2023年02月12日

山田兼士さんへの手紙




 「日本現代詩人会会報」169号(2023年1月)で、高階杞一さんによる故・山田兼士さんの追悼文を読んで、山田さんが昨年12月6日に亡くなったこと(享年69)を知った。
 山田さんとはお互いに詩集を贈り合っただけで、お会いしたこともメールや電話でのやり取りをしたこともなかったが、山田さんの詩集についていつかは何か書かなければと、ずっと気になっていた。病気から回復されたと聞いていたので、こんなに早く逝ってしまわれるとは思ってもみなかった。

 山田さんは細見和之さんと季刊詩誌『びーぐる―詩の海へ』に連載していた「対論・この詩集を読め」で、高啓の『女のいない七月』を取り上げてくれた。(2012年4月の第15号掲載。のち、単行本『対論Ⅱ・この詩集を読め・2012~2015』(澪標・2016年3月刊)に収録)
 この「対論」で、山田さんは「(前略)一般にはなかなか知られにくいでしょう。今こういう骨太の詩を書いている人―今日はちょっと、これをどう批評・評価するかというよりも、どういう紹介の仕方をすれば『びーぐる』の読者に対してプラスのものがより多く伝えられるか考えたい。(後略)」と述べ、細見さんと一緒に『女のいない七月』以前に上梓した第2詩集『母を消す日』、第3詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』を紹介することも含めて、高啓の詩の魅力を伝えようとしてくださっていた。これを読んでとても有難いと思った。

 山田さんは2019年10月にウイルス性脳髄膜炎による高熱を発症したが、2か月間もの意識不明から覚醒し、7か月間の入院生活とその後のリハビリテーションを経て、コロナ禍による大学(大阪芸術大学)のリモート授業への復帰を果たしていた。
 この、まさに死の淵から帰還した体験は、詩集『冥府の朝』(澪標・2022年1月刊)に収められた作品に率直に描かれている。

  あまり遠くない方向に入り江があって
  その奥には深緑の森がある
  その入江の奥へ奥へと ベッドは運ばれていく
  まるで死の島へと運ばれる小舟のように

  ベッドは水を分けて進んでいく
  冥府船
  にしては
  ただひとりなのが寂しい

  まあいいさ
  死ぬときはだれでもひとりだから
  ということは
  いま僕は死にかけているのだろうか

  小舟のように揺れる
  ベッド舟に運ばれて
  もうすぐあの島に打ち上げられる
  その瞬間がありありと感じられる

   (中略)
 
  予想していた衝撃もなく 
  冥府船は軟着陸のように
  岸辺に乗り上げた
  緑に見えていた森は実は紅葉だった

  森は窓外のビル街で
  岸辺はもとのベッドのままだった。
  手足に力は入らないが
  目と耳は生きている信号をとらえていた

  あれは人を冥府に運ぶ船ではなく
  冥府からこの世へ運ぶ船だった
  優しく美しいナースたちが
  生還した命を祝ってくれた

  もう少し生きていたい
  強く
  激しく
  思ったのだった なぜか

                          詩「冥府船」から(部分)

 「冥府からこの世へ運ぶ船」だった「冥府船」は、しかし、このあと1年もしないうちに「人を冥府に運ぶ船」となってしまった。山田さんは詩のなかで確か44歳くらいで胃癌の手術をしたと書いていたが、終にかれを冥府に運んでしまったその「船」は、やはり癌(発見時にステージⅣの食道癌)だったという。

 正直に言うと、山田さんから『孫の手詩集』(澪標・2019年6月)という詩集をいただいて目を通し、〝これはいただけない。おれは絶対にこういう詩は書かない。〟という感想を抱いていた。
 じぶんは、<孫>という存在をどう捉えるか、ということは結構難しい課題、大袈裟に言えばひとつの思想的課題であり人生における試金石のひとつであると考えてきた。そこからみると、この詩集の作品群は、ただひたすら孫の可愛さ、その命の掛けがえのなさに惑溺し、その放恣(もっとひどい言い方をすれば感情失禁)に任せて作詩しているように思われたのである。
 だが、今回山田さんの訃報に接して、詩集『家族の昭和』(2012年)、『羽曳野』(2013年)、『月光の背中』(2016年)、『羽の音が告げたこと』(2019年)、『冥府の朝』(2022年)を通読してみると、山田さんが<先験的家族>、すなわち自分を形成してきた家族や身近なひとへの関係意識とそれを対自的に生きる時間性に、ふかくふかく表現の根拠をもっていたことに改めて気づかされた。

  「兄ちゃん車で父ちゃんと榊原温泉行くで、あんたは留守番しといてね」
  母にいわれてひとり夜を過ごしたのは十四の冬
  あれから四十年経ったが
  三人とも帰ってこない  
                             詩「ななくり」第一連

 作者が11歳のときに脳卒中で半身不随となり、それから20年苦悩の時間を生きて享年61で亡くなった父、生命保険会社の「モーレツ社員」として働き、子宮癌によって享年51という若さで亡くなった母、そして享年46で亡くなった兄、さらには同じく享年46で亡くなった無二の親友・・・。そうしたひとびとへの追憶がこの詩人自身の時間意識と一体的に表出されているのだった。
 また、作者が自ら形成した家族(妻、息子、娘との4人家族)を想う心情やともに暮らす日々の時間意識も、引っ越しを重ねたいくつかの土地の風景や過去に住んでいた家の構造への追想と一体化して、作品群の基調となっている。
 こう考えてみると、『孫の手詩集』の「親ばか」ならぬ「爺ばか」ぶりは、『家族の昭和』から『羽の音が告げたこと』までの創作意識へのある種の無意識的な反動であり、孫への惑溺を表現として放恣することによって、過去(つまり自分がそこに産まれた先験的家族)への追想(それは最早切なさすぎるから)を忘却する試みか、あるいは上塗りによって包み隠してしまおうとする試みなのかもしれないと思われてくる。

 高階さんの追悼文には、最後の闘病のなかで紡がれた山田さんの詩集『ヒル・トップ・ホスピタル』から、山田さんが自分の詩を「人生詩」だといっている部分が引用されている。
 ところで、前出の「対論」には、こんなやり取りが出てくる。

 細見:今これぐらいの世代で詩を書いている人で、実際に会って話をしてみたい、どういうふうに詩を考えていますか、といったことを聞きたいと思う、そういう人の一人。特徴のある書き方で、全部がある意味同じような作品世界の中で、出てきた連中に次の詩集では何かが起こっていて、それをまた詩に書いて、これは何か不思議で面白いと思います。
 山田:それは十年二十年前のことを書くのとは違うからね。でもこういう人が逆に、もっと若い頃何をしていたのか、学生時代どうだったのか、昭和レトロの小学生の頃にどういうことを感じていたのか、そういうこともまた書いてほしい。

 山田さん。
 高啓はこれまで「人生詩」などというものを書いたつもりはありませんし、これからも書こうとは思いません。・・・と言いたいところですが、これからじぶんの詩がどうなるのか自信がありません。
 そういえば、詩集『二十歳できみと出会ったら』に所収の詩「喪姉論」はどう読まれましたか。あれは「人生詩」ということになるのでしょうか。(なりませんよね。)
 高啓が「冥府船」でそちらへ運ばれていったら、〝ああ、これでじぶんの作品も所詮は「人生詩」と括られてしまうんだろうなぁ・・・〟などと落ち込んだ顔をしているかもしれません。そのときは、「人生詩で結構じゃないか」などと言ってちょっかいをかけてきてください。「あんな孫の詩を書くなんてどうにかしてますよ。」と言い返しますから。

 では、それまで暫し初対面のお預けです。  合掌。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:09Comments(0)作品評