2023年08月06日

やまがた現代詩ミーティング2023




山形県詩人会主催 【現代詩ミーティング 2023】開催のお知らせ

第1部文学講演会
「詩歌の現在―日本現代詩歌文学館から見えてくるもの―」
 講師: 豊 泉  豪 氏

(日本現代詩歌文学館・館長補佐、盛岡大学非常勤講師)

 日本現代詩歌文学館(写真)は1990年に岩手県北上市に開館。全国規模で現代の詩・短歌・俳句に関する資料を収集している文学館です。この館の理念と現状、そして同館の所蔵資料やデータから、日本の現代詩歌の現状をお話しいただきます。

第2部 参加者自由討議〝私の気になる現代詩〟
【報告1】「ありふれた日常の一場面から異化された別の風景へ連れていく作品」
      ―「ユリイカ」への投稿詩・鎌田尚実「スチール」が投げかけるもの―
                  報告者 山形県詩人会理事  柏倉千加志氏


【報告2】「子供視点」が気づかせる〝全く知らなかった自分〟
       ―谷川俊太郎の詩「はだか」を読んで―
                  報告者 山形県詩人会会員  松木 裕人氏


日 時 :2023年9月9日(土)14:00~16:50 (開場13:30)
会 場 :山形市 遊学館 3階「第二研修室」  参加費:無料  
申込み:山形県詩人会事務局(高啓(こうひらく)方)


【参加申込】
電子メールで9月4日まで下記アドレスに申し込みください。
 yamagata_poesy@yahoo.co.jp
電子メールを使用できない方は、下記に電話し、留守電に参加申込の旨と氏名・電話番号を録音してください。 023-645-4032
県立図書館駐車場(遊学館西側平面P及び文翔館東側立体P)をご利用の場合は、入館時と退館時に入口で駐車券を提出して電磁的処理を受けると2時間まで無料となります。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:02Comments(0)山形県詩人会関係

2023年07月17日

『非出世系県庁マンのブルース』の「はじめに」






高啓著『非出世系県庁マンのブルース』(高安書房)が各ネット書店(Amazon含む)で購入できるようになったことに伴い、本書の前書きにあたる「はじめに」をここに掲載します。


はじめに
                       
 凡人の回顧録、とりわけ仕事に関する回顧録というのは、ほとんど自慢か自虐になってしまう。だから他人は読む気がしないのだと、どこかで聴いた記憶がある。この書もまた、この轍から自由になれていないことだろう。
 山形県庁の日陰の一職員に過ぎなかった者の回顧録を、誰が進んで手に取ってくれるものだろうか、人を傷つけるかもしれないものを書き残す意義がほんとうにあるか、こんなものは所詮出世できなかった奴の恨み節ではないか・・・などと、幾度も幾度も刊行を逡巡した。
 しかし、このネガティヴな考えに対して、無理やりポジティヴな考えを対置してみる。
 ひとつは、山形県(または山形県政)における知られざるささやかな歴史を、幾許かは興味をもってもらえる形で、つまりは斜角から記録しておくこと。
 もうひとつは、県職員もしくは自治体職員あるいは「公務員」という存在に対する固定概念に、いささかなりとも放蕩と遊撃の作風(ベタな言葉で言うと〝ロマン〟ということになる)が差し込む風穴を開けておくということ。
 これらを、県組織、関係者及び著者自身の清濁を併せて描く輩は、そこここに何人もいるわけではないだろうという想いである。
 そもそも、これまで六冊も詩集を上梓してきた自意識過剰のじぶんである。この書によって、たとえ傲岸ときには醜悪でもあるわが身を晒すことになろうとも、じぶんが生きてきた証をこの世界に刻み付けておきたいという欲求に抗うことはできない。

 本書の各章は、時系列で並んでいるわけではない。未知の読者が手にとってくれたとき、少しは関心をもって読み進んでもらえるように、各章を独立した形で記述し、それを変化に富む順番で並べてみた。
 県政の裏面史に関心がある方は、「第Ⅰ章 秘密指令! 県費三五〇億円を防衛せよ。」、「第Ⅲ章 米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」、「第Ⅳ章 最後の紅花商人」を先にお読みいただきたい。行政事情を云々されるのに退屈される方は、第Ⅳ章から取りかかっていただけると読み進み易いかと思う。
 また、社会福祉に関心のある方は、「第Ⅱ章 ケースワーカーはキツネでござる」、「第Ⅴ章 介護事業所の勧誘ローラー作戦は許容さるべきか」からお読みいただきたい。
 さらに、組織の論理と自分の倫理や矜持のはざまで悩んでいる方には、「第Ⅲ章」と「第Ⅴ章」を紐解いていただきたい。
 そして、もし筆者の来し方に関心をもっていただけたなら、「第Ⅵ章 要領の悪い歩行について―山形県に採用されるまで―」に眼を通してくだされ。

 あっは。こんなことを言いながらも、書かれているのは自家撞着に満ちた事柄でもある。
 第Ⅰ章では国の検査をいかに誤魔化すかに必死になりながら、第Ⅴ章では社会福祉法人の不正を見つけ出すために腐心している。
 さらに、職業倫理をめぐる苦悩を語る一方で、「官官接待」や「食糧費問題」など(これらは厳しく指弾され二〇数年も前にほとんど解消されているが)県民からみればとんでもないことをしながら生きてきた軌跡を、ぬけぬけと描いているのである。
 こういう文章をなんと名づけたらいいのか、ロバート・ジョンソンには誠に申し訳ないが、じぶんはそれを「ブルース」というほかなかった。

 なお、「ささやかな歴史的事実」が書かれていると言ったが、記憶というものは、つねに/すでに、自己中心的に変成されているものだ。じぶんに都合よく記憶しているし、他人に知られたくないことはもちろん書かれていない。数字をはじめとして単純な錯誤記憶も少なからず存在することだろう。この回顧録はそういういい加減なものだということを、事前にご了承いただきたい。
 また、相談支援の業界では、個別ケースを不特定多数に紹介する際にはプライバシー保護のため事実内容を一部書き換えることがルールになっているが、ここでもそれに従っているものとして第Ⅱ章をお読みいただきたい。



ネット書店以外でのご注文については「高安書房」のサイトの「『非出世系県庁マンのブルース』のご注文はこちらへ」をご覧ください。


                                                                                                           

Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:41Comments(0)作品情報高安書房

2023年06月12日

高安書房の本が全国の書店で購入できるようになりました。



高安書房は「(株)地方・小出版流通センター」と契約しました。
これにより、同センターを介して大手取次(トーハン、日販など)から全国の書店に配本(ただし注文制)されることになりました。

なお、下記の書店には今週中に委託配本される予定です。

ジュンク堂(札幌店、弘前中三店、盛岡店、郡山店、大宮高島屋店、藤沢店、新潟店、大阪本店、難波店、三宮店、松山店、福岡店、池袋店、吉祥寺店)

丸善(丸の内本店、名古屋本店、松本店、京都本店、広島店)

МARUZEN&ジュンク堂 梅田店

紀伊國屋(札幌本店、新宿本店、梅田店)

喜久屋書店宇都宮店

ブックファースト新宿店

書店の皆さま、どうぞご注文ください。

一般読者の皆さまは「高安書房」のブログの「高安書房への発注方法」か「プロフィール」をご覧いただき電子メールで直接高安書房に申し込むか、お近くの書店(全国の殆どの書店が対象)に取寄せをご依頼ください。(取寄せをご依頼の際は「地方・小出版流通センター扱いで大手取次から取寄せできます」と店員さんにお伝えください。)

なお、高 啓の詩集をお求めの際は、ぜひ高安書房から直接ご購入ください。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:45Comments(0)高安書房

2023年04月09日

宇野重規著『日本の保守とリベラル』感想




 宇野重規著『日本の保守とリベラル―思考の座標軸を立て直す―』(中公選書 2023年)を読んだ。
 図書館から借りて未読のまま放置していたところ、返却期日が過ぎている、他の人からリクエストが入っているので早く返してくれ、と電話が来て、大急ぎで通読した。

 本書は、エドモンド・バークの議論に基づき、「保守主義」を「抽象的な理念に基づいて現実を根底から変革するのではなく、むしろ伝統のなかで培われた制度や慣習を重視し、そのような制度や慣習を通じて歴史的に形成された自由を発展させ、秩序ある漸進的改革を目指す思想や政治運動」と定義している。
 また、「リベラリズム」を「他者の恣意的な意志ではなく、自分自身の意志に従うという意味での自由の理念を中核に、寛容や正義の原則を重視し、多様な価値観を持つ諸個人が共に生きるための社会やその制度づくりを目指す思想や政治運動」と定義している。
 まずは、「保守主義」の定義が、「自由を発展させ」「漸進的改革を目指す」ものであるという点に注目したい。ここでは、「自由」が「歴史的に形成」されてきたものであるという観点、つまり先人たちが少しずつ「自由」を拡大してきた、その伝統を引き継いでいるのが「保守」であるという観点が重要である。
 
 本書は、日本における「保守本流」≒「保守リベラル」(石橋湛山―池田隼人―大平正芳―宮澤喜一―加藤紘一の「宏池会」の系譜)が、戦後の冷戦構造と経済成長の過程で育まれ、冷戦の終結及びバブル崩壊(それは宮澤政権の時期に重なる)によって終わったと述べる。このあと、「保守リベラル」の流れの一部は細川政権・村山政権に流れ込み、1990年代の一時期に「保守リベラルの時代」を形成する、とも。
 この視角から見れば、2000年以降の清和会とりわけ安倍晋三らはむしろ急進的で対立を産み出す擬似非的「保守」だったということになる。
 「保守」の概念が揺らいでいる現代において、本書は、まさに「思考軸を立て直す」格好の機会を与えてくれている。
 福沢諭吉、福田恆存、丸山眞男に関する章も有益だった。(これらは既存論文を嵌め込んだもののようだ。とくに丸山に関する章は丸山眞男論として独立した論考である。)
 なお、1979年に大平政権によって設置された9つの政策研究グループによる「大平総理の政策研究会」をめぐる記述、つまり「成熟社会」を巡って「リベラル保守」が日本社会の〝status quo〟(今そのままの状態=〝Japan As Number One〟と言われた時代のそれ)の維持を図ろうとして、保守主義(による社会統合)の新しい姿(経済成長を超える新たな日本人の生き方、社会や組織の在り方)を模索したことに関する記述(つまりその功罪)については大いに考えさせられた。

 印象に残ったのは、本書のなかで紹介されている村上泰亮、佐藤藤三郎、公文俊平の論文「脱『保革』時代の到来」(『中央公論』1977年2月号)の内容の一部。

 「保守主義とは本来、社会の変化の不可避性を承認しつつ、その一方で過去からの経験の蓄積を重視するものである。結果として「良き伝統」を保持するためには改革を厭わないという姿勢こそが保守主義の本質となる。これに対し革新主義は、理性が経験に先立ち真理を把握する力を持つと考え、あくまで理性の力を信頼するユートピア主義を志向する点に特徴があった。/このような保革本来のあり方に対し、「追いつくための近代化」を目指した日本の近代においては、状況がやや異なってくる。欧米をモデルとして近代化を進めた日本の場合、欧米の制度や文物を導入する指導層が「保守」となり、これを批判する側が「革新」となったのである。「追いつき型近代化」の現実化を担当し、そのために必要な妥協を行った「保守」が思想的・文化的な無原則性を批判されたのに対し、無原則的妥協に支えられた現実の変革を批判した「革新」は、あくまで目標とすべきユートピア的理念を固守した。いわば、保守が「保守的」手法によって現実を「革新」し、革新が「革新的理念」を「保守」するという役割分業を果たしたのである。結果として、日本の保守はついに保守主義としての思想を持ちえず、逆に革新は「正しくはあるが無力な」批判を続けることになったと村上らは指摘する。」

 このような見方は一面では当たっていそうな気がする。日本近代のいつのことを指して言っているのか、明治から昭和初期までということならまぁそうだろう。戦後の「政治の季節」(1960年代まで)をも含むと考えることもできるかもしれない。
 日本の保守が保守主義としての思想を持ち得なかったという指摘は確からしく思える。革新が「正しくはあるが無力」であったというのも、「地方の時代」を除けば大方はそのとおり。
 しかし、この見方は粗雑で一面的であることを頭に置いておこう。なぜなら、日本では若いころに「革新」的な志操を持った者が、やがて「保守」的な位置に収まっていくということ(いわば〝自然過程としての転向〟)が珍しくなかったからである。「革新」と「保守」は「役割分業」どころか密通していたのである。

 さて、私たちが現在目のあたりにしているのは、目を覆いたくなるような「保守」の劣化または欠損である。
 「保守」を名乗る自由民主党その他は、政治倫理と経済倫理の両面でモラルハザードの状態にあり、冷戦構造崩壊後の世界でなおも対米従属路線(宮台真司の用語で言えば「ケツなめ」路線)を盲目的にひた走っている。どこまでお目出度くアメリカに追従するのか際限がない。まるで洗脳された教祖にどこまでも縋り付くかのような自暴自棄路線または自虐路線である。
 また、福島の原子力災害によって「東日本壊滅」の危機を経験したにもかかわらず、あの事故以前の原発の耐用年数にかかる規範さえも撤廃して、既得権益に縋り付こうとしている。この学習能力・修正能力の欠如には愕然とする。
(註:「東日本壊滅」に関して。福島第1原発のメルトダウンさらにはチャイナシンドロームによる放射能汚染で福島第2原発までコントロール不能になる可能性があった。吉田昌郎所長の発言(政府事故調の調書)にその現実味が記載されている。)
 たしかに東西冷戦下においては、「非武装中立」論に対して「専守防衛」と「日米同盟」路線は「現実」的に見えたであろう。この場合、「保守」的であるとは「現実」的であるということだった。
 しかし、「台湾有事」に際して、米中対立の代理戦争をさせられそうな今日の状況下で、「敵基地攻撃能力」のための軍備増強をすることは、まさに「非現実」的で「自暴自棄」的な行為である。ここでは「保守」こそが〝夢をみている〟。
 NATOはなぜウクライナにロシア領内を攻撃できる武器を供与しないのか。ウクライナがロシア領内を本格的に攻撃すれば、ロシアに核兵器使用の格好の口実を与えることになるからだ。ロシアが核を使えば、緊張は格段に強まり、戦争がヨーロッパに拡大する危険が増大する。
 これを日本と中国になぞらえればどうか。日本やアメリカが中国領内を攻撃すれば、中国に核兵器使用の口実を与える。いきなり核兵器を使用せずとも、通常兵器で日本国内の原発を攻撃するという手もある。
 それに、台湾や日本の周辺(つまりアメリカ本土から遥かに遠い極東)で中国と戦争状態になった際に、アメリカが核兵器をもった大国を相手に、一蓮托生で日本をどこまでも守ってくれるなどという仮定を、どうしたら信じられるのか。
 アメリカは自国の本土から遠い土地でしか戦争をしない。嫌気がさせば自分は手を引けるところで、その国を戦争に引きずり込み、あるいは代理戦争をさせる。対中国戦略において、日本に戦争の片棒を担がせることで日本が衰亡しようとも、中国にある程度のダメージを負わせられればいいと踏んでいる。このような想定をしておくことが現実主義ということだろう。
 アメリカに対しては、「わが国には日本国憲法の戦争放棄という国是があり、申し訳ございませんが、これ以上あなた様にはお付き合いできません」という防衛線を確保しておくことが現実的であろう。それを自ら解釈改憲(集団的自衛権)し、国防の方針を転換(敵基地攻撃能力増強)させている。伝家の宝刀を自ら投げ捨てているのである。

 日本の自称「保守」は、いまや日本の平和(非戦)という伝統を破壊する「急進派」に変貌している。
 福沢諭吉に発する「リベラル」または「保守リベラル」の系譜を振り返りながら、「思考の座標軸を立て直す」ことが喫緊の課題である。





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:34Comments(0)批評・評論

2023年03月23日

出版業を始めるための必読書






 この春は暖かくなるのが早いですね。・・・・というか、毎年こんなことを言っているような気がします。「年ごとに、春と秋が短くなっているような・・・・」
 近所の個人宅庭の桜がほころび始めました。3月中に咲くのは初めてかもしれません。
 写真は白鳥の北帰行です。
 1週間ほど前、自宅近くから撮りました。この辺の上空を白鳥の群れが飛び回るのも珍しいような気がします。

 以下は高安書房のサイトにアップしたものと同じ内容です。
 高安書房のサイトは訪問する方が少ないので、こちらにも掲載させていただきます。





 岡部一郎・下村昭夫共著『出版社のつくり方読本』(2017年・出版メディアパル)と石橋毅史著『まっ直に本を売る―ラディカルな出版「直取引」の方法』(2016年・苦楽堂)を読んだ。
 わたくし高安書房店主のように、出版業の〝し〟の字もしらないままに出版業に手を出してしまった者は、どちらもその前に手にすべき必読の書だった。つまり、「必読の書」を読まずに手を付けてしまった(!)ということを知らしめられた。

 『出版社のつくり方読本』は、出版業というものがどんなものか、全体をコンパクトに整理して分かり易く解説しており、格好の出版業入門書だ。
 とくに出版した本をどう売るかという点で、素人の甘い考えを打ち砕いてくれる。そもそも、トーハン、日販、楽天ブックスネットワークなどの大手取次会社は駆け出し出版社など殆ど相手にもしてくれないのだという。

 ではどうするか。そこで参考になるのが、『まっ直に本を売る―ラディカルな出版「直取引」の方法』である。
 この本は出版社で営業をしていた経歴をもつ出版ライターが、自身の経験に基づく問題意識から取材した記事(『新文化』という出版業界関係の雑誌に連載したものかな)をまとめたものらしい。(この本はネットショップのhontoで注文したが、入荷できない旨のメールが来た。仕方なく、山形県立図書館を通じて所蔵のあった酒田市立図書館から借りて読んだ。ちなみに、このように地元の図書館で他の図書館の蔵書を取寄せて借りることができる。「相互貸出」というシステムである。)
 内容は「取引代行」という方法を導入した出版社「トランスビュー」の「トランスビュー方式」に関する紹介が中心になっているが、この本も出版業界の事情を知るうえでとても有益である。

 ところで、「トランスビュー方式」は、①書店からの注文に基づく配本(返本を減らすため)と、②書店の利益を確保するための低い掛け率(7割を切る)が大きな特徴である。出版社にとっては、掛け率やトランスビューの手数料等の関係で、いわゆる「取次」を通すのと比べて利益率が大していいわけではないが、①のシステム上、返本が少ない点が魅力である。(ただしトランスビューも一部取次を利用している。)
 「大沼デパート」の閉店にまつわる『さよならデパート』の著者であり、その出版元「スコップ出版」を運営する渡辺大輔氏に伺ったところ、同氏は「トランスビュー」と取次代行の契約をしているとのことだった。
 ただし、問題は「トランスビュー方式」では書店への卸値(つまり出版社の取り分、これを「正味」という)が定価の70%を切るうえに、いろいろと手数料の支払いを求められることだ。実際の正味は定価の60%か、その他の経費(荷造り料や送料)を勘案すれば出版社の得る額はそれ以下になるのではないだろうか。
 渡辺氏は自ら編集ソフトを操るうえに、表紙デザインも自分で作成しており、その分本の製作費を低く抑えているという。また、初版の部数もそれなりに増やして、1冊あたりの原価を低く抑えているという。

 高安書房の『非出世系県庁マンのブルース』は、こんな事情を何も知らずに初版500部の印刷。定価の決定にあたっても詳細な検討などしなかった。(-_-;
 共同通信社の書評に取り上げてもらえたので、その記事が掲載された地方紙を読んだ個人や(リクエストを受けたであろう)公立図書館及びそれらの客から取寄せ注文を受けた書店などからポツポツと注文が入ったが、共同通信社の配信がなかったとしたら、山形県外からの注文は殆どなかったのではないかと思う。
 やはり、「取引代行」か「地方・小出版流通センター」などの零細出版社を相手にしてくれる取次を利用しないと全国の読者にアクセスできないのか・・・。


 さて、ここからが悩ましいところである。
 じぶんは生活の糧を得るために出版業を始めたのではなかった。パートタイマーであるとはいえ、別の仕事(こっちがいまのとろは本業)ももっている。(本業の仕事はそれなりに神経を使うのでアタマの切り換えに苦労する。) そもそもは自著を出版したいというのが主たるモチベーションなのだ。
 こういう中途半端な人間が出版流通に首を突っ込んでもいいのか・・・、あるいはまた、高啓の著書以外に、毎年継続して出版していく企画をもっているのか(ということがトランスビューでも地方・小出版流通センターでも取引の条件になる)・・・・、という自身への疑問(というか〝たじろぎ〟)もある。
 さらにまた、「直販」こそ本を「売る」=「買う」という過程がそのまま読者=購入者とのコミュニケーションに他ならない関係だ。・・・このネット社会である。ネット(=高安書房のサイト)を通じて書店や読者への「直販」でやっていくという選択があって然るべきだし、数を売ることより身の丈にあったやり方でチマチマとやっていけばいいのではないか・・・などとも考えてしまう。

 ということで、この時点での中間的な結論はこうだ。
 本来、じぶんの(詩集以外の)著書として先に世に問おうとした(「書肆山田」から上梓しようとした)文学思想論集『切実なる批評』(仮題)を、まずはもう一度『非出世系県庁マンのブルース』と同じ形で世に送り出し、その反響を見てから考える・・・。
 『切実なる批評』(仮題)は、その内容からして『非出世系県庁マンのブルース』より僅かな読者(購買者)しか得られないだろうが、まさに〝身の丈に合った〟歩み方ではないか・・・。

 ただひとつ、非常に困っているのは、前にも書いたが、Amazon、楽天ブックス、ヨドバシなどの大手ネットショップのサイトに、取引がない(取り扱いできない)にも拘らず、高安書房の新刊のデータが掲載され、いざそれを注文しようとすると「販売休止中です」とか「取り扱いできません」などという主旨の表示がなされてしまうことだ。(これは実質的に販売の妨害行為になってしまっている。)
 「ヤフー知恵袋」にも『非出世系県庁マンのブルース』は書店で売っていないがどこかで買えないかという質問に、ネットショップで売っていないかと回答があり、売っていないと返答が来て、結論としてはどこでも売っていないという印象になる旨の記載がなされており、こちらがそれに気づいたときは回答期限が過ぎて記入ができなくなっている。ヤフー知恵袋に「非常に迷惑しているから再度回答を書き込みできるようにしてほしい」と訴えるも音沙汰がない状態である。

 まぁ、愚痴を延々と述べても詮無いこと。とりあえず今は次の出版に向けて取り組んでいこうと思う。

【追伸】
 『非出世系県庁マンのブルース』が地元の書店にない場合、高安書房のサイトをご覧いただき直接注文してください。書店からお求めになりたい場合は、「高安書房からより寄せできないか?」「高安書房はネットで検索すればサイトが見つかり、そこに書店との条件が記載されている」とお伝えください。











  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 14:34Comments(0)徒然に高安書房

2023年03月10日

軽部謙介著 『アフター・アベノミクス』




 軽部謙介著『アフター・アベノミクス―異形の経済政策はいかに変質したのか』(岩波新書・2022年12月刊)を読んだ。

 第二次安倍政権によって「異次元金融緩和」として始められた「アベノミクス」が「物価上昇率2%」という目標を達成できないまま、金融政策から「タガの外れた」財政出動へと変質していく過程が、日銀、財務省、自民党それぞれについて克明に描かれている。
 興味深く読んだのは、日銀内の「リフレ派」対「非リフレ派」の勢力争い。そして財務省内の財政規律の基本方針を巡る動き、すなわち「財政収支均衡」から「プライマリーバランス(PB)黒字化」へ目標を変更しようとする動きと、それがストップをかけられる過程の描写である。
また、日銀が急激な円安に対処するため長期金利の変動幅を拡大したことを「ステルス利上げ」としているところなど、利上げをしようにもできない事の深刻さを伝えてくる。
 本書は、関係者の動きを追うジャーナリスティックな著作ではあるが、じぶんのような金融政策に昏い者に金融政策や日銀の在りようを分かり易く説く解説書の役割も果たしている。

(註)「財政収支均衡」とは、政策的経費と国債の利払い費を税収で賄える状態。国債発行残高は増えない。(減りもしないが。) 「PB黒字化」とは、政策的経費は税収で賄えるが過去の国債の利払い費はさらなる国債の発行で賄うという状態。(国債残高は増え続ける。) なお、2022年度末の国債残高は1,029兆円。2023年度の予算額は過去最高となり「PB黒字化」さえ遥かに遠のいている。

 さて、ここで本書の内容紹介から少し外れる。
 国債を日銀が直接購入することは「財政ファイナンス」として禁じ手にされている。
 しかし、国債をいったんは民間銀行に購入させて、それを日銀が買い取るというオペレーションが際限もなく(まさに「異次元」の有り体で)続けられているのがいまの「アベノミクス」下の日本である。ようするに日銀券が政府からバラマキされている。これは「金融政策」の仮面を纏った「異次元の」「財政出動政策」である。
 この異常事態を合理化するのが、今や右は「自民党」支持者の一部から左は「れいわ新選組」支持者の一部までが嬉々として唱える「MMT」(近代貨幣理論)である。
端的に言えば、MMTとは、自国の通貨建てで国債を発行する限り、どんなに国債を発行しても国家はその返済に充てる貨幣を発行できる(つまり印刷すればいい)のだから債務不履行は起きないという理論だ。
じぶんには、これは〝理論〟というより〝信仰〟に見える。
 MMTは通貨を発行する<国家>の存在(それも確固たる国家)を前提にしている。
 また、財政出動の規律は、インフレーションの度合いに掛かっているとする。つまり、通貨の発行量が増えすぎてインフレが起こるが、そのインフレの程度がひどくなったときに通貨量を減らせばいいというものだ。
 われわれの「日本」という国家がいつまで確固たるものか、昨今のこの国の劣化(政治・経済・官僚機構・マスコミ等々の劣化)を見せられると、その破局の蓋然性は、30年以内に起きる確率が70~80%といわれている「南海トラフ巨大地震」かそれ以上に大きいと思われてくる。
 しかしそれ以前に、「タガが外れた財政出動」を止めようとしたとき、それが止められるのかという問題がある。増税を掲げる政治勢力、あるいは財政出動をそれなりに絞ろうとする政治勢力は選挙で敗北することが予想される。
 敗北する事がわかっていてそれをやろうとする政治勢力が現れるか。現れたとしても選挙で勢力を伸ばすことは叶わないだろう。ポピュリズムに傾斜した今の日本で肥大化した「財政出動」を絞ることなど、そもそもできそうにない。
 かように「アベノミクス」の罪は深い。「アベ政治」(というより「アベ的なるもの」あるいは「アベ族」と言うべきか)は何から何まで劣化させてしまった。
 いまや国債という「点滴」で生きているような<国家>が、強大かつ広大な隣国に「敵基地攻撃用ミサイル」を撃とうというのである。「アタマの中がお花畑」とはまさにこういうことを言うのだろう。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:54Comments(0)作品評

2023年02月16日

『非出世系県庁マンのブルース』のご注文はこちらへ




 ライブドアブログの「高安書房」のサイトにも書きましたが、「高安書房」のサイトは来訪者が少ないので、こちら「詩と批評」にも掲載させていただきます。

 『非出世系県庁マンのブルース』をグーグルで検索すると、honto、楽天ブックス、ヨドバシなどの通販サイトが上位に現れ、これらのサイトで注文しようとすると「取り扱いできません」「販売休止中です」などの表示がされています。
 また、Amazonで検索すると、中古品で4,620円、新品で5,346円などとべらぼうな値で売りに出されています。
 これまでも記してきたように、高安書房は取次と取引していないため、上記の通販サイトにはそもそも配本されていません。にも拘らずこれらのサイトに本書の情報が掲載されるのは、これらのサイトが出版書籍のデータを配信しているサイトから自動的にデータを読み込んで 表示するからだと思われます。

 高安書房へのご注文は、本サイトに記載した「高安書房への発注方法について」をご覧いただき、直接電子メールまたはFAXで御注文いただくか、ご利用される書店(実店舗)へ高安書房からの取り寄せを申し込んでください。

 直接申込の場合は、定価1,800円(消費税はいただきません。送料は無料。代金の郵便振替または口座振込の手数料は購入者負担)です。  

 書店からのご注文については、1冊の場合・定価1,800円×0.8=1,440円、2冊以上は1冊目から1冊につき×0.75=1,350円(消費税はいただきません。送料は無料。代金の郵便振替または口座振込の手数料は書店さま負担。2冊目以降は返品可。返品の送料は書店さま負担。)でお送りさせていただきます。(消費者が書店から購入する場合は消費税が加算されて1,980円になります。)

 なお、山形県内の書店には「山形県教科書供給所」から配本されますので、同供給所にお問い合わせください。もちろん、高安書房と直接お取引いただければなお幸いです。

 写真は、天童市の天童高原スキー場。この日は子どものリフト代が無料だったからか、駐車場が満杯に近い結構な賑わいでした。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 15:16Comments(0)作品情報高安書房