2008年05月12日

公演 I’ll be 〜終わってたまるか

公演 I’ll be 〜終わってたまるか

 宇都宮の劇団「It’s secret !」の公演「I’ll be 〜終わってたまるか〜」(作・片岡健、演出・片岡友美子)を観た。

 この劇団は旗揚げから8年、公演は今回が20作目だという。
 私は、この2年半ほどで7作を連続して観ている。
 昨年度は1年間に4公演(うちオリジナル戯曲によるもの3作)も打ち、その精力的な活動に脱帽したが、さすがに疲れたので今年度は2回の公演にとどめる計画という。
 そりゃそうでしょう・・・と思いきや、地元の小学校の演劇公演を指導するなど地域活動をも引き受けながら準備してきたこの公演は、自らハードルを上げての新たな挑戦となった。

 その挑戦とは、主役の「和子」(女優)と「幽霊」(男優)を、ダブル・キャストとして2パターンの配役を組み、1日に両パターン各1回の計2回上演するというもの。
 しかも、各パターンで「和子」役を演じる女優の“みーこ”と“渡辺やす子”は、もうひとつのパターンでは脇役の「さくら」を演じる。

 組合せの違う配役で臨むふたつのステージの、相互の変化や緊張関係が見どころの芝居である。
 ただし、私はそのうちの1ステージ(作者の片岡健が「幽霊」を演じ、みーこが「和子」を演じる配役)しか見ることができなかった。だから、この芝居についてなにか書いたとしても、それはまだ半分を見ただけでものを言うことになってしまうような気もする。
 だが、と同時に、芝居を一期一会のものであると見做せば、そこで観客の観たものが、その観客にとっての、その芝居の全てということでもある。
 そう考えると、このようなダブル・キャストによる公演は、観客に見比べてもらいたいという以上に、劇団員相互にとっての意味をもつものだと考えられる。

 さて、というのも、7回目のシークレットの舞台は、まずその印象を率直にいうなら、それはあの厄介な“成熟”を感じさせる舞台であった。
 シークレットが、その中心的な役者のひとり、片岡健の作を上演するのは初めてのようだが(つまり、これは片岡の“作家デビュー作”なのだが)、そこで展開される舞台構成はこれまでのこの劇団の芝居に共通した構造をもっており、しかも役者たちはある種の成熟を体現しているようにもみえた。

 “成熟”というとき、その意味するものは、大きく言ってふたつある。
 ひとつは、役者の演技がよく訓練され、その個性がうまく役柄として体現されていて、観る者にしっかりした身体性をもって伝わるという意味。
 この意味では、いままでの公演のなかで、各役者の輪郭がいちばんはっきりしていて、それぞれの役者の身体性がビビッドに伝わってくるような気がした。
 よく稽古してきたことが伝わるし、初演当日も気迫の籠もった演戯を見せてくれた。とくに女優たちには存在感と迫力があった。
 また、舞台構成についていえば、この劇団の芝居には、しばしば、役者ふたり(ときどき三人)の掛け合いの場面が複数設定され、それらの場面を入れ替え、繰り返しながら筋が進んでいくという基本構造が存在するのだが、それが、ちょうどモダンジャズで言う「ビバップ」における各奏者の独奏のアドリブのように、途中で各役者がその個性を表出するシーンとなっていること。このパターンが、よく見て取れた。

 しかし、“成熟”にはもうひとつの側面がある。
 それは、芝居の展開あるいは表現内容の多様性や可塑性が、いわば観客の既存の知見からほぼ予想のつく形で把握され、観る者に安心と理解への自信、そしてやがては納得と退屈をもたらすものとして看取されるという面だ。
 ビバップという形式が、自由なアドリブを多用しながらも予測可能な逸脱の範囲内に収まっていることで聴き手に安心して受け入れられるように、馴染んだ役者ののびやかな演戯は心地よいものだが、同時にまた、新たな展開を期待する観客にとっては、それがじつに型に嵌ったものに思われ、やがては魅力のないものに視えてくる。
役者・劇団員の加齢あるいは経験の積み重ねと観客の側の慣れ・・・こうしたところからくる関係の「成熟」は、アマチュア劇団にとって避けられないものでもあるだろう。
 だから、それをズラしたり、裏切ったりしていく意識的な方法論が、より切実になってくるような気がする。
ようするに、他者(観客や外部批評)による舞台の客観化と自己批評による対自化、それが切実に思われる段階に、この劇団はもう到達しているのだ。
 おそらく、劇団員各自が意識したかどうかに関わらず、この変則的なダブル・キャストの公演を選択したことで、彼らは有無を言わせず自己批評(言葉にならないものも含んで)を呼び込むことになるだろう。


 さて、私がひっかかったのは、この作品のクライマックス、つまり、主役の和子が、これまでアイドルのコンサートのバックバンドに、予め録音されているピアノ演奏の“当て振り”役として雇われ、弾く真似をしていただけだった自分の殻を脱ぎ去って、ひとりステージに立ち、「ほんとうに演奏する」シーンだ。
 舞台奥の暗幕が上がって、そこにこの場面まで大切に隠されてきたグランドピアノが現れたとき、目の悪いじぶんにはそれが本物に視えたのだ。しかし、ピアノは大道具がベニヤ板かなにかで工作した紛い物で、「ほんとうに演奏する」シーンの演戯こそがまさに“当て振り”なのだ。
 舞台の制作者は、なぜここに本物のピアノを持ち込まず、わざわざ苦労してレプリカを自作する道を選んだのか・・・グランドピアノを借りられなければ、アップライト・ピアノでもよさそうなものではないか。
 これでは、「ほんとうに演奏する」シーンなのに、どうやったって「ほんとうに演奏する」ことなど不可能である。・・・このビルト・インされたジレンマ!あるいは自家撞着!

 ・・・・あっは。

 しかし、ひょっとして・・・と、こうも思う。

 この、一見して無駄な労力、逆説的でかつは内向する陰気な情熱・・・これこそが、こっそりと自己批評を内蔵しているのかもしれない、と。




 なお、この芝居は、5月17日(土)と18日(日)の2日間であと4回の公演を残している。
 詳しくは劇団「It’s secret !」のサイトを参照されたい。                                                                                                                                        





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Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:42│Comments(0)劇評
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