2008年02月12日
『coto』第15号
奈良の安田有さんから、『coto』第15号(2008年1月28日、キトラ文庫発行)が送られてきた。
この号に、高啓は、詩「唯名論」を寄稿している。
15号では、散文では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その三」、安田有「死の作法」、詩では、築山登美夫「聖女よ、」、今村秀雄「赤い手袋」、安田有「遠くへ」などが印象的だった。
佐伯氏の文章は、現代美術家・太田三郎の「シード・プロジェクト」に関するもの。
植物の種子をそのまま和紙に封入し、文字やミシン目を入れて「切手」化した作品を、実際の切手とともに貼って、両方に消印を押した郵便を送るというプロジェクト。
佐伯氏は、「このように『プロジェクト』全体として見ると、種子入りの『切手』は、あくまでも水面上に出た氷山の一部分であり、全体としては、『種子』というモチーフを用いながらする『存在証明』のパフォーマンスや、コミュニケーションの試み、『公』と『私』や生命の連続性についての問いかけなど、さまざまな課題がからみ合わさった企みであることが見えてくる。」と述べている。
なお、佐伯氏はこの文章の後半で「プロジェクト」のバリエーションについても述べているが、これがじつに興味深い。
安田氏の文章は、学生時代から親しくしていたTさんの、中小企業経営の行き詰まりからと思われる飛び降り自殺に触れ、現在における死について考えを廻らせるもの。
そこで安田氏は、「なぜ人を殺してはいけないか」をめぐる山折哲雄や石川九楊の発言を踏まえ、ドストエフスキーやカミュの小説を渉り、自傷・多傷行為に「<無(死)>の衝動」を看て取りながら、やがて自らの生と死を見つめてこう言う。
「いま私は、どのような死も尊厳的でないものはないと思っている。私たち生者がそう思うならばである。 『人の死は人の尊厳である』と深く心に感じたならば、人は人を殺したりはしない。ここで<死>とは<いのち>のことである。」
「やっぱりTさんの<死の作法>には反対だ。<いのち>は人倫を超えた<無償絶対>に属する。それに手をかけることは赦されない。」
安田氏の詩にも、かれが還暦を迎えたということもあってか、自分の生と死を見つめる視線が色濃く翳を落としている。
そういえば、高啓の「唯名論」にも、死のイメージが忍び込んでいる・・・。