2014年03月08日

東北芸術工科大学卒業制作展2014 感想その3



 次は洋画コースの大学院修了生の作品から。




 畑友紀子「ワンダフルニッポン」(油彩、アキーラ)
 アキーラという絵具のどぎつい発色が効果的に使われ、墓前の夫婦写真、「祝・出征」と幕を付けて走る汽車、ゼロ戦、人間魚雷などに混じって、初音ミクやガンダムも配置されている。
 






 二枚目の画像は、「昭和の終わり」と題された作品。人物や事物の配置としては、こちらの方がいっとう成功している。あの<昭和>が、まさに空気の匂いや肌の感触として再帰してくる。






 三枚目の画像については題名を失念したが、これも見事な構図。泥沼のタンク(の死者)と空飛ぶ日の丸三輪車(のお坊っちゃん)が、歴史と歴史修正主義者を象徴しているかのようにも見える。






 四枚目は「依存母子」という題で、娘の背中のランドセルから母親が乗り出してくる辺りの構図はちょっと石田徹也を想起させるが、スクール水着と朝顔の鉢(夏休みの観察記録の宿題?)がじつにえぐい。

 展示作品リストに記載された作家のコメントは次のように語る。
 「私は幼少期からずっと社会に対して強い違和感があった。だからこそ周囲の社会に興味を持ち、『自分の目から見た社会』を描き出すことで自分と折り合いをつけようとした。しかし美しい風景を美しく描くように絶望や孤独を暗い色で描いた所で、それは人にとって直視したくない汚らわしいものがそこに佇むだけで、多くの人の心に響いたり、足を止めて貰うことなど出来なかった。だから私は姿に見合わない甘い蜜や擬態で獲物を引き付ける食虫植物のように、自分の現実から孤立した社会を不必要に明るい、まるで子供の頃に見た夢の様な突き抜けた色彩で描くことこそが相応しいのだと考えた。擬態した絵画は鑑賞者の目を介して拡散し、社会に寄生する。」
 ここで面白いのは、作者が「自分が現実の社会から孤立している」のではなく「社会が自分の現実から孤立している」と述べていることである。このことばを受けて、「畑さん、ここは言い間違いですよね?」と突っ込もうとして、ふと立ち止まる。ここに「擬態」(つまり<過去>の批評的引用)として描かれた構図と図式は、むしろまさに今ここにある社会の写実画であり、孤立している(=異常である)のは作者の方ではなく、この社会の方ではないのか。・・・安部政権の現実を鑑みるとき、この世界描写が「予言だった」とならないことを祈念するばかりである。








 高橋洸平「二人の作業員」
 この作家は「境界線と人々」を研究テーマとしている。その作品は、円や直線が引かれた紙(地面)に人形を配してジオラマを作成し、それを絵に描くという手法で制作される。
 「越境」と題された作品では、まっすぐに引かれた線を、それが恰も国境線であるかのように荷物を抱えた人々(人形)が跨ぎ越そうとする瞬間が描かれ(その帽子や衣服や荷物の形状に第二次大戦時のヨーロッパを想起させられる)、「二人の作業員」(上記画像)では、放射線防護服を着た作業員が円のなかで熊の縫いぐるみのようなものにガイガーカウンターをかざしている姿が定着されている。
ジオラマだけではジオラマに過ぎないが、それが絵画に変わると不思議にも映画的な(つまり時間的な)効果が現われる。それは三次元が二次元化されることによって、なのだろうか。








 山口香織「Rosalia」
 縦1m×横2m以上のパネルに、油彩で昆虫の姿がリアルに描かれている。作者は「日本美術解剖学会」会員だという。昆虫が持つ体の構造の微細な形状やその容姿に驚嘆しながら、それを大画面に絵画として再現する営為・・・。この種の絵画作品に打たれるのは、じぶんなどには到底ついていけないその情熱と根気に圧倒されるからなのだろうか。とすれば、これは写実的な絵画のようにみえながら、もっとも抽象的なそれなのかもしれない。


 以下は学部卒業生の作品。





 齋藤翔太「爆誕」
 縦1.8m×横5.4mのパネルに、タイルエマルナ、水性塗料、水性スプレーで、誕生しつつある宇宙のようなモノクロの世界が描かれている。(「タイルエマルナ」はアクリル樹脂系複層塗材の商品名。)
 「誕生しつつある宇宙」(?)のなかの星々(?)がもし真ん丸に描かれていたとしたら、「ニュートン」みたいな雑誌の挿絵に過ぎないものに見えてしまうが、この作品ではそれが卵型に造形されていることで自立した作品として迫ってくる。








 稲葉萌南「苔の生すまで
 縦1.9m×横3.2mのキャンバスに描かれた“泳ぐ頭部たち”である。
 表情、顔色、目線などからオカルト的な印象を受けるが、胴体から切り離された頭部たちが胴体にくっ付いていたころを思いながら恨めしく漂っているのか、それとももともとこのような存在として生を受けた連中がただ根性悪そうに泳いでいるのか、そのどちらとも思えるところが面白い。そして、髪の毛を藻のように描いているところが、この作品のミソだと思える。













 條野千里「ある日の自室」「知人と過ごす時間」
 美術史に疎いくせに知ったかぶりして言えば、“ここで作者がやろうとしていることは全部ピカソがやってしまったことだ”などと嘯くことになるが、しかし、よく観るとこの作品には容易でないところがある。
 「知人と過ごす時間」は、たぶん知人と一緒にお茶かお酒を飲んでいるところ。「ある日の自室」は、まさに自室で寝っ転がっているところを描いたものだろう。知人と談笑しながらお茶する行為が、この作者には襲い来るキュービックな暴力性として感受される。そして、関係に疲れて自室で寛いでいると、そんな自分の身体は欠損を抱えた異形に映り、腹からはなにか訳のわからない塊が突起してくる。この作家にとっては、日常がこのように描かれなければならないものとしてやってくる。・・・そう思うと、ピカソのエピゴーネンだと看做されるリスクを取ってでもこの作風を選択しなければならなかった理由が、少し伝わってくる。



 次回は、工芸、テキスタイル、総合芸術コースの作品について。
                                                                                                                                                                                           


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Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:02│Comments(0)美術展
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