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2010年05月08日

「ロシアの夢 1917−1937」展及び関連イベント



山形美術館で「ロシアの夢 1917−1937」展(DREAM OF RUSSIA Russian Avant-Garde 1917-1937)を観た。また、この美術展の関連イベントとして、山形美術館と東北芸術工科大学が共催した「アヴァンギャルドって何?」という企画で、三つの講演を聴講した。それらの概要をメモし、感想を記す。






1 「ロシアの夢 1917−1937」展(2010年4月3日〜5月9日)

 この企画展は、ロシア革命が起こった1917年から、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れた1937年までの20年間に焦点をあて、革命の時代を走り抜け、やがて革命の変質のなかで破滅・消滅していくロシア・アヴァンギャルドたちの作品を紹介したものである。
 革命とそれに続く内戦の時代のプロパガンダを目的としたポスター、1920年代の新経済政策の下での映画作品や商品広告のポスター、冊子や絵本、演劇の舞台や衣装、モダンなデザインの家具や食器(陶器)や建築設計などが展示されている。

 ロシア・アヴァンギャルドについては、以前、このブログで触れたことがあった。(2008年7月10日付け記事、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」についての感想http://ch05748.kitaguni.tv/e581526.html
 「青春のロシア・アヴァンギャルド」展に比べると、「ロシアの夢 1917−1937」展の展示は、ずいぶんと地味な印象を受ける。それは、前者がロシア10月革命以前の、より多彩な源と芸術性を持つアヴァンギャルドの流れ(つまりは“青春”)を紹介していたのに比べ、後者は1917年以後にソビエト・ロシアで活躍した作家たちの作品、つまりプロパガンダや商品広告を中心的な目的とした実用的な作品(主流は絵画ではなく、2〜3色刷のポスターや雑誌などの複製作品)をメインにした展示であることから来ている。
 しかしながら、後者の展示は、地味であるがゆえに、むしろ観る側の者の方に、展示された作品の向こう側、つまり作者たちの抱いた“夢”を視透すための想像力を求めてくる。

 とくに、もともとコミュニストではなかったものの、革命の衝撃に打たれて“これはぼくの革命だ”と叫び、芸術運動やプロパガンダを通じて新しい世界を獲得しようとした詩人のマヤコフスキーの、意外にも実用的な宣伝コピー作品や、「立体未来派」を掲げつつ、やがて絵画の創作意欲を何らかの具象物に仮託することを突き抜けようとする地点(「無対象絵画」)まで行くことになるマレーヴィチなどの作品が印象的だった。




2 八束はじめ講演「ロシア・アヴァンギャルド建築 希望の空間」:感想

 この展覧会の関連企画として開催された八束はじめ氏(建築家、建築理論家、芝浦工業大学教授)の講演会(4月22日、東北芸術工科大学)を聴講した。
  この講演当日、八束氏が述べた演題は、事前にチラシに記載されていたものとは若干異なり、「希望の空間―ロシア・アヴァンギャルドをめぐるいくつかの断章―」というものだった。
 八束氏は、山形市の生まれだという。父親が市立済生館病院の眼科医だったということで、5歳くらいまで山形にいたとのこと。ちなみに、その父親が勤めていた病院の建物は、現在、霞城公園に山形市郷土館として移築されている擬洋風建築であるが、同氏によれば、この建築をはじめ、北海道・東北の擬洋風建築は、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けているとのことである。
 


 さて、“Aspiration and Melancholy”と副題を付された八束氏の講演は、まさに5つの「断章」から成っていた。
 彼は、この講演で、これまで彼の著書で取り上げてきたロシア・アヴァンギャルド建築における「希望の空間」がどのような作品に反映されているかを語るのではなく、彼自身がこれまで著書に記さなかった想いを、いくつかの断章として述べてみたいとして、次のような概要を語った。スライド上映のため講義室内が真っ暗にされたので、携帯電話の照明がたよりのたどたどしいメモになった。以下の内容の正確さには自信がないが、とりあえずメモをもとに概要を記載してみる。

 1つめの断章は、ソ連重工業省やレーニン研究所図書館などの作品で有名な建築家Ivan Leonidov について、彼を「ロシア・アヴァンギャルド中の最大の天才」としつつ、“希望”というものが「建築家の職能に(あらかじめ)書き込まれている」という観点を示すものであった。
 そのロシア・アヴァンギャルドの希望は、しかし、二重に敗北している。それはソ連が崩壊したことと、遥かそれ以前に、「社会主義リアリズム」を主導するスターリン体制によって抑圧されていったことによって。
 マヤコフスキーとロトチェンコは、生活を変えることで社会全体を変えようとして、CMデザインに取り組んだ。しかし、1920年代以降、アヴァンギャルドは周辺的なものになり、1930年、マヤコフスキーは自殺する。レオニドフは、1937年に「左翼小児病」と攻撃され、酒に溺れ、酒を買いに出たところを車に撥ねられて死ぬ。

 2つめの断章は、“Cult”と題されていた。
 ロシア・アヴァンギャルドは、新しい政治体制のカルトであったということができる。そして、それは、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」のデザインに典型的なように、幾何学のカルトでもあった。
 フランス革命後と、ロシア革命後、いわば巨大な革命のエネルギーのなかで、“球”の建築デザインが現れた。これは旧体制からの離陸と希望への飛行を目指していた。革命のピークに“球”が現れ、それがやがて伝統的な様式に回帰していくという同様の傾向が、ふたつの革命の経過のなかに現れている。

 3つめの断章は、“Icon”と題されていた。
 このカルトの背景には、イコン(聖像画)を視ることができる。プリミティズムにイコンの原型が現れてくる。これはマレーヴィチまで繋がっている。(タルコフスキーが映画「サクリファイス」で作品化した画家のアンドイ・リブリョフや、同じく画家のゴンチャロヴァについても言及。)
 ロシア・アヴァンギャルドは、共産主義の理念へのカルトであったが、同時にモダニズムの時代の機能主義という側面で、ヨーロッパの動きと相即している。ヨーロッパではキュービックだったものが、ロシアでは球や円柱になっている。要素主義(エレメンタリズム)がロシアでは構成主義(コンストラクティビズム)となって現れる。その典型はレオニドフである。
(メモから内容を復元しようとしたが、話が通るように再構成できない。八束氏が言いたかったことは、ロシア・アヴァンギャルドの構成主義のモチーフに、イコンの原型が見て取れるということか。)

 4つめの断章は、“Melancholy”。
 ここで、八束氏は、「ルサコフ労働者クラブ」「自邸」などの設計で、レオニドフと並んで評価されるKonstantin Melnikov(1890〜1974)について、自ら何度か訪れ、地元の大学関係者の計らいでやっと中に入ることができたというモスクワの彼の自邸(1927年設計)の写真を示しながら、そこに住むメルニコフの息子の話を紹介する。息子は、自分の父親がアヴァンギャルドだったということを頑なに否定するのだという。
 また、Moise Gisburgの作品である「Narcomfinアパート」(ソ連大蔵省職員アパート)の現状を映し出し、それが荒廃するまま(少数だが、未だに住民がいるにも拘らず)放置されているということを、現状の写真を示しつつ、メランコリックに語る。

 5つめの断章は、“Phantom”。
 ソ連体制が崩壊し、その後の混乱を乗り越えて、ロシア資本主義が隆盛を迎えた2000年代のモスクワに、しかし、建築様式においてはスターリン時代の「亡霊」が復活している。(スターリン時代の建築と最近の建築の写真を比較紹介しながら説明。)
八束氏が関わっているモスクワの大学関係者をはじめとして、ロシアの若い建築家たちは、このようなロシア建築界の現状に落胆し、国外に活躍の場を求めようとしている・・・。

 さて、このようなロシア・アヴァンギャルド建築をめぐる「断章」と相即的に、八束氏は、日本における建築・都市計画のアヴァンギャルドである「メタボリズム」の運動についても触れた。
 この運動は、1960年代、反安保運動のうねりの中から生まれてきたという。八束氏らは、2011年7月から、森美術館でメタボリズムの回顧展を企画しているとのこと。ちなみに、丹下健三の右腕であった浅田孝が関わった1960年の世界デザイン会議関係の資料が、東北芸術工科大学図書館の「浅田文庫」に所蔵されているので、それを閲覧してきたところだとも言っていた。


 さて、ここからは、じぶんの感想。

 八束氏は、団塊の世代だが、日本のメタボリズムについて言及しつつも、ロシア・アヴァンギャルドの「希望の空間」がどのような“希望”だったのか、そしてなにゆえに“希望”たりえたのかについて、ここでは、正面から語ることはなかった。(それは著書に書いてあるから、知りたければそれを読めということなのかもしれない。)
 彼が「断章」として語ったことのうち、印象に残ったのは、もっぱら、この“希望”が、かつて裏切られ、忘れられ、そしてロシアでは現在も顧みられていないということについての、彼自身のメランコリーであった。
 このイベントは、山形美術館と東北芸工大の共催(大学側のコーディネーターは、和田菜穂子准教授)であり、同大の学生が聴講者の多くを占めていた。
 じぶんのもっとも単純な感想は、“ああ、また団塊の世代のメランコリーか・・・”というものだった。
 彼ら団塊の世代の“夢”や“希望”を(そしてそれ以上に“喪失”を)、彼らの世代に強烈な影響を受けて育ってきたじぶんの世代なら、まるで自分たちのことのように思い起こすことができる。そして、八束氏が、これらをカッコで括って後景に隠し、「断章」という形で、韜晦めかして語らねばならない理由もわかるような気がする。
 しかし、この講演の相手は、その多くが20歳前後の学生なのだ。
 年長の人間が、若い者に、自ら(の世代)の喪失感覚やメランコリーや郷愁を語ることについて難癖を付けたいのではない。ただ、それらを語る前に、もっと率直に語るべきことがあるはずだ。先行世代、とりわけ間もなく老境に入っていく団塊の世代は、いまの若い世代に、もっと基本的なことを、ニヒることなく、けれん味なく、しかも自省的に語り掛けなければならないのではないか。
 日ごろじぶんがそれとなく感じているところでは、じぶんたちを含むこれまでの“シラケ世代”とは異なり、相対的に言えば、いまの20代はむしろ真面目で純粋になっていて、たとえそれがこれからの時代の指針になりえないものであったとしても、先行世代がかつて抱いた“夢”や“希望”の中身をしっかり聴いておきたいと、真摯な言葉を求めているような気がする。これはじぶんの期待的バイアスによる錯覚であろうか・・・。


3 中村唯史講演「歴史の中のロシア・アヴァンギャルド−成立までとその時代―」:感想

 次に、この展覧会の関連イベントとして開催された「ミュージアム・スクール」にける中村唯史氏(ロシア文学、表象文化論、山形大学准教授)の講演(4月29日、山形美術館)について触れる。
 中村氏の講演は、「ロシアの夢」とは何であったのかについて、大上段に振りかぶってというのではなく、いつものように、むしろ淡々と紹介していくというものであった。
 じぶんは、中村氏がスライドで次々に紹介してくれたこの時代のロシアの作家たちの作品に、とても興味を引かれた。例によって、メモから概要を記してみると・・・

 演出家として有名なメイエルホリドは、10月革命に際して、すぐにこれを支持する声明を出し、マヤコフスキーも「これはぼくの革命だ」と詩に書いた。彼らはどちらもコミュニストではなかったが、熱烈に革命を支持した。それは、いま起きている革命によって、政治や社会が変わるだけではなく、人間をめぐるすべてが変わると考えたからである。人間自体、人間と自然との関わり、そして何よりも芸術が変わろうとしている、変えていくんだという熱狂の時代だった。
 この「ロシアの夢」展に陳列されている作品に見て取れるように、かれらは、衣服も椅子も街も含め、人間を包む空間を変えていこうとした。
 1870年代から、アヴァンギャルド前史としてロシア美術の流れを見ていく。
 1860年代までは、ロシア美術はヨーロッパの真似であった。中下層民から画家の卵を選んで美術アカデミーに入れ、イタリアに学ばせる。その画家たちの作品の消費者は、貴族たちだった。
 しかし、1863年、美術アカデミーの生徒14人が反乱を起こす。かれらは、卒業課題として課せられていた神話を題材とする絵画製作に反対し、それを契機として自主的に作家グループを作り、やがて「移動派」を形成していく。彼らが「移動派」と呼ばれたのは、巡回展を開催し、貴族以外の者たちに作品を売ってあるいたからである。
 ロシアでは、農奴解放令により資本主義化が進んでいた。貴族が没落し、商人が絵画の購買層になってきた。それと相即的に、1870年代から、ヨーロッパの風景画の真似ではなく、ロシア固有の風土、ロシア的なものを画こうという傾向が現れた。これと同じ時期(1874、5年ころまで)ヴ・ナロード運動が起こっていた。
 ロシア風景画の課題は、ヨーロッパに比べて単調なロシアの大地をどう描くかというところにあった。そこでは構図の工夫が重視された。
 アレクセイ・サヴァラーソフ(1830-1897)の作品に見て取れるように、平原に対する垂直的なもの(白樺の木や教会の塔など)を配置する構図が意図的に採用される。
 また、移動派のなかからは、写実主義を超える表現が出てくる。アルヒープ・クインジ(1841-1897)の描いたのは月や霧、その光であった。この光景の表現については、その色彩の工夫が絵の具の工夫(開発)から試みられた。とくに、イサアク・レヴィタン(1860-1900)が描く月夜や月明りの光の表現、ニコライ・ゲー(1831-1894)の描くキリスト画は、写実主義を超えようとしている。(ここまでは移動派)
 ミハイル・ヴルーベリ(1856-1910)になると、写実主義は捨てられている。この時代は、印刷技術が発達し、作品が絵はがきとして売られるようになった。絵画的なものを実用品に活かしていこうとする動きが出てくる。
 また、移動派は、手法としてはヨーロッパ的であるため、民衆自身の絵ではないという批判が出てくる。こうした中で、民衆の中にいる作家としてピロスマニが注目される。これがプリミティズムにも繋がってくる。
 イヴァン・ビリビン(1876−1942)は、1900年ころから絵本や絵はがきを刊行する。かれの作品は、民衆芸術であることを意識するとともに、浮世絵の手法などジャポニズムにも影響を受けている。
 また、一方で、ロシアのユダヤ人、ヴァシーリー・カンディンスキー(1866-1944)が、ロシアの伝統を受け止めつつ、精神主義的な作品を発表していく。
 これらの動きは、ロシア・アヴァンギャルドの代表的存在と看做されるカジミール・マレーヴィチ(1878-1935)に繋がっていく。マレーヴィチは、1960年代のアメリカ・ポップアート・シーンのなかで注目され、有名になった。
 彼は、すべての画家がそうであったところの知覚に拠って描くことから離れ、人間の感覚そのものを表現しようとして、無対象絵画(真っ黒な絵である「黒い正方形」)に辿りついた。彼は、純粋な創造を表現しようとしてスプレマチズムに至った。
 
 中村氏は、このほかにも、ナタリヤ・ゴンチャローヴァ(1881-1962)やミハイル・ラリオーノフ(1881-1964)その他作家の作品についても、スライドで紹介してくれた。
 
 さて、この話を聴いてぼんやりと考えたのは、やはり、ヨーロッパに比してロシア社会が後進的であったがゆえの、歴史的規定性みたいなものについてである。
 後進的な社会が、先進的な社会を乗り越え、いわば世界史の舞台に躍り出ようとするときの、ふたつの性向、つまり伝統的に継承されてきたかのように思われる精神性への依拠と、既存の近代性を乗り越えるための前衛化・・・。シャガールもマレーヴィチも、この二重の性向を抱えている。シャガールは、相対的に精神主義の度合いが高く、マレーヴィチは相対的に表現意識を先鋭化させる度合いが高かったということか。
 一般的にいえば、芸術的ラジカリズムは、“適度な後進性”のなかに、必然的に胚胎されるということなのだろう。


4 近藤一弥講演「“視線を超えて”―ロシア映画とグラフィック・デザイン−」:感想

 「ミュージアム・スクール」2コマめの講義は、グラフィックデザイナーで東北芸術工科大学教授の近藤一弥氏による、映画とグラフィック・デザインの作品紹介と解説であった。
 近藤氏は、ロシア・アヴァンギャルドのなかで映画が大きな意味を持ったとして、その理由を、大衆的なものであり、複製されて流布されるものについて、アヴァンギャルドたちが新しい表現の可能性をみていたからであると語った。
 講義の中では、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」とジガベルトフの「カメラを持った男」の一部がDVD上映された。

 エイゼンシュタインが演劇的なモンタージュ手法を用いたのに対して、ジガベルトフは演出・脚本なしにコラージュ的に作品を構成し、ドキュメンタリー風に創っている。
 「カメラを持った男」は1929年製作の作品だが、撮影者を撮影している“メタ映画”という性質をももっている。
 一方、この時期のグラフィック・デザイン作品では、マヤコフスキーがコピーライトを担当し、ロドチェンコがデザインを担当するというコンビの作品が目を惹く。
 また、リシツキーらの作品も、デザインとタイポグラフィの代表的作品として注目される。
 さらに、この時代のポスターや雑誌の表紙などに、屋外の写真を多様に構成した作品が現れたことには、35mmカメラの登場とその普及が大きく影響している。

 じぶんの感想としては、「戦艦ポチョムキン」、なかでもそのハイライトである「オデッサの階段」のシーンを、あらためて、明るく綺麗な画像で観せられると、いろいろとそのアラが視えてきた。たとえば、モンタージュによる繋ぎの仕方が、いわば、間延びしているというか、スピーディに展開していっていないというか、そういう側面が目についた。
 人物をアップで描いているシーンと、群集を引いて撮っているシーンの繋ぎがぎこちなく、それゆえ画像の質感が異なってしまっている(これはアップで映される役者のメイクによるという側面もある)ので、べつべつの映画をつなぎ合わせたように見えるのである。
 また、じぶんとしては、近藤氏の話に、じぶんが疎いグラフィック・デザイン作品への評価の目線というか、批評の観点というか、そういうものの具体的な現れを期待したのだったが、その点では期待はずれだった。(実作者の話というのは、往々にしてこのように、それ自体としてはつまらないものである。作品がすべてを語るということなのかもしれない。)

 ところで、余談だが、「オデッサの階段」のシーンには、両足のない浮浪者然とした男が、両手だけで体を浮かせながら、ぴょんぴょんと階段を逃げ下る姿が何回かアップで挿入されている。この男が他のシーンに出てくるのかどうか記憶がないので、作者がなぜここに足のない男をフューチャーしているのか、妙に気になった。

                                       
                                                      (了)







  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:05Comments(0)美術展