2017年03月19日

東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想その2

2017年2月12日、東北芸術工科大学卒業・修了展(2月7日~12日)の感想その2は、まず、日本画コースの学部卒業生作品について。




鈴木 祥代「ほのあかり」(2260×1800 和紙・岩絵具・水干)
 少年と少年の背後霊のように黒いウサギのようなものが描かれている。
 ほのあかりに浮かび上がった像の背後に濃密な物語性が感受される。解離的幻想を生きる少年にウサギの人格が現れ、冷酷な視線を向けることでその視線の先にあるものに堪えている・・・といったような。





高橋 哲平「ゆるがるれ」(3035×1880×1853 和紙・岩絵具・墨・胡粉)
 観客は暗幕に包まれた空間に懐中電灯を持って入り込み、壁の四方に描かれたものの姿を照らし出す。
 作者はこの大学に入学して以来、ずっと龍を描いてきたという。
 暗闇の中、懐中電灯の照明範囲に浮かび上がった像が龍なのかどうかは不分明であり、不分明であることこそが龍というもの存在を感じさせる。そういうふうに仕組まれている。





前田明日美「mama adieus」1820×3000 (木材・アクリル絵具・布・段ボール・針金ほか)
 ここに掲げた画像では絵画のように見えるが、実際は絵が描かれた屏風状のコンパネのような板に、首飾りのような装飾物が掛けられたミクストメディアの作品である。床に積まれた綿の中には、ベールに包まれたマネキンの頭部みたいなものも埋もれている。
 ママ、さようなら。そして、“さらば人類!”と口にしてエスケープした先の世界は、未開拓のロマンチック・ジャングルだというのだ。ある種のデストピアが描かれているのか、軽薄過ぎない軽薄さの嫌味みたいなものが伝わってくる。そのいやらしさがこの作品の魅力である。





及川千代美「春を送る庭」 (1818×2273 和紙・水干・箔・墨・胡粉)
 ちらりと目に入れるだけで通り過ぎてしまいそうな、他の作品と比べて引っこみ思案のような画風だが、良く見ると作品の印象がそこに描かれた黒い四つ足の動物の印象に重なっていることにはっとする。
 これは黒いキツネなのか、イヌなのか。何れにしても、白い木立のむこうから背中を丸め上目づかいでこちらを覗っている気弱そうな風情が絶妙に描かれている。しかも、良く見ると、この黒い動物は絵の中に描かれた暖簾のようなものに描かれている。先ほど木立だと思ったのは少しめくれた暖簾の隙間であって、その暖簾が微妙に傾いでいることがわかると、いわば二重にも三重にも不安そうな、気弱そうな、あるいは卑屈にさえ思われそうな存在が身近なものになってくる。そういう仕掛けになっている。
 また、この作品の題名にも唸らされる。・・・そう、春はいつだって怖いものである。


 つぎに、洋画コースの学部卒業生作品について。





國府田姫菜「光へ」 (1820×3640 パネル・白亜地・油彩)
 この卒業・修了作品展には、当該作品の作者にこの世界がどのように感受されているかを鑑賞者に否応なく突きつけてくる作品が少なくない。
 先の「mama adieus」は“ロマンチック・ジャングル”への脱出を志向していたが、この「光へ」はまさに光の世界への脱出を志向している。ただしこの場合の脱出とは、自分と自然とが一体化した全体性の獲得であり、その全体性が拡張していく実感の追求である。全体性拡張の志向とは“全能感”に近づこうとする志向でもあるだろう。
 蔵王の噴火口である「お釜」、山寺立石寺とその周辺、芸工大キャンパスなどの風景が統合的に配置された世界のなかに、巫女のような女の背後から、ウマ・シカ・サル・イルカ・ウミガメ・錦鯉・鯛・イヌ・ハトなどの生物たちが、生命エネルギーの奔流のように発出されている。
筆者はこの如何にも「高校美術部!」という画風とこのスピリチャルな構図に食傷してしまうが、しかし同時に、この作品のレベルまでその画風を貫かれるともはや脱帽するほかないのでもある。





鎌田 恵理「パターンQ」1620×1300 (キャンパス・アクリル・水性ペンキ)
 ここに掲げた画像は三枚一組のうちの一枚。本人のコメントに、「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまうことなど、そういった人との冷めきった距離を傍観するように描きました。」とある。
 「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまう」のは、「そういった人との冷めきった距離」にあるからというより、それを自分に降りかかるかもしれない事態だと想像するからで、つまりは「そういった人」と自分との分別や距離がうまく構成できないからでもあるだろう。
 人物たちに遠近法が採用されていないことが象徴的である。また、「ポム」という病院内喫茶室の看板がとても効果的に“日常的な不安”を伝えてくる。
 







田邊 小織「奥地」 (2273×1818)「泉の底でみる夢」(1818×2273)何れもキャンパス・油彩・メディウム
 田邊の作品の色使いと筆使いは、この作者が自然をどのように受け止めようとしているかをビビッドに伝えてくる。このひとにとって自然とは、“じぶんと共有された自然”を指し、したがって“じぶんによって描かれうる自然”を指す。それは「神々」しく、彼女の心臓に直接的に訴えかけてくる命の力みたいなものとして感受されている。





信坂 彩「結婚」 (各1620×1300 キャンパス 油彩)
 結婚衣装をまとった新郎と新婦が、無数の枝や腕の構造物として描かれている。
 新婦のイメージは象徴的なのに、新郎のイメージは崩壊している。女が無数の手を伸ばして男とつながろうとしているのに、男の方は顔も頭部もなくて、腕は大きくて女を捉えそうだが、男自身はとらえどころのない白化したサンゴのような放射状のものに感じられている。
 他者の結婚をカリカチュアしたつもりならそれでもいいが、じぶんの行く末を絶望的に見ているのだとしたら、それはまだ早い。・・・などというのはジジィのお節介か。

 
  続いて、彫刻コースの卒業生の作品。





吉田愛美「better half」
 作者によって「こんなにも愛しく思うのは、あなたと私はもともと一つだったからに違いない。」というキャプションが付けられている。
 この一体の木彫像は、男女が寄り添った姿に見えるから、上記のキャプションは男女の性愛のことだと看做す。すると、じぶんもかつて女とそんなふうに一つになった気がしたときがあったような気分になってくる。
 しかし、作品を良く見ると、木像のふたりは必ずしも満ち足りた表情をしているのではない。たとえば、亭主関白な夫とその夫に諦めの境地になるか、不承不承寄り添っている妻のような表情にも見える。
 このような形態の木像をみると、どうしても舟越桂の作品を想い起こしてしまう。こうした他者の先入観からどのようにして自分の作品を救い上げるかは、たぶん作家にとって重要な課題だろう。
 この作者は像たちの表情でそれを試みている。この像たちの表情は、誤解を恐れずに言えば舟越作品よりはるかに俗物的である。その俗物性が、いわば作者自身のキャプションを裏切っているところが面白い。





 阿部任「Breath of Souls」
 「廃材たちが生命感をみなぎらせて躍動するイメージ」を求めて、「鉄屑の中から羽化した蝶」を制作したと作者はいう。
 穴の空いた繭と羽化したばかりで縮れたままの羽の造形(とその玉虫色)が、この作品の魅力になっている。
 廃材を掻き集めてきて造形物を創り上げるのは、ブロックの部品を組み上げて作品を創るのや、石ころのような切片を組み上げて作品を創るのと、どこがどう違うのだろう。前者の方が、そこになにかが宿るかのような幻想(「機械の中の幽霊」にでも似た)を持てる気がするが、すると当該作品に宿る“精神”は、ではこの廃材たちが宿してしまう「幽霊」なのか、それとも作者が特権的に与えた固有のイメージなのか判別しにくくなるような気もする。たぶん、両者の混融物として作品が成り立っているのだろうが、その混融のどこをどのように作者が差配しているのか、言い換えれば、作者は廃材たちの霊にどれだけ依存しているのかという問題が現れる。
 もちろん、この「問題」を問題だなどと考えずに、表現したいように表現すればいいのだ。


最後に、テキスタイルコースの卒業生の作品をひとつ紹介したい。









小林瑞穂「ディア シスター」
 (木材・水性塗料・楽譜)
 見た目は背中合わせに合体したふたつのアップライト・ピアノである。
 しかし、ただのピアノに見える側と反対の側に回ると、鍵盤に当たる部分の蓋が凹んでいて、そこに楽譜とフルートが置いてある。これがどんなことを表現した作品なのか、これだけではほとんど理解も想像もすることができない。
 そこで作者のキャプションを読む。するとこんなことが書かれている。
 この作品はある友人に向けて作った。その友人は自分(作者)にとってどんな存在か言い表すのは難しいような存在だ。かつて二人はともにプロのフルート奏者を夢見ていた。「そして、学校の階段から転げ落ちた事から始まった彼女の自滅と私の終わり。彼女と出会ってから毎日整理し続けた『今まで』を全て詰めて彼女に捨てさせる作品です。」
 この作品はテキスタイル専攻学生のなかで「優秀賞」を取っていて、担当教員がその授賞コメントを記しているが、そこには、テキスタイルコースの卒業制作なのになぜピアノのオブジェなのかということで衝突したこと、ピアノ2台を購入する費用がないので作者自身がこのオブジェを手造りで、しかも「不思議な圧倒的に近寄りがたい空気感」のなかで組み立てたことなどが記述されている。
 ひとつのオブジェを創るという卒業制作が、これまでの作者の生きざまの総括になっている。この過程自体が激しく“ゲイジツ的”ではないか。


 卒業生・修了生のみなさんの健勝を祈って擱筆する。またどこかで作品に出合う機会を楽しみにしつつ。(了)                                                                                                                                                                                







  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:35Comments(0)美術展