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2007年08月14日

『山形詩人』第58号



 (1)高啓の作品等について
  この号には、詩「初期詩篇1 ヨハンへの手紙」と、論争的な散文「他者非難によるデッサン法の不毛について」を寄稿している。
  前者は、22歳のときの作品。今回の発表に当たって部分的に手直ししているが、ほとんど原型を保っている。
  後者は『山形詩人』第57号に掲載された、大場義宏氏による「詩人としての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」(これは東北芸術工科大学東北文化研究センター刊の『真壁仁研究』第7号に掲載された高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」への論難である)を受けて、反応したもの。
  この文章には、『山形詩人』の編集者・高橋英司氏によって「反論」と冠がつけられたが、大場義宏氏の文章は空回りするばかりでそこに議論すべき内容が存在しないから、厳密に言えば、反論という性格の文章ではない。したがって、編集者が勝手につけた「反論」という冠に異和を感じる。
  この文章を寄稿した理由は、当該文章のなかでも述べているが、大場氏が高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を誤読・曲解し、かつは歪めて引用しているので、かかる火の粉を払う意味でも、『山形詩人』の読者でありながら『真壁仁研究』第7号を読む機会のない人々に、直接「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を読んでいただけるよう案内したいと思ったからである。
  なお、このやり取りの行きがかり上もあって、従来の転向研究や吉本隆明の転向論に対する私の見方(評価と批判)を再度簡明に示した。

 (2)編集者・高橋英司氏による「後記58」について
  『山形詩人』の編集後記はいつも編集者の高橋英司氏が書いている。
  今回の冒頭部分を引用し、感想を述べる。
  「前号掲載の大場論考に対する高啓の反論を掲載した。同一誌面における同人間の論争・応酬と
  なるので、読者からは内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ。表現者としての
  『あがすけ性』や詩と思想に関わりながら、真壁仁の歴史的評価についての微妙な問題を含むテ
  ーマであるので、さらに論争が進展したならば、読者からの投稿をも募る用意がある。ただし、大
  場論考は、誌面の都合上、一挙掲載とはならず、牛歩の歩みであるので、読者からの投稿掲載は
  年を越す。」

  まず、意味不明な点について。
  「同一誌面における同人間の論争・応酬」だと、なぜ「内部対立のように受け取られはしないかとい
  う懸念をもつ」のか。論争・応酬が「同一誌面」であること(同じ号に掲載されていること)になにか問
  題があるのか。
  べつにない、というか、読者にとっては見やすくて便利なばかりではないのか。
  (ここまではただの突っ込み・・・・)

  次に、異和感について。
   「同人間の論争・応酬」だと、「内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ」という場
  合、まず大事なことは「内部対立」が何を意味しているかだ。
   ある論争や応酬が「対立」に見えるかどうかは、その内容を読んだ読者が判断することだ。
   ところで、今回のやり取りは明らかに大場氏による高啓への論難・罵倒の文章から始まっている
  し、それに対して高啓は「反論」で大場氏の不毛を指摘しているから、このやり取りを「対立」と看做
  されても仕方ないだろう。
   また、品の良くない悪口が書かれた「同人間の論争・応酬」を「対立」だと思われたくないなら、編
  集者としてそのような原稿を掲載しなければいいのである。
   もちろん、私は、この大場氏の文章は、迷妄と衰弱ゆえの放言とはいえ、ご本人の評価を下げる
  だけで、その悪質さはまだ可愛らしい程度だから掲載しても構わないと思うし、最初に一方の批判
  や論難を掲載した以上は、やり取りがある以上、とことんそれを掲載していくべきだと思う。
   そこで問題は、次に、その対立が議論のうえでの対立なのか、それとも同人誌を運営していく上
  での対立(たとえば「こんな奴とは同じ媒体に寄稿したくない」などという反目)に繋がるのかという
  ことになってくる。
   しかしこの点についても、すくなくても高啓の方は、このような論難を受けてうんざりしてはいる
  が、これによって『山形詩人』から抜けようなどとは思わない。
   そもそも「内部対立」というときの「内部」、そこでなんとなく含意されているかのような同人誌の共
  同性みたいなものについて、『山形詩人』にいてとくに感じたことはない。そこが『山形詩人』のいい
  ところなのだ。
   同人間の個人的な繋がりはあり、従ってそれが外部から見ればなんらかの「内部」性に見えるの
  は止むを得ないとして、同人の「誌」としての共同性みたいなものは高橋英司氏も意識していない
  のではないか。もしそうだとすれば、この書き方は読者に誤解を与えるだろう。
   また、読者に「内部対立」があると看做されたところで、たいしたことはない。
   逆に、その方が面白がってよく読んでくれるようになるような気がする。

   最後に、真壁仁をめぐる論争について。
    『山形詩人』におけるこのやり取りは、繰り返すが、同誌第57号に掲載された大場義宏「詩人と
   しての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」が、高啓の論
   文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」(『真壁仁研究』第7号掲載)を取り上げて論難し
   たことに始まっている。
    しかし、だが、大場義宏氏のこの不毛な論難の文章のモチーフはなにか。
    一言で言ってしまえば、土着的な村落共同体(ゲマインシャフトリッヒなもの)を否定されること
   に対する大場氏の苛立ち、そして不安からくる敵(近代的なゲゼルシャフトリッヒなるものの信奉
   者)の創出とその敵への攻撃による心理的な自己防衛である。
    このような大場氏のモチーフは、高啓が「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」で行った
  真壁仁をめぐる考察、つまり同時代人として生きてきた山形の状況のなかに真壁仁を歴史的具象
  性として位置付け、戦後も繰り返された転向の意味を問い、人々が「進歩的地方文化人」としての
  真壁仁という像をどのように成立させてきたか、その機制を論理的に考察しようとしたモチーフと、
  そのままではけっして噛み合うことがないだろう。
   大場氏が誰かから仕掛けられるべき論争は、私たちの周りから見事に消失してしまった村落共
  同体的なものを表現の中心的価値に位置づけることにいまどのような意味があるのか、あるいは
  そこにこだわるということがいまどのような迷妄や病理を表現してしまっているのか、そのような議
  論ではないかと思う。(これは吉本隆明・黒田喜夫論争にも一脈通じる視角である。)
   逆に言えば、このような議論をする相手や機会がないから、大場氏はたまたま目に付いた高啓
  の発言(ゲマイシャフトリッヒがどうとか、大場氏が目の敵にしている吉本隆明がどうとか言ってい
  る高啓論文)に噛み付いているようにも見える。
   もし編集者たる高橋英司氏が、『山形詩人』誌上で真壁仁をめぐる論争の進展や深化のために
  「読者からの投稿をも募」ろうとするなら、大場氏による冗長な論難の文章とは一線を画し、つまり
  大場ルートは大場ルートとして確保しつつも、これとは別に「真壁仁検証ルート」ともいうべき議論
  の道筋や問題意識を定めたうえで、このように呼びかけるべきではないか。
   それは、『山形詩人』が『真壁仁研究』(7号で廃刊)が仕残した真壁仁の批判的検証を引き受け
  ることにもなるだろう。

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    い。有料(頒価500円・送料無料)でお送りします。








  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:09Comments(0)作品評