2011年06月26日

小熊英二著『1968』について



 <はじめに>

 2年ほど前の夏休み、息子の高校時代の友人である大学生が我が家にやってきた。
 かれはこのブログを読んでいて、“あの時代”についてじぶんに話を聴きたいと言うのである。
 酒を酌み交わしながらいくつか話をしたが、そのとき、「全共闘運動」については、うまく話すことができなかった。
 それで、「小熊英二の『1968』という本が出たね。あれを読んでみたらどうだろう。そのうちおれも読んでおくから。」などと話してお茶を濁したが、それからずいぶん時間が経過した。
 かれはもう社会人になっているからこのブログも卒業しているだろうが、なんだか宿題を仕残しているような想いがずっとしていたので、このことについてなにかかにかは述べておこうと思う。



 この著作は「1968年」に象徴される“あの時代”、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った「研究書」(著者が言うには「初」の研究書)である。
 上下巻で本文だけでも1,800ページを越える大著だが、工夫された構成と筆力、それに「研究書」の枠を越えた著者・小熊英二の「全共闘世代」への想いに、ついつい読了させられる。

 じぶんは1970年に中学生になった。小熊英二はじぶんより5歳ほど年下であるから、1969年には、じぶんは小学6年生で、小熊は1年生だったことになる。それはちょうど日本におけるベビーブーム世代である「団塊の世代」つまりは「全共闘世代」の中心部分からみて、10歳年下と15歳年下ということである。
 すると連合赤軍浅間山荘事件の1972年2月には、じぶんは中学3年生で、小熊は小学4年生・・・この著書のなかでも述べられているが、1960年代後半から70年代前半の日本社会は急速かつ激しく変化しており、とりわけ、若者の文化、風俗、思考、感性は、学年がひとつ違うだけで大きく異なる時代だった。だから、この5歳の年齢差は、“あの時代”のくぐり方において、たぶん決定的な違いをもたらしているのだろう。
 もっとも、初手からはっきり言明してしまえば、この「研究書」で結論付けられている“あの時代”の叛乱の意味、それをじぶんなりに一言でいえば、日本が高度資本主義すなわち大衆消費社会に移行する過程において、一部の若者が時代との摩擦や抵抗感を乗り越えるために引き起こしたカタルシス現象というミもフタもない話になってしまうが、それについて、今のじぶんはほとんど賛同する。
 そして「研究書」であるこの大著に、通奏低音のように流れている「全共闘世代」(とくに“全共闘運動以後”の当該世代)に対する冷ややかな呪詛の念についても、ほとんど共感する。

 けれどもなお、多くの点で相槌を打ってしまうこの書について、じぶんの位置からは、なお“ちょっと待てよ”という想いを禁じえない点も、これまた存在する。
 こうして考えてみると、じぶんは「全共闘世代」から10年近くも遅れて来ているのに、まるで「全共闘世代」とその世代を冷ややかに視ている「そのあとの世代」とに挟まれ、その双方の引力圏に囚われた一種のダブルバインドの世代だと思われてくる。
 これについては、じぶんが、高度経済成長の影響が数年遅れて波及した東北の田舎町で育ったという事情も多分に影響しているが、しかしなお、それだけでもないような気がする。
 だから、小熊英二著『1968』に言及するとき、じぶんはたんに「全共闘世代」を相手にするだけではなくて、「そのあとの世代」をも相手にしなくてはならないような気がしてくる。
 いや、むしろ、“相手にしなくてはならない”というよりも“相手にすることになってしまう”というべきだが、それにしたって、いまのじぶんにとって、これは少しく気の重いことなのである。
 上手く述べられる自信はないが、何かを述べておかなくては先へ進めないという想いに駆られる。小熊英二著『1968』の内容のうち、じぶんが共感しつつ、しかしまた同時にちょっと違うように感じたことについて、とりあえず二点だけ言及しておきたい。


1 「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性

 小熊英二の『1968』には、“あの時代”を解き明かすためのキーワードがいくつか埋め込まれている。そのひとつが、「現代的不幸」ということばである。
 同書の最終章である「結論」部には、次のようなことが述べられている。

 発展途上国型の社会から高度成長によって急速に高度資本主義の先進国型社会に日本が変貌しつつあったなかで、かの世代は「アイデンティティ・クライシスとリアリティの希薄化に悩み、『生きている』実感を持て」なかった。戦後の復興期に、野山や空き地を駆け回って育ったこの世代が直面したのは、高度経済成長の過程で引き起こされていた都市と農村の姿の急激な変貌であり、「資本主義体制」の高度化と「管理社会」の形成だったからである。
 そして、ベビーブーマーは「親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい『近代的不幸』とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)『現代的不幸』に直面した初の世代」となった。
 そんな世代にとって、「学生運動に飛びこみ、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語りあうことは、連帯感や仲間を得ることと、自分のアイデンティティや生のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力」だった。

 また、このことと相即的に語られるのは、大学生の大衆化である。
 1963年には大学進学率が15%を越え、ベビーブーム世代が入学すると大学生が急増した。大学は施設整備も教員体制の整備も追いつかずマスプロ化し、一方で学費値上げがたびたび行われた。大学生はかつてのような「立身出世」を約束された存在ではなくなり、「末はしがないサラリーマン」という閉塞感が広がっていた。
 その一方で、当時の大学生は、戦後教育で受けた民主主義の理念と、“大学は真理探究の場”であるという旧来のイメージを抱いていた。この大学の実態と学生の想いのギャップが、大学闘争の発火を準備していた。
 小熊は、この事情について、歴史学がいう「モラル・エコノミー」という考え方を当てはめて語ってもいる。
 モラル・エコノミーとは、民衆がもつ秩序意識や規範意識のことで、暴動や叛乱は民衆の生活苦が極まった際に起こるよりも、社会が変動する過程にあって、民衆がもっている「あるべき秩序」の規範意識が破壊されたときに起こるものだという考え方である。
 この考え方を応用すれば、全共闘運動とは、ベビーブーム世代の「あるべき社会像」「あるべき大学像」というモラル・エコノミーを、現状の社会と大学が裏切っていると看做されたたための蜂起だと考えることができるというわけである。

 こうした「自分探し」のモチベーションが、政治闘争に向かうことになった理由については、ベトナム戦争や日米安保条約や公害等々の社会問題が起こっていたこと、さらには「地域コミュニティの連帯感が生きており、社会との一体感が埋め込まれていた」ことを挙げつつ、階級格差や貧困の方が大きな問題だった発展途上国型のパラダイム(社会変革が自己変革と同置されたパラダイム)と言説のなかで「『心』やアイデンティティの問題を考えるとすれば、どうしても『政治』の言葉で運動を起こすという形態しかなかったのだろうと思われる」と語る。
 また、かれらが主に直接行動に訴えたり、デモでスクラムを組むことを好んで行ったことの要因としては、かれらの幼少期には「相撲や押しくらまんじゅうなど、肉体的接触を伴う」遊びが行われていたり、家族が同じ部屋で寝起きしていたことからくる「身体感覚」を指摘してもいる。(じぶんなら、このことに、子ども時代の経験としていわゆる「ギャングエイジ」の行動様式を付け加える。)
 さらに、かの世代がマルクス主義に染まったことについては、このように言及される。
 発展途上国型の社会の変革に対応したパラダイムであるマルクス主義(の暴力革命論)を唱えた新左翼運動は、60年安保以降、経済成長の過程で支持を失い低迷していたが、いわゆる「疎外論」と「主体性」を掲げる人間主義的なマルクス主義が、「『心』の問題をあつかう言説資源が不足していた当時にあって、『疎外』をはじめとした『心』の問題を表現する媒体として復権した」のであると。


 さて、ここからはじぶんの見方を述べてみる。
 小熊の論では、「近代的不幸」と「現代的不幸」とが対比され、全共闘世代は層として後者を体験した日本初の世代だとされる。・・・まずここまでは了解する。
 しかし、「近代的不幸」と「現代的不幸」は、「1968」を挟んでそれほど裁然と区画できるものではないだろう。そもそも高度経済成長の影響(または恩恵)が、日本全域と各社会階層に、期を同じくして及んでいたわけではない。
 もちろん、小熊自身もこの二つを裁然と区画しているわけではなく、日大闘争について扱った部分では、日大闘争が日大経営陣の独裁的で暴力的な学内支配に対する抗議として、つまり「近代的不幸」と言ったほうがいいような状況に対する改善要求として始まったという趣旨のことを述べている。
 また、この著作には、当時の新左翼各党派の活動家の出身階層に関する調査報告が引用されているほか、全共闘運動に関わった学生たちが、幼少期の貧しい記憶を保持しつつ、経済難で進学できなかった同級生たちに対して罪悪感を抱いていたという記述もある。
 
 そのことを踏まえながら、それでもじぶんは、より強調して「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性を指摘しておきたい。
 高度経済成長による影響には、地域によって、また社会階層によって、もっとグラデーションがあった。時代は跛行的に進んでおり、自我意識の変化もまたそうだったのである。
 “あの時代”の叛乱を大雑把に把握しようとするときには、「『自我の世代』の自己確認運動」と呼んでもいいが、下層あるいは庶民層出身の学生たち、またはそれらの層の同級生たちと思春期までを共有した学生たち(とりわけ地方出身の学生たち)には、社会変革あるいは社会改良によって、「近代的不幸」をなんとかしなければならないという使命感というか、衝迫観念というか、そんな意識が、程度の差はあるにせよ個々人に埋め込まれていた。このことを『1968』はやや過少評価しているように思われる。
 これは冒頭に述べたように、じぶんとこの著者との5歳の年齢の開き、それに育った地域が異なることによる体験と認識の違いからくるものだろう。
 それは、たとえば天皇制と反天皇制をめぐる事情が、この大著の、少なくとも本文では一度もまともに考察されていないことに象徴的に現れている。みんなはもう忘れたような顔をしているが、「昭和」という時代には<天皇>という存在がいて、それは旧来社会の支配体制の<象徴>であった。つまり、あの時代には、まだそこかしこに“小天皇”が存在し、各領域に前近代的な社会関係が少なからず残存したのである。

 インテリ層が社会変革への意識をもつことを、文学の世界では長らく“知の自然過程”だと看做してきた。発展途上型の社会においては、<知>を身につけた者、つまりそれゆえに社会階層を上昇できる者は、被抑圧者の側に立って、その抑圧と闘うことが“自然”だった。1960年代から70年代半ばにかけての日本にも、まだその自然過程の残り火があった。
 もっとも、この自然過程というやつには、二つの側面がある。一つは倫理的な使命感であるが、もう一つは欲望、すなわち<自己権力>への意志である。小熊は、この二つ目の側面を等閑に付している。これが、じぶんが『1968』について言及しておきたいと思った二つ目の点である連合赤軍事件の位置づけへの異議にも繋がってくる。


2 全共闘世代の「二段階転向」論への評価と異議

 ちょっと違うなと感じたことの二つめは、小熊の言う「二段階転向論」に関連している。
 小熊は、ベビーブーム世代は「高度成長と大衆消費社会の果実への反発と魅惑のはざまで、引き裂かれていた」ために、「彼らが大衆消費社会に適応するには、自己の内部にあるそれに対抗する感性を排除する必要があった」として、その過程は二段階を経ることになったと言う。
 高度成長期以前に社会状態で幼少期の人格形成を行ったことと、「一人の一歩よりみんなの一歩」「我利我利亡者にはなるな」といった戦後の民主主義教育の価値観を身につけていた彼らは、全共闘運動の中で日本共産党=民青や進歩的とされた大学教員たちと対立する過程で、「戦後民主主義」を激しく批判し、革新政党や「進歩的文化人」(進歩的知識人)の欺瞞を暴きたてることで、自らの内部にあった戦後教育の理念を排除する。これが転向の第一段階である。
 だが、全共闘運動は「ではきみはどうするんだ!」という自己否定と倫理的なリゴリズムをともなうものであったため、大衆消費社会に反発する禁欲主義となって現象する。
 「この禁欲主義とリゴリズムを脱却するために必要だったのが、連合赤軍事件だった。連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚を恐れた20人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせていたという小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行ったからだった。」
 その意味付けは「全共闘や新左翼のリゴリズムや禁欲主義を徹底してゆけば、行きつく先は連合赤軍事件だ、というものだった。彼らはこうして、連合赤軍事件によってトラウマをあたえられるという形態をとって、自己の内部にあったリゴリズムや禁欲主義を排除し、『私』の欲望に忠実になることに成功した。」・・・これが転向の第二段階である
 そして、“あの時代”について、小熊は、「全共闘運動と連合赤軍事件がベビーブーム世代にとって大きなトラウマになって残っていることは、ある社会が発展途上国から先進国になる過程において、どれほどの精神的葛藤と代価を払わねばならなかったかを示している」としつつも、「全共闘運動や新左翼運動は、資本主義と高度成長に反発しながら、結果として日本の資本主義の進展を推し進める役割を果たした」と結論付ける。

 じぶんは、この総括の論理展開をそれなりにうまく構成されたものだと評価し、その結論については基本的に賛同する。
 なぜなら、ここに小熊ら「そのあとの世代」の、全共闘世代に対する率直な見方が表現されており、じぶんも大方はその心性を共有するからだ。
 全共闘世代が「転向」し、各分野で日本資本主義の高度化と大衆消費社会の進展を担ってきたことをじぶんも「遅れてきた世代」として目の当たりにしてきた。さら言えば、じぶんもまた同じように、アドレッセンスまでの自分のトラウマを脇において消費社会における生活を享受してきたからだ。(一時期まで、これはじつに快楽だった。)
 だが、そのうえであえてじぶんなりの見方を言えば、ここで述べられている「転向」の機制と連合赤軍事件の意味は、小熊の指摘するのとは少しく異なるものだと思う。

 じぶんがみるかぎり、全共闘世代の、いわゆる「転向」は、小熊の言う「二段階」の転向を必要としなかった。
 そもそも転向がどのような心的機制で起こるかといえば、それはまず自己意識と大衆の存在形態との乖離についての深刻な認知があり、それにひき続いて自己意識が大衆の存在形態から掬い取られることによって起こるのである。(ここでは「権力からの強制」という要素にはあえてふれない。)
 ありていにいえば、大衆の意識を変革して革命を起こすことを目指している自己意識が、体制的秩序のなかで生きる大衆の在りように、“ああ、こんな生き方のほうがまっとうなんだ”と浸潤されるということだ。この機制は、それ自体としては、自己の内部のリゴリズムや禁欲主義を排除するのに、連合赤軍事件を梃子にすることを必ずしも(というかほとんど)必要としない。
 また、彼らの「転向」を、小熊はもっぱら自らの内部の「禁欲主義の排除」と視ているが、彼らの「転向」には、逆に“欲望を捨てる”という諦念の側面があったように思われる。ここでいう「欲望」とは、むろん物質的消費への欲望ではない。あの<自己権力>の希求である。

 ひょっとして、じぶんがここで想定している全共闘世代の「転向」者と、小熊が想定している「転向」者は微妙に異なるのかもしれない。
 小熊はいわゆる「就職転向」者(大学4年生になったら運動から足を洗って就職する“いちご白書をもう一度”派とでもいうべき者たち)をも含めて論じているようだが、じぶんはその者が就職したかどうかに関わらず、もうすこし運動に深入りした人間を想定している。連合赤軍事件を深刻なトラウマとして捉える者たちは、内ゲバを含む全共闘運動やセクトの暗黒面(たとえば兵頭正俊の小説『全共闘記』に描かれた世界のような)を経験した者たちでもあるだろうと考えるからである。
ここで<自己権力>という欲望とその断念についてちゃんと述べなければならない段なのだろうが、今はその意欲が湧かない。連合赤軍事件については、先に若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜』http://ch05748.kitaguni.tv/e626432.htmlについての書込みでじぶんの見方を述べているので、ここではこれ以上は勘弁してもらうことにする。


 さて、ここからはそのほかの点について。

 小熊英二の『1968』は、新左翼運動の展望のなさ、無責任性そして倫理性の欠如について徹底した指摘を行っている。新左翼思想に影響を受けている者や憧憬を抱いている者には、この部分をよく読み込むことを勧めたい。
 いまの若者には想像できないだろうが、かつてこの国には、まっとうな知力と精神をもっている若者は左翼的になるのが当たり前だった時代があった。その時代の政治闘争がこのように矮小なものとしてしか語り継がれない。いや、このように矮小なものとして語り継ぐことに、この著者は「そのあとの世代」への意義を見出しているというべきだ。じぶんはこれをも評価する。
 著者は“あの時代”の叛乱が帰結したものとそのトラウマが、日本の社会運動を大きく停滞させていると指摘している。

 また、この書のキーワードのひとつとして「1970年パラダイム」ということばが登場する。
 「1970年パラダイム」とは、「マイノリティ差別や戦争責任への注目、アジアへの経済進出への批判、天皇制の問題化、公害や障害者問題などへの着目、『管理社会』への抵抗、リブとその延長としてのフェミニズムなど」をさす。
 これらは左翼の存在意義として、それまでの“<プロレタリアート>による革命”というパラダイムが失効したために、これに置き換えられたパラダイムである。
 このパラダイムが生成してくる過程についての総体的な論及は、この書を読む価値のひとつに数えられる。

 じぶんは、この書に論理展開や総括のためのいくつかの図式化とステロタイプ化を観るが、この種の著作には明確な指摘を行うためにダイナミックな論理展開が必要だいう考え方なので、これを是認する。
 この書は“あの時代”を考えるうえで決して外せない一書になっている。
 小熊英二にはよくやってくれたと感謝したい。              
                                                  (了)           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:03Comments(0)作品評