2015年02月24日

東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その1

 2015年2月、毎年愉しみにしている東北芸術工科大学卒業・修了展(2月10日~15日)を観に出かけた。今年は思うように時間が取れず、1日だけの訪問で終わってしまったが、その感想を記す。
 なお、美術科の選抜作品は東京都美術館で展示される。(2月23日~27日)

 今年は、日本画コースの作品を皮切りに、洋画、版画、彫刻、テキスタイル、工芸、総合芸術を観たあと、プロダクトデザインと建築・環境デザインを覗き、最後にほんの少し映像を観た。
 さて、早速日本画の作品から感想を述べていきたい。
 まず、大学院の修了生の作品から。







 多田さやか「SHAMBHALA」
 2,280×10,800㎜の大作である。
 “シャンバラ”とは、チベットの伝説上の仏教王国の名前。仏教的世界観からこの世の諸事象を包摂的に描いているようでいて、それをどこかで冷たく突き放している。無常世界全体を抱擁するかのような大きな構えと個別事象に関するシニカルな批評との一見相矛盾する緊張関係が、この作品に魅力を与えている。
 多田さやかの作品については以前に学部卒業時の作品を取り上げたが、そのときの作品に比べると、曼荼羅的な構図を脱皮し、描写力も向上させている一方で、作図の巧みさが表面に出ている分だけ衝撃力が弱まっているという印象を受けた。

 次に学部卒業生の作品。






 久保文香「選んできたもの」
 少女マンガ的な女の像の胸の辺りに箱が埋まっていて、その中にキャラクター化されたニワトリ(またはニワトリのゆるキャラの着ぐるみを着た小人?)がいるのだが、そいつがマジンガーZを操縦しているみたいに操縦桿を握っている。操縦室を覗くと、中の壁に「愛」と書かれたプレートが貼ってある。
 絵画にオブジェが埋まっているという感じだが、そこには女(=自分?)が誰かに操縦されているという認識があり、またその操縦者(=支配者?)も曖昧な存在として感知されている。
 よく見かけそうなニワトリの着ぐるみが、この作品をたんに風俗的な衒いを狙ったものと看做させるかもしれない。しかし、作者がその病的な感覚を、少女マンガ趣味とゆるキャラと「愛」との、いわゆる“カワイイ”によって定着し、かつは高度に目眩まししているのだと捉えることもできる。








 大野菜々子「永遠の、夢のような幸福」
 2,100×3,300㎜の作品。
 山の稜線の向こうに異形の者たちが描かれている。作者は秋田県出身だというが、ナマハゲにトラウマを与えられているかのようだ。しかし、それが“永遠の、夢のような幸福”となって感じられるのはどうしたことか。
 それは、異境は山の向こうにあるものなのか、それとも山のこちら側にある、既に滅びつつある伝習のなかにあるものなのか。・・・全国でもっとも人口減少が深刻で、まさに“消滅しかかっている”秋田県に、衰退の追憶の美学を視る想いだ。









 清水悠生「紅壁」
 急峻な岩山に配置された山寺・立石寺を、紅葉の燃える季節に、対面する観光施設「山寺風雅の国」の辺りから見上げた構図である。しかし、その風景を実際に視たことのある人間なら(いや、よく考えれば視たことのない人間でも)、この絵画が写実であるようで写実ではないことに気づくだろう。
 なぜなら、紅葉の山はこんな風に紅色だけで彩られる訳がないからだ。するとこの作品の魅力は、写実的な振りをして、“紅色の壁”としての心象風景からきているように思われてくる。


 さて、今年の日本画コースの作品は、例年に比べてちょっと物足りなかった。
 その分、今年は、これまで日本画コースに比べて見劣りしてきた洋画コースに、相対的に魅力的な作品が多かったように感じた。
 その洋画コース、院生の修了作品から。






 浅野友里子「トチを食べる」
 「火のあるところ」と題されたシリーズ作品(食物を煮炊きする場面の手の動きの構成による作品群)から、「トチを食べる」の写真を上げた。
 食へのこだわりが、たくさんの木の実と器と黒い手のうごめきとして描かれている。これら多くの黒い手は伝承とその担い手を表現しているのだろうか。
 じぶんの記憶から言えば、橡の実は癖(アク)があって、腹の足しになるほどの量を食べる(実際に食べたのはトチ餅)と気持ちが悪くなった。煮炊きとは、つまりはこのアクの強さとの闘いなのだ。この作品は、その闘いのイメージを伝えてくる。














 佐藤彩絵「主観A」および「幻想なのでは?」
 「空気を認識するための絵画制作」と題されたシリーズ作品の中から、作品「主観A」と作品「幻想なのでは?」の写真をここに上げた。
 「主観A」は群衆が月に向かって動いていく姿を描き、「幻想なのでは?」は途切れ途切れのデジタル画像で映し出されたかのような人間たちの姿を描いている。
 デジタル時代(というよりデジタル画像によるイメージの時代)の曖昧で模糊とした環境認知や関係意識、そして集団に流されていく現在への異和感が、素朴な表現で定着されている。









 大森莉加「天」
 キャンバスに、タテに紐状の様々な色のシリコンを貼り付けて製作された作品。
 紐状のシリコンが、チューブから絞り出された絵の具のようにも視える。
 「いけにえとなった羊が天に召され、新たに誕生、生まれ変わるイメージ」だとキャプションがある。
 美術表現の技法と表現したいテーマがずれているような、合致しているような、奇妙な感覚を覚える。「羊」はやや漫画チックだが、その形象が記憶に残る。色とりどりの紐状のシリコンの質感も印象に残る。










 鉾建真貴子「いのちのカラフル」
 新聞紙を張り合わせた幕状の地に、アクリル、オイルパステル、クレヨンなどを用いて描かれている。
 作者は、「カラフルと死を同義に」捉えていたが、徐々に(自分の観念が)死から離れ始めたといい、それは生きる喜びを少しだけ見つけたからだ・・・とキャプションを付けている。
 生きる喜びを少しだけ見つけることができたのは、なぜだろうか。この山形の地で、この大学に学んだことがそれに少しでも寄与しているとしたら、なんとなく嬉しく思う。








 
 飯山蓮「MANABU」
 男の体と触れ合い、その美しさを感じていた瞬間を留め、定着することで永遠のものにしたいという欲求から描かれた作品。・・・「一瞬を今に留めたい」、「常に自分から見えている瞬間を感じながら作品を描いた」とキャプションにある。
 身体の物質性も性愛の情緒性も、その一瞬をけっして留めることはできない。その一瞬が美しければ美しいほど、切実であれば切実であるほど、である。
 老婆心ながら中高年に至った人生の先輩として一言・・・若い頃は加齢が恐ろしいものだし、加齢によって美しさが失われていくことが忌まわしく思われるのでもあるが、実際加齢してみると加齢者には加齢したからこその美しさとかけがえのなさが来迎する。お互いが時空を等速で飛行していれば、お互いの相対的な関係は維持されていくということもある。
 安心していいよ、蓮さん。あ、ただし、性愛の心とその対象は移ろうかもしれないけどね。









 小野木亜美「Babble」
 1,940×3,760mmの大画面に、手漉き和紙、雲竜紙、阿波和紙、アクリル、カラーインクをうまく組み合わせて金魚とアブクを描き、単純な構成のなかでも弛緩した場所のない作品を創り上げている。金魚の、あの気持ち悪い肌と腹の感触を、バブルで隠しつつなおも肉感的に伝えてくる。









 黒田萌惠「妖美そして余韻」
 ボッティチェリ「ビーナスの誕生」へのオマージュだという。
 「ビーナスの誕生」では、右側に女がいて中央の裸体のビーナスにピンクの布をかけようとしているが、この作品ではバレリーナがピンクのリボンを指し出している。
 印象的なのはこの右側のバレリーナの顔面である。涙を流しているような、あるいは顔面の絵の具が流れ落ちたような、汚れた顔をしている。
 いわゆる“ヘタウマ”?という感じの作品だが、踊り子たちの肉感的な描写や細部の彩色はなかなかに味わい深い。









 柏倉風馬「全てを内包し、波及する」
 「3.11」の記憶に拠って、人間と波との関係性を描いた作品。
 細密な表現で“波”のいくつかの表情を定着し、つまりはその波に向き合う人間の心理を描こうとしているように見える。
 左側にやや紅味を帯びた瘤のように描かれているのは、子を抱いた母親だろうか。
 この作品がいい意味で印象に引っ掛かるのは、襲い来る波の描かれ方が多様だからである。恐怖の対象であり理不尽な存在である津波はともすればひとつの想念で描かれかねないが、ここではその多様な表情が細かく観察され、あたかもそれが有機体であるあのように分析的に描かれている。








 山之内ほのか「かわいいおともだち」
 自分との対話を繰り返している少女の不気味さが描かれている。
 大小の可愛らしい(?)少女の大小の顔を重ねて描く手法と、腕の部分に用いられているような人の肉体の輪郭を顔の突起で構成する手法が、この不気味さを効果的に表現している。
 この種の悪意ある絵画にこそ手法の完成度が求められるが、この作品は、アクリルと油彩がよく調和し、作画や彩色の緻密さと相俟って一定の達成を感じさせる。









 吉田満智子「無意識の幾何学」
 薄青い背中が印象的である。
 “ただ循環するだけのように生きていく女たち”を描いていくうち、作者のなかのなにかが変化していったという。
 “ただ循環するだけのように生きていく女たち”というものが存在するという感受が、よく考えると特異的なものに思われてくる。
 日々を大衆(または庶民)として生き、死んでいく市井の者たちを普遍的な価値として語った吉本隆明の「大衆の原像」から遠く離れた感受性が、ひとまずここにある。
 作者のなかで変化していく“なにか”が、吉本的な原像にオーバーラップすることがあるのだろうか。それがあるような気がするのは、じぶんの願望なのだろうか。










 工藤さや「溢レル」
 2,273×3,636mmの画面に、臓器のイメージがびっしりと埋め込まれている。腸管のようなものの盛り上り具合の描写や縫われた痕や血の滲みの表現が巧みで、生々しい器官たちの感触をうまく定着させている。
 大きな才能を感じさせる作品だが、じぶんは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるタコ顔の亡霊海賊の首領を連想してしまった。ここにこの種の有機体的な形象を描く難しさがあるが、今後も果敢に挑戦してほしいと思う。








 中村ゆり「束の間の慰め」
 古い家具のパーツを寄せ集めた木製の戸棚のような構造物の中央部には窪みがあって、そこに鳥籠のようなものが傾いた状態で収められている。このオブジェが置かれたスペースの入り口には黒色の網のカーテンが下ろされていて、その網目からこのオブジェを眺めるという格好になる。
 ひどく懐かしい感覚と、けれどもそこには決して戻りたくないような感覚が相俟って、鑑賞者が自らこの作品に陰影を与える。そういう仕掛けがしてあると言ってもいい。網でこの構造物に近寄れないというのが絶妙なところである。

 ・・・次回へ続く。
                                                                                                       
                                                            


同じカテゴリー(美術展)の記事画像
東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想その2
東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想
東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その3
東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その2
ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その2)
ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その1)
同じカテゴリー(美術展)の記事
 東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想その2 (2017-03-19 11:35)
 東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想 (2017-03-06 09:26)
 東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その3 (2015-03-22 14:32)
 東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その2 (2015-03-12 20:06)
 ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その2) (2014-09-01 19:26)
 ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その1) (2014-08-29 00:57)

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:22│Comments(0)美術展
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。