綺羅氏の講演・朗読









 去る2015年4月18日(土)、山形市の山形グランドホテルで「平成27年度山形県詩人会総会」が開催された。また、総会後、「第14回山形県詩人会賞」の表彰式が行われ、さらに仙台市在住の詩人・秋亜綺羅氏の講演・朗読会、そして祝賀と懇親の会が開催された。

 まず、総会の報告から。

 山形県詩人会は、今年度2名の新入会員を迎え、58名となった。
 高橋英司氏(河北町在住)を会長、万里小路譲氏(鶴岡市在住)を副会長、松田達男氏(山形市在住)を事務局長とする体制は前年度と変更ないが、各理事の役割分担を明確にして活動の活性化を図ることにした。
 理事のひとりである高啓は、近江正人氏(新庄市在住)とともにイベント企画・実施の担当となった。
 そこで、高啓は総会に「山形県詩人の作品朗読会」の開催(6月中開催を想定)を提案し、承認された。これは、山形新聞に連載中の「やまがた名詩散歩」(執筆者の殆どが詩人会会員)と呼応する企画。


 次に、「第14回山形県詩人会賞」の表彰式について。

 今回の詩人会賞は、平成26年1月から12月までに発行された詩書(詩集や詩論集など)10作品を対象に、県詩人会会員の投票を参考として、理事会(対象詩集の作者を除く)で選考した。
 議論の結果、遠藤敦子「禳禱(いのり)」(土曜美術社出版販売)と久野雅幸「帽子の時間」(空とぶキリン社)のダブル受賞となった。
万里小路審査委員長のコメントから引用する。






 「遠藤敦子詩集『禳禱』は、三十年を超える詩作の総決算の書であると同時に、自らの半生と世の事象を祈りを込めて振り返った詩集。「禳」は神を祭り災いを除く意、「禱」は幸福を求めて祈る意。詩集のタイトルに暗示されているように、災いを祓う禳災と祈り願う祈祷に熱く、言葉を綴る営みの切実さがひしひしと伝わってくる詩集である。理不尽なことに対する怒りや弱者への憐れみもまた織りこまれ、他者へ向ける温かい眼差しと自己をみつめる視線は厳しく強靭である。」







 「久野雅幸詩集『帽子の時間』は、遠藤敦子詩集『禳禱』の切実で重い思念の世界とは対照的に、斬新で意表を突く発想が豊かな世界を切り拓く詩集。日頃、人間に使用される帽子という存在にスポットライトをあて、思いも寄らぬ内省の世界が涌き出る意外性とその愉楽は、しかし生きていることの孤独と悲しみに裏付けられている。また、ウイットとユーモアもまた軽やかなフットワークで醸成され、発見される時間のありようを追い求め紡いでゆくその表現力は卓越している。詩作における新たなアプローチをこの詩集に見て取ることができる。」

 「最後の絞り込みによって遠藤敦子詩集『禳禱』と久野雅幸詩集『帽子の時間』が残ったが、両者に優劣をつけがたく、この二作を本年度の山形県詩人会賞に決定した。」


 その後、秋亜綺羅氏による『ことばが先か、詩が先か』と題した講演と自作詩の朗読が行われた。

 秋亜綺羅氏は、宮城県の高校の演劇部員の合宿の講師を務めており、30人くらいの生徒と2日間一緒に過ごすとのこと。そのなかで交流する演劇部員たちのことばや行動・演戯を紹介しながら、次のようなことを述べた。
 「生まれたばかりの子とその子を抱く母の間にことばはないが、詩はあるのではないか・・・。
 夕焼けと自分との間に詩が生まれる。でも、それをことばにしようとしたときには詩が終わっている。詩を作りたいという想い、それはもうひとつの夕焼けを創ろうとして詩を書いている想いである。・・・自分なりの夕焼けを創ろうとして、詩人たちは詩を発表するのだと思う。
 ことばは道具に過ぎない。しかし、その道具は頭に入り込み、頭にとどまる。そこから、ことばは暴力にもなる危険なものだということがわかってくる。『ことばは事件そのもの』(寺山修司)ということがわかってくる。」
 「『どうすれば詩がうまくなる?』と訊かれたら、「詩はヘタでなくちゃ」と答える。私の朗読は叫ぶことが多い。それは、隣にいる女性を好きだと思っても私のことばが届かないから。ふたりの間には<現在>という巨大な壁がある。近くのひとにことばを伝えることができない。その巨大な壁をくぐり抜けるために現代詩は生まれた。だから私は叫ぶ・・・」
 講演に引き続き、秋亜綺羅氏は5編の作品が収録された小詩集「フランクフルト幻視」(この日のために印刷して参加者に配布してくれた)という詩集を、ロックやポップスの音楽にあわせて朗読した。
 普段は舞踏とのコラボレーションで朗読しているとのことである。


 祝賀と懇親の会では、受賞者のあいさつに続いて、遠藤敦子詩集については理事の井上達也氏(南陽市在住)が、久野雅幸詩集については近江正人氏が評価を述べた。
 みんなに少しアルコールが入ってくると、高橋英司氏がコメント者に自席から不規則発言で質問を浴びせたり、受賞者が講演者の講演内容の一部に異論を唱えたり、その異論に司会の高啓が異論を述べたりして、いつもの(「山形詩人ミーティング」のような)ざっくばらんな(酔っ払いの?)議論の会の雰囲気になっていった。
 秋亜綺羅氏は、異論に応えつつ、「宮城県詩人会では(祝賀会が)こんな議論の場になることはない(笑)」と感想を述べていた。
                                                                                                                                                                                                                                                                                 
 


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:16Comments(0)山形県詩人会関係

2015年03月28日

季刊「びーぐる」第26号、「山形詩人」87・88号








 ひさしぶりに、詩人としてのアリバイ証明を・・・・・


 季刊「びーぐる 詩の海へ」第26号(2015年1月20日)に、詩「抱擁論」を発表。

 「びーぐる」は一般書店でご注文を。









 「山形詩人」第87号(2014年11月20日)に、詩「午後の航行、その後の。」

 同第88号(2015年2月20日)に、詩「再生論」 を発表しています。


 「山形詩人」ご希望の方は「オーナーへメール」のボタンからメールにて連絡ください。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:38Comments(0)作品情報

2015年03月22日

東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その3

 東北芸術工科大学卒業・修了展(2015年2月10日~15日)の感想記。
 その3は、建築・環境デザインの作品について。







 と、そのまえに覗いたプロダクトデザインの作品全体についての感想を述べておきたい。
 上の写真がプロダクトデザイン作品の展示会場(体育館)。
 たくさんの来場者がいて、作品のまえで作者から説明を受けながら鑑賞している。この学科の学生たちはプレゼンの実習をこなしているからか、接客態度に好感が持て、説明も流暢である。 
 実際の製品化を念頭に企業とコラボした作品はもとより、全体としてコンセプトが商品化を前提とした現実的なものばかりだという印象である。この“現実化”は、今年度はやや顕著で、良く言えばデザイナーとしての実践教育が奏功しているということなのだろうが、悪く言えば小さくまとまっていて全体としてちょっと面白味に欠けたという印象を与える。このブログで取り上げたいと思わせられる作品に出会わなかった。
 また、以下に述べる建築・環境デザインやプロダクトデザイン、そして企画構想の作品(今年は観る時間がなかった)などについては、観客が作者に対してもっと批評的に感想を言い、作者と意見交換してもいいのではないかと思う。これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のものだからである。

 ということで、最後に建築・環境デザインの作品から。













 吉田百合絵「日はまた昇る ~50年の建築の物語~ 」
 2055年から2105年にかけて建てるピラミッドというコンセプト。「原発事故で放射能の影響を受け、鎖国した日本がもう一度再建するときの建築です。」とコメントされている。
 小説で物語(時代状況など)を書き、その物語のなかの建築を模型でデザインするという斬新な試みである。
上に述べた「これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のもの」という言葉を、ここですぐさま撤回しなければならない。
 平壌にこんな形の高層ホテルがあったかと思うが、「放射能の影響を受ける地上に住み続けるの?」とか、「人口減少が進む地震国で高層建築に拘る理由は?」などという突っ込みを寄せ付けない自立した作品である。










 古山紗帆「月と生活 ~地球のリズムに準ずる人間の暮らし~」
 限られた土地にコテージ風の住居を近接して設置し、そのいずれもから月の姿を眺められるように(そしておそらくは相互に家の中の様子は見えないように)配置した作品。「住民同士はドライな関係でありながら他者を感じることができる豊かな暮らし」の提案だという。
 関係意識についての観念を、月を媒介として建築・環境デザインに物質化したところがミソである。
「どの家からも富士山が見える」などというのなら解り易いが、月というのはようするに“ルナティック”なものなのだから、ここには幾許かの危うさや物狂おしさが孕まれているだろう。
 都会的な、というよりもヤッピー的な関係意識(への願望)はよく伝わってくる。しかし、「毎晩同じ月を眺めることで他者の存在を感じる」というのは、これが非日常的な時間を過ごす別荘地であるなら理解できるのだが、子育ても介護もしなければならない一般の住宅地についての提案であるとしたら、ちょっと異和を感じざるをない。
 とはいうものの、ひとまずはこのように関係意識や価値観をストレートに模型に形象化できることが、優れたデザイナーの要素であることは疑えない。
 もっとも、このデザインの場合は、個々の建物に月を眺めるための大きな窓をとっているが、他の建物からリビング等を覗かれないため、建物相互の位置取りや個々の建物における窓の取り方をいろいろと検討しているから、結果としては「ストレートに」形象化したということにはならないかもしれないが。













 鈴木いずみ「地方都市におけるストック利用の住まい方 ~廃病院のコンバージョン~」
 郡山市の太田記念病院という、実際に存在した病院の建物の再利用を提案する作品である。
 切実な課題に対する提案であり、「現実的」な作品だといえるが、「廃病院」という陰湿なイメージを払しょくして有効活用する(とくに住居として利用する)のはそれほど容易なことではない。
 作者は、この病院の上層階をシェアハウスにするということで比較的若い世代を引き込み、建物全体のイメージの刷新を図ろうとしている。  中層階は賃貸住宅にとの考え方だが、シェアハウスに人が入らないとこの賃貸部分を埋めることも難しいだろうから、シェアハウスの成否がキモになると思われる。
 模型では、シェアハウスの部分に談話スペースや図書室みたいなスペースを確保して居住空間としての魅力を創ろうとしているが、これがただの「寮」とどう違う雰囲気を醸し出せるのか、展示内容からは(つまり部屋割の空間構成からは)分からなかった。
 ついでに言うと、この建物の管理主体はどうで、維持費はどのくらいで、入居費用はそれぞれいくらくらいか、などが(郡山市の実態を踏まえて)示されるともっと面白かった。
 しかし、こうした地味で難しい現実的課題にチャレンジする学生がいるのは嬉しいことである。


 さて、今年は例年以上に鑑賞の時間が取れず、全体のごく一部しか観て回ることができなかった。
 とくに企画構想と映像についてはほとんど観ることができず、残念だった。
 卒業する学生の前途に幸多かれと祈念しつつ、擱筆する。(了)                                                                                   





 
 
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 14:32Comments(0)美術展

2015年03月12日

東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その2

 東北芸術工科大学卒業・修了展(2015年2月10日~15日)の感想記。
 その2は、版画、彫刻、工芸、テキスタイルの作品について。

 まずは、版画から。






  村上悠太「ぱじゃまんはしろたんがすき! しろたんはぱじゃまんがすき!」
  奥行きある構図と事物の立体的な描写が、ひとつの自立した仮構世界を産みだしている。
 アニメやSFに影響を受けた子ども時代をあからさまに保存しつつ、成長して初めて感受する世界の奥行き、それがもつエロス的魅力、そしてその世界を遠くまで歩いていこうとする者が抱く途方もない行路(=人生)への想い・・・、それらの錯綜した感懐が繊細に描き込まれている。








 秋庭麻里「石ヶ戸」
 どちらも水性木版で描かれた「イシゲド」という題の作品とこの「石ヶ戸」という題の作品が並べて展示されている。ここに掲げたのは「石ヶ戸」という作品の方である。
 作者は、多色刷り木版は大木や巨石との「会話」だという。グレーが基調の「大木」(倒木?)や「巨石」らしき物体に淡い紅系や橙系の模様が重ねられることで、それら「大木や巨石」が立体的な存在感を高め、まるで水底を移動する魚のようにも見えてくる。
 後ろの灰色系と手前の紅色・橙色系の重ね刷りが、描かれた物体に奥行きを与え、しかもアダジェットほどの速度で移動しているかのような気配を感じさせる。


 次は彫刻、工芸、テキスタイルの作品から・・・







 山本雄大「たとえ」
 木章(クスノキ)、木品(シナノキ)の木彫作品。
 巨大な角のある型動物の頭蓋骨を、上顎の部分から頭部の部分を中心に描いたかのような作品である。これを動物の骨格だと思って観察すると、細部までデザインが行き届いていてこのような未知の生物が存在したかのようなリアリティを感じるのだが、しかしその一方で、このように立てて展示されていると、角の部分が足のようにも見えて、じつに奇妙な生物(あるいは静物)に見えてくる。
 作者は彫刻において仮構されたリアリティに拘りつつも、そのリアリティを否定するような、というかこの作品が抽象的なオブジェであるかのような見せ方をしている。








 沼澤早紀「Cell」
 墓石に使われる黒御影の浮金石(うきがねいし)=福島県産の斑レイ岩の彫刻。
 頭部の大きな人間が複数くっついて(融合して)いるように見える。まるでシャム双生児の妊娠初期の胎児みたいな姿である。
 くぐもった姿勢あるいは異形の胎児のような形態と、この素材がもつ密度感=重力感、そしてこの素材の表面の荒削りさからくる非人工感が、内部生命の力動を感じさせる。
 このように地味で解釈の難しい作品をあえて卒業制作展に出品するというのは、なかなかのチャレンジだと思う。












 高木しず花「お食事こうでねえと土鍋」
 工芸コースの作品。・・・ユニークな形と彩色の土鍋たちである。
 蓋に江戸期の古地図を描いたもの、同心円の的を描いたもの、蓋の取手の部分が水道の蛇口になっているものなど、面白いデザインの土鍋たちが並んでいる。上の写真の手前から2つ目は、大きさの異なる4つの土鍋が並べて置いてあるようにみえるが、この4つはくっついているのである。
 日常で使用する土鍋としていちばんいいかなと思うのは、古地図を描いた土鍋。古地図のデザインがそのまま土鍋のデザインとして活かされていて、そこからなんとなく温かみを感じる。









 東海林緑「溶けるの、まって」
 器の中に凍って浮かんでいた植物をずっと見ていたくて、その形状をガラスで作成したという作品である。いくつか展示されていた作品のなかから、いちばん氷漬けっぽく見えるものの写真を上げた。
 凍った植物は、その氷が溶けるとしんなりする。凍結によって一時はなにか芯のようなものが通ったかのように凛とした美しさを発するのだが、実は凍ることですでに自らの核心部を台無しにされてしまっている。
 ガラス工芸の修得過程の実習作としてみればほほえましいものだが、これを自立した作品だとして見せられると意外にもけっこう複雑な障りに襲われる。













 高橋さとみ「スリップウェア大皿」
 「スリップウェア」とは、イギリスの日用雑貨に用いられる技法で、成型した器にクリーム状にした粘土で模様を描くものだという。
 これらの作品は、遠目からは一見民芸調の落ち着いたデザインの器にみえるが、近づいてよく紋様をみると、3作品ともこれがなかなか毒々しい。
 作者は、これを日用品または民芸品として製作したのか、それともオブジェとして製作したのか・・・と想いを巡らせてしまう。









 遠藤綾「Breath」
 「再生と循環」がテーマだというオブジェ。
 発想と形状は単純なのだが、ドラム缶から蔓のような触手が伸びる異様な形状に目をとめると、ついつい引き込まれてしまう。この黒色の触手が妙にリアリティをもって迫ってくる。
 この作者にとって、「再生」や「循環」は、物質の分子の変化という物理化学的な概念と、なにか力動的な同一性が形状や弾性をかえて生き延びていくという観念的な概念が接続されたものなのである。













 高橋由衣「糸世」
 “きづな”という題のオブジェ。
 半分くらいに割った卵の殻を、ヘビの鱗のように繋ぎ合わせて作られている。
 「食べられる命の存在を忘れずに尊び、また自身の生命の在り方を考えるきっかけになるよう制作した」とコメントが付されている。
 そこには、この大量の卵の殻をどこからもらったかの記載もあるが、実物としての質感は作品に活かしつつも、卵の殻はあくまでも「生命」それ自体ではなく、「生命」の“比喩”まで高められなければならないはずだ。(なぜなら、私たちが食べている卵は無精卵であって、独自の「生命」にはなりえないものだから。)
 なんとなく既視感はあるものの、それでもこの作品はそのボリュームも相俟って展示物としての存在感を放っている。










 永山実沙希「パーソナルスペース」
 洋式便器が置かれた狭い箱の空間。箱の内側には様々な画像の断片が貼り付けられ、便器の上の天井にはアニメーションが映写されている。パーソナルスペースとは「心理学の概念で、具体的には前後1mくらい、(中略)この空間は自分の縄張りのようなもので、この範囲に他人が入ってくると、緊張したり、不快感を覚えます」とのこと。
 個室の内側に写真やイラストなどの画像をびっしり貼り付けるインスタレーションやオブジェはしばしば見かける。言い換えれば、作品としてのオリジナリティがないということになる。
 しかし、この作品は、なぜか、既成の画像やイメージで埋め尽くされた個室の便器に座っている作者(または鑑賞者)の存在を(座ってみろと掲示があるにもかかわらず)想像させはしない。
 このオリジナリティなき「パーソナルスペース」は、それ自体が「パーソナルスペース」の不在を表現している。おそらく作者は無意識のうちに、「パーソナル」なスペースを離脱して、どこかに行ってしまっているのである。だから、観客に“ここに座ってみて”と呼びかけているのだ。

                                                                                                                                      


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 20:06Comments(0)美術展

2015年02月24日

東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その1

 2015年2月、毎年愉しみにしている東北芸術工科大学卒業・修了展(2月10日~15日)を観に出かけた。今年は思うように時間が取れず、1日だけの訪問で終わってしまったが、その感想を記す。
 なお、美術科の選抜作品は東京都美術館で展示される。(2月23日~27日)

 今年は、日本画コースの作品を皮切りに、洋画、版画、彫刻、テキスタイル、工芸、総合芸術を観たあと、プロダクトデザインと建築・環境デザインを覗き、最後にほんの少し映像を観た。
 さて、早速日本画の作品から感想を述べていきたい。
 まず、大学院の修了生の作品から。







 多田さやか「SHAMBHALA」
 2,280×10,800㎜の大作である。
 “シャンバラ”とは、チベットの伝説上の仏教王国の名前。仏教的世界観からこの世の諸事象を包摂的に描いているようでいて、それをどこかで冷たく突き放している。無常世界全体を抱擁するかのような大きな構えと個別事象に関するシニカルな批評との一見相矛盾する緊張関係が、この作品に魅力を与えている。
 多田さやかの作品については以前に学部卒業時の作品を取り上げたが、そのときの作品に比べると、曼荼羅的な構図を脱皮し、描写力も向上させている一方で、作図の巧みさが表面に出ている分だけ衝撃力が弱まっているという印象を受けた。

 次に学部卒業生の作品。






 久保文香「選んできたもの」
 少女マンガ的な女の像の胸の辺りに箱が埋まっていて、その中にキャラクター化されたニワトリ(またはニワトリのゆるキャラの着ぐるみを着た小人?)がいるのだが、そいつがマジンガーZを操縦しているみたいに操縦桿を握っている。操縦室を覗くと、中の壁に「愛」と書かれたプレートが貼ってある。
 絵画にオブジェが埋まっているという感じだが、そこには女(=自分?)が誰かに操縦されているという認識があり、またその操縦者(=支配者?)も曖昧な存在として感知されている。
 よく見かけそうなニワトリの着ぐるみが、この作品をたんに風俗的な衒いを狙ったものと看做させるかもしれない。しかし、作者がその病的な感覚を、少女マンガ趣味とゆるキャラと「愛」との、いわゆる“カワイイ”によって定着し、かつは高度に目眩まししているのだと捉えることもできる。








 大野菜々子「永遠の、夢のような幸福」
 2,100×3,300㎜の作品。
 山の稜線の向こうに異形の者たちが描かれている。作者は秋田県出身だというが、ナマハゲにトラウマを与えられているかのようだ。しかし、それが“永遠の、夢のような幸福”となって感じられるのはどうしたことか。
 それは、異境は山の向こうにあるものなのか、それとも山のこちら側にある、既に滅びつつある伝習のなかにあるものなのか。・・・全国でもっとも人口減少が深刻で、まさに“消滅しかかっている”秋田県に、衰退の追憶の美学を視る想いだ。









 清水悠生「紅壁」
 急峻な岩山に配置された山寺・立石寺を、紅葉の燃える季節に、対面する観光施設「山寺風雅の国」の辺りから見上げた構図である。しかし、その風景を実際に視たことのある人間なら(いや、よく考えれば視たことのない人間でも)、この絵画が写実であるようで写実ではないことに気づくだろう。
 なぜなら、紅葉の山はこんな風に紅色だけで彩られる訳がないからだ。するとこの作品の魅力は、写実的な振りをして、“紅色の壁”としての心象風景からきているように思われてくる。


 さて、今年の日本画コースの作品は、例年に比べてちょっと物足りなかった。
 その分、今年は、これまで日本画コースに比べて見劣りしてきた洋画コースに、相対的に魅力的な作品が多かったように感じた。
 その洋画コース、院生の修了作品から。






 浅野友里子「トチを食べる」
 「火のあるところ」と題されたシリーズ作品(食物を煮炊きする場面の手の動きの構成による作品群)から、「トチを食べる」の写真を上げた。
 食へのこだわりが、たくさんの木の実と器と黒い手のうごめきとして描かれている。これら多くの黒い手は伝承とその担い手を表現しているのだろうか。
 じぶんの記憶から言えば、橡の実は癖(アク)があって、腹の足しになるほどの量を食べる(実際に食べたのはトチ餅)と気持ちが悪くなった。煮炊きとは、つまりはこのアクの強さとの闘いなのだ。この作品は、その闘いのイメージを伝えてくる。














 佐藤彩絵「主観A」および「幻想なのでは?」
 「空気を認識するための絵画制作」と題されたシリーズ作品の中から、作品「主観A」と作品「幻想なのでは?」の写真をここに上げた。
 「主観A」は群衆が月に向かって動いていく姿を描き、「幻想なのでは?」は途切れ途切れのデジタル画像で映し出されたかのような人間たちの姿を描いている。
 デジタル時代(というよりデジタル画像によるイメージの時代)の曖昧で模糊とした環境認知や関係意識、そして集団に流されていく現在への異和感が、素朴な表現で定着されている。









 大森莉加「天」
 キャンバスに、タテに紐状の様々な色のシリコンを貼り付けて製作された作品。
 紐状のシリコンが、チューブから絞り出された絵の具のようにも視える。
 「いけにえとなった羊が天に召され、新たに誕生、生まれ変わるイメージ」だとキャプションがある。
 美術表現の技法と表現したいテーマがずれているような、合致しているような、奇妙な感覚を覚える。「羊」はやや漫画チックだが、その形象が記憶に残る。色とりどりの紐状のシリコンの質感も印象に残る。










 鉾建真貴子「いのちのカラフル」
 新聞紙を張り合わせた幕状の地に、アクリル、オイルパステル、クレヨンなどを用いて描かれている。
 作者は、「カラフルと死を同義に」捉えていたが、徐々に(自分の観念が)死から離れ始めたといい、それは生きる喜びを少しだけ見つけたからだ・・・とキャプションを付けている。
 生きる喜びを少しだけ見つけることができたのは、なぜだろうか。この山形の地で、この大学に学んだことがそれに少しでも寄与しているとしたら、なんとなく嬉しく思う。








 
 飯山蓮「MANABU」
 男の体と触れ合い、その美しさを感じていた瞬間を留め、定着することで永遠のものにしたいという欲求から描かれた作品。・・・「一瞬を今に留めたい」、「常に自分から見えている瞬間を感じながら作品を描いた」とキャプションにある。
 身体の物質性も性愛の情緒性も、その一瞬をけっして留めることはできない。その一瞬が美しければ美しいほど、切実であれば切実であるほど、である。
 老婆心ながら中高年に至った人生の先輩として一言・・・若い頃は加齢が恐ろしいものだし、加齢によって美しさが失われていくことが忌まわしく思われるのでもあるが、実際加齢してみると加齢者には加齢したからこその美しさとかけがえのなさが来迎する。お互いが時空を等速で飛行していれば、お互いの相対的な関係は維持されていくということもある。
 安心していいよ、蓮さん。あ、ただし、性愛の心とその対象は移ろうかもしれないけどね。









 小野木亜美「Babble」
 1,940×3,760mmの大画面に、手漉き和紙、雲竜紙、阿波和紙、アクリル、カラーインクをうまく組み合わせて金魚とアブクを描き、単純な構成のなかでも弛緩した場所のない作品を創り上げている。金魚の、あの気持ち悪い肌と腹の感触を、バブルで隠しつつなおも肉感的に伝えてくる。









 黒田萌惠「妖美そして余韻」
 ボッティチェリ「ビーナスの誕生」へのオマージュだという。
 「ビーナスの誕生」では、右側に女がいて中央の裸体のビーナスにピンクの布をかけようとしているが、この作品ではバレリーナがピンクのリボンを指し出している。
 印象的なのはこの右側のバレリーナの顔面である。涙を流しているような、あるいは顔面の絵の具が流れ落ちたような、汚れた顔をしている。
 いわゆる“ヘタウマ”?という感じの作品だが、踊り子たちの肉感的な描写や細部の彩色はなかなかに味わい深い。









 柏倉風馬「全てを内包し、波及する」
 「3.11」の記憶に拠って、人間と波との関係性を描いた作品。
 細密な表現で“波”のいくつかの表情を定着し、つまりはその波に向き合う人間の心理を描こうとしているように見える。
 左側にやや紅味を帯びた瘤のように描かれているのは、子を抱いた母親だろうか。
 この作品がいい意味で印象に引っ掛かるのは、襲い来る波の描かれ方が多様だからである。恐怖の対象であり理不尽な存在である津波はともすればひとつの想念で描かれかねないが、ここではその多様な表情が細かく観察され、あたかもそれが有機体であるあのように分析的に描かれている。








 山之内ほのか「かわいいおともだち」
 自分との対話を繰り返している少女の不気味さが描かれている。
 大小の可愛らしい(?)少女の大小の顔を重ねて描く手法と、腕の部分に用いられているような人の肉体の輪郭を顔の突起で構成する手法が、この不気味さを効果的に表現している。
 この種の悪意ある絵画にこそ手法の完成度が求められるが、この作品は、アクリルと油彩がよく調和し、作画や彩色の緻密さと相俟って一定の達成を感じさせる。









 吉田満智子「無意識の幾何学」
 薄青い背中が印象的である。
 “ただ循環するだけのように生きていく女たち”を描いていくうち、作者のなかのなにかが変化していったという。
 “ただ循環するだけのように生きていく女たち”というものが存在するという感受が、よく考えると特異的なものに思われてくる。
 日々を大衆(または庶民)として生き、死んでいく市井の者たちを普遍的な価値として語った吉本隆明の「大衆の原像」から遠く離れた感受性が、ひとまずここにある。
 作者のなかで変化していく“なにか”が、吉本的な原像にオーバーラップすることがあるのだろうか。それがあるような気がするのは、じぶんの願望なのだろうか。










 工藤さや「溢レル」
 2,273×3,636mmの画面に、臓器のイメージがびっしりと埋め込まれている。腸管のようなものの盛り上り具合の描写や縫われた痕や血の滲みの表現が巧みで、生々しい器官たちの感触をうまく定着させている。
 大きな才能を感じさせる作品だが、じぶんは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるタコ顔の亡霊海賊の首領を連想してしまった。ここにこの種の有機体的な形象を描く難しさがあるが、今後も果敢に挑戦してほしいと思う。








 中村ゆり「束の間の慰め」
 古い家具のパーツを寄せ集めた木製の戸棚のような構造物の中央部には窪みがあって、そこに鳥籠のようなものが傾いた状態で収められている。このオブジェが置かれたスペースの入り口には黒色の網のカーテンが下ろされていて、その網目からこのオブジェを眺めるという格好になる。
 ひどく懐かしい感覚と、けれどもそこには決して戻りたくないような感覚が相俟って、鑑賞者が自らこの作品に陰影を与える。そういう仕掛けがしてあると言ってもいい。網でこの構造物に近寄れないというのが絶妙なところである。

 ・・・次回へ続く。
                                                                                                       
                                                            
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:22Comments(0)美術展