2008年05月09日

映画「ノーカントリー」



 山形フォーラムで、コーエン兄弟(Joel Coen & Ethan Coen)の「No Country For Old Man」を観た。
 劇場で映画を観るのは、ほんとうに久しぶりだった。なにしろ、フォーラム・ソラリスの会員証の期限(半年)が切れていた。それもずいぶん前に。
 それで、というわけでもないが、この映画には“ああ、映画を観たなぁ”と思わせられた。
 そういう意味では、これはとても印象的な作品だったし、それゆえ宣伝文句のとおり、コーエン兄弟の「傑作」ということになるのだろう。
 だが、世評の高い(らしい)この作品について、天邪鬼たるじぶんは、あえて愚かな評言を述べ、あえてつまらないケチをつけるとしよう。


 この作品は、いくつかのとても映画的で、優れたシーンをもっている。
 まず、始まりのシーンがいい。テキサスの砂漠に、獲物を狙うハンターが現れる。
 ライフルの照準器の向こうに草食動物が現れ、銃弾が発射される。動物は、尻に銃弾を受け、半矢のようなようすで走り去る。
 そして、ハンターは、その砂漠で、メキシコ人らしい犯罪組織の麻薬取引をめぐる銃撃戦の現場、すなわち穴だらけになった車や散乱する死体に遭遇し、そこで、深手を負いながらもひとりだけ生き残っていた男に、水をくれ、と頼まれる。
 ハンターは、水はない、と答えて立ち去る。
 現場に落ちていた血の跡をたどってゆくと、鞄を脇に抱えて息絶えている男をみつける。ハンターは、大量の現金が入ったその鞄をネコババする。
 そしてじぶんの家に帰り、就寝するのだが、夜更けにがばりと起き上がり、水をもって現場に戻る。・・・・この起承転結の“起”の部分が素晴らしい。これが映画だ!というシーンが続き、作品世界に惹き込まれていく。

 つぎに、このハンターを追跡する冷酷な殺し屋が登場する。
 それがハビエル・パルデムというスペイン出身の役者が演じるアントン・シガーだ。
 この登場人物の髪型がまた異常者的でいい。前髪を8:2くらいに掻き分けたオカッパ調だ。
 強烈な存在感をもって描かれるこの殺し屋の、標的に迫りくるその迫り方というものが、いかにも“こわい”(淀川長治調で)。
 映画の宣伝HPにあるインタビューで、ハビエル・パルデムはこの主人公の役を「神話的」殺人者として受け止めて演じたと述べている。
 たしかに砂漠の雑貨屋で買い物をし、そのレジにいる店のオヤジにコイン・トスをして、表か裏か答えさせる場面の、サイコパス的な凄みはなかなかのものである。
 そして、自分を追跡者として雇ったボスを含め、他者に対して極めて規範的かつ厳格に対応し、標的と自分の内的基準から外れた者については、有無を言わせず殺し尽くす。・・・その人物造形は、(無表情で標的に迫ってくる描写や怪我を自分で手当てするシーンなどで、ちょぴり「ターミネター」を連想させるとしても)とても印象に残る。

 なぜそれが印象的なのか、振り返って考えてみる。
 まず、この役を演じている男が、アングロサクソン風ではないこと。顔が大きいこと。英語の発音がくぐもっていて訛っている(らしい)こと。・・・ハビエル・パルデムの役柄上の風貌は、なにか原理主義的な求道者のようで、その髪型と相俟って一種アメリカ原住民の血が流れているような印象さえ与える。
 ようするに、作品における人物像の設定とそれを演じる役者の存在感。この、いわば基本的要素によって印象的なのだ。
 コーエン兄弟は、この基本的要素を、ためらうことなく、どん、と観客の前に突き出す。

 つぎにこの作品に陰影を与えているのは、トミー・リー・ジョーンズ演じる老保安官である。
 老成のなかにも幾許か癖があり、まじめなのかいやいや仕事をしているのかわからない。
 かれはこの事件を追うのだが、繰り返される殺人への対応に疲れたかのように、なぜか突然リタイアしてしまう。・・・それは「逃亡者」の執念深い刑事役と対照的だ。
 映画の最後は、保安官を辞職した翌朝、朝食のテーブルでこの老人が、老妻に昨夜見た夢の話をするところで唐突に終わる。
 この終わり方もまた、映画的といえばきわめて映画的だ。
 ここでも、コーエン兄弟は、この作品のテーマらしきものを、ぽん、と観客の前に放り出して消える。

 もうひとつ、憎らしいのは、金を持って逃げた男が殺される場面の構成である。
 一度は殺し屋と銃撃戦をして深手を負いながら命からがら逃走するのだが、その最後は誰に殺されたのか明らかにされない。
 道を歩いていたら、その道に面したホテル(?)のプルーサイドから、女にビールを飲んでいかないかと誘惑されたところで場面が転換し、再びその現場の場面になると、すでにその建物の中で死体となって横たわっている。
 殺し屋との対決を期待していた観客は肩透かしを食わされる反面で、あっ、と声をあげ、そして舌打ちしてしまう。
 ここでも、場面の提出の仕方は唐突で、その構成は秀逸である。

 だが、しかし、このように観客の前に登場人物の存在感や唐突な喪失を直截的に放り出すという手法は、あざやかといえばあざやかで印象的なのだが、ずるいといえばずるいのである。
 ようするに、この作品には比較的明確なストーリーがあるのに、本質はコラージュになっている。
 作品を作る方法の“いいとこ取り”なのだ。


 さて、この作品にはコーマック・マッカーシーによる小説の原作があるのだが、それはそれとして観客は「No Country For Old Man」というこの映画作品のテーマが意味するものは何かと考えさせられる。
 じぶんのような上等でないアタマでは、麻薬や金をめぐって殺し合いが果てしなく続くこの世で、さらには「神話的」な殺し屋まで“活躍”する現在において、それについていけない者、つまり古きよき時代をいまだに「人間的に」生きるしかない老人には、住む土地がない、生きる世界がない、ということを描こうとしているのか・・・と、至極単純な考えに傾く。
 そしてせいぜいアタマを廻らしても、この老人の“住む世界がない”という状況は、反転して、「神話的」あるいは求道的に殺しを続けていく主人公にとっても、“住む世界がない”のだという凡庸な理解へと繋がり、やがて世界全体の殺伐さ=<殺伐さとしての世界>の感受へと繋がるだけだ。


 じぶんは、この作品のもつ雰囲気、つまり殺伐さと人間らしさのリニアな提出の作法が、けっこう好きだ。これは「ファーゴ」にもあったような気がする。
 そして、世間から、作品としては高く評価されることについても、まぁそんなものだろうなと思う。
 しかし、あえて難癖を付ければ、この映画作品は、“映画という方法”に甘えている。
 “映画という方法”に甘えられる人間と、それをホイホイたたえる映画ファンが、天邪鬼なじぶんは、どうも好きになれない。
 じぶんこそが、“映画的なるもの”を求めて映画館に足を運んでいるというのに。


 ・・・・あっは。
                                                                                                                                                                                                                                       
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 20:37Comments(1)映画について